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25.依頼票を書いた男

ステインに戻ったのは、氷原を出てから9日後だった。


Lv221。背中の傷は塞がったが、痕は残った。


ギルドの扉を押すと、ミリアが顔を上げて、そして少し眉を寄せた。


「ノルンさん。お帰りなさい。……あの、少しよろしいですか」


「何かありましたか」


「トトくんのことです」


   ◇


トトは、冒険者を辞めていなかった。


だが、狩りには出ていなかった。


代わりに、ギルドの雑務を手伝っていた。掲示板の紙の貼り替え、依頼票の整理、記録の書き写し。左脚が完治していないので、動き回る仕事はできない。


「本人が希望しました」


ミリアは言った。


「『掲示板の仕事がしたい』と」


「……なぜ」


「分かりません」


   ◇


俺は、書庫でトトを見つけた。


床に座り込んで、古い依頼票の束を、一枚ずつ広げていた。


「トトくん」


彼は顔を上げて、少し笑った。


「ノルンさん。おかえりなさい」


「何してるんだ」


「調べもの、です」


彼は紙の束を指した。


「先月の分の、東の森の依頼票です」


   ◇


「……なぜ、それを」


トトは、しばらく黙っていた。


それから、こう言った。


「ぼく、ずっと考えてたんです」


「うん」


「ノルンさんが『谷筋がいい』って言ったのは、東の森に岩熊が来ることを、知らなかったからですよね」


「……そうだ」


「じゃあ、誰も知らなかったのかなって」


彼は紙を1枚、俺に差し出した。


「これ、見てください」


   ◇


それは、依頼の完了報告書だった。


日付は、あの日の11日前。


『東の森・北斜面。薬草採取。完了。


 備考。北斜面の中腹に、岩熊の掘り跡と糞を確認。かなり大きい。冬眠明けの個体と思われる。北の峰から降りたものか。谷筋の上にあたるため、注意喚起を要すると考える。


 報告者 ハルヴェ・トーン(Dランク)』


   ◇


俺は、その紙を持ったまま、動けなかった。


「11日前です」


トトが言った。


「この報告、ちゃんと出てるんです。でも、掲示板に、注意書きが貼られてないんです」


   ◇


「トトくん。掲示板の注意喚起の記録は」


「こっちです」


彼は、別の綴りを引っ張り出した。俺はページをめくった。


先月分。注意喚起は、その月に7件出ている。


『西門外・野盗の目撃情報』


『毒沼・水位上昇につき立入注意』


『北街道・落石』


——岩熊の記載は、ない。


   ◇


「これ、誰が受け取った?」


「受付印は、ケルスさんです」


「ケルス?」


「先月まで、ここにいた職員さんです。今はいません」


「辞めたのか」


「はい。先月末に」


   ◇


俺は、ミリアのところへ行った。


「ケルスという職員のことを、教えてください」


ミリアの表情が、初めて、明確に固くなった。


「……なぜ、その名前を」


「岩熊の報告書に、受付印がありました」


   ◇


ミリアは、しばらく黙っていた。


それから、カウンターの下から、一冊の帳簿を出した。


「ノルンさん。これは、私が個人的に調べていたものです」


「……」


「ケルスは、先月の末に、突然辞めました。理由は『実家の都合』でしたが、その2日後に、南通りの一等地に部屋を借りています」


「……」


「彼の仕事は、依頼票の危険度査定と、注意喚起の掲示でした」


彼女は帳簿を開いた。


そこには、線でつながれた名前が、いくつも書かれていた。


いちばん上に、一つの名前があった。


『バルドー・ケイン 商人ギルド 第二席』


   ◇


「この地方の素材の相場を、実質的に握っている人物です」


ミリアは言った。


「鉄、薬草、獣皮、鉱石。市場に出る前に、ほとんどを買い取っています」


「その男が、なぜ注意喚起を潰すんですか」


「潰したい理由があるからです」


彼女は帳簿の別のページを開いた。


「先月、彼は東の森の薬草の採取を、大量に発注しています。契約したのは、駆け出しの冒険者ばかり。31人」


「31人」


「1人あたりの報酬は、1日15銅貨です。相場の半分以下です。そして、この31人は、全員Fランクです」


   ◇


俺には、その先が読めた。


「注意喚起が出たら」


「出たら、31人は、東の森に入りません」


ミリアは言った。


「入らなければ、契約は履行されません。バルドーは、この月の納品が間に合わない」


「だから」


「だから、報告書は、掲示板に貼られませんでした」


   ◇


俺は、書庫の壁に手をついた。しばらく、そうしていた。


——待て。落ち着け。


俺は、自分の中で何が起きようとしているのかを、正確に自覚した。


俺は今、ものすごく安心しかけている。


「俺のせいじゃなかった」と思いかけている。


俺が谷筋を勧めたのは間違いだった。だが、岩熊の情報が掲示板に出ていれば、あの子たちは行かなかった。出ていれば。出さなかった人間がいる。


だから、俺のせいじゃない。


——ふざけるな。


   ◇


俺は、握った拳を、書棚に叩きつけそうになって、やめた。


やめたのは、隣にトトがいたからだ。


「ノルンさん」


「……なんだ」


「ぼく、これ調べて、思ったんですけど」


彼は、床に座ったまま、俺を見上げた。


「ノルンさんの言ったこと、正しかったんですよね」


「……」


「谷筋のやり方、間違ってなかったんです。ぼくたち、3組ちゃんと処理したんです。狼だけなら、たぶん、勝ってたんです」


「トトくん」


「だから、悪いのは、この人ですよね」


彼は帳簿の名前を指した。


   ◇


俺は床に座り、トトと目線を合わせて、こう言った。


「半分は、そうだ」


「半分?」


「この男が注意喚起を潰したのは、事実だ。それは許されない。俺はこの件を、どうにかする」


「……」


「でも、もう半分は、俺だ」


「そんなこと」


「聞いてくれ」


俺は、彼の目を見た。


「俺が『谷筋がいい』と言ったとき、君は、行くかどうかを迷ったか?」


トトは、口を開いて、そのまま止まった。


「……」


「迷ってないだろ」


「……はい」


「それが、俺のやったことだ」


俺は言った。


「俺は君に、情報を渡したつもりだった。でも君は、それを情報として受け取ってない。俺が言ったから、正しいと思った。だから迷わなかった」


「……」


「迷ってさえいれば、たぶん、君はもう1日、下調べをした。誰かに聞いた。——現に君は、あの報告書を自分で掘り当てた。俺は、君に見せられるまで、あんな紙があることすら知らなかった。あと1日あれば、君は行く前にそれを見つけていたんだ」


   ◇


トトは、しばらく黙っていた。


それから、こう言った。


「……ノルンさん、ずるいです」


「なんで」


「そうやって全部自分のせいにしたら、ぼくが怒れないじゃないですか」


   ◇


俺は、少し笑った。


「じゃあ、怒っていいよ」


「怒りませんよ」


彼は膝を抱えた。


「怒れたら、楽なんですけど」


   ◇


その日の夕方、俺はバルドー・ケインに会いに行った。


商人ギルドの建物は、ステインの中でいちばん立派だった。石造りの3階建て。玄関に金の意匠。


俺は名乗って、面会を求めた。


驚いたことに、その日のうちに通された。


   ◇


執務室は、絨毯が敷かれていた。


窓が大きく、光がよく入る。壁に地図が3枚。この地方と、大陸全体と、交易路の図面。


机の向こうに、男が座っていた。40代。痩せている。仕立てのいい灰色の上着。髪をきっちり後ろへ撫でつけていて、指が長い。


「バルドー・ケインです」


彼は立ち上がって、椅子を勧めた。


「ノルンさんですね。お噂は伺っております。79日でDランク、単独でオーガ」


「その話は、もういいです」


「それは失礼を」


彼は、自分で紅茶を淹れた。


   ◇


俺は《看破》を使った。


 バルドー・ケイン 格:下(推定)


——弱い。街の衛兵より下だ。


俺がその気になれば、この部屋で、瞬きの間に殺せる。


   ◇


「先月の、東の森の岩熊の報告書についてです」


俺は本題に入った。


バルドーは、紅茶を差し出しながら、まったく表情を変えなかった。


「ああ、その件でしたか」


「ご存じなんですね」


「ええ。ケルス君から報告を受けています」


「掲示されなかった理由を、伺えますか」


「掲示する必要がないと判断したからです」


彼はカップを置いた。


「岩熊は毎年出ます。3年に一度か二度、と言われますが、実際にはもっと多い。すべて掲示していたら、掲示板が注意書きで埋まります」


「子供が3人、死にかけました。1人は死にました」


「存じております」


彼は、まっすぐ俺を見た。


「痛ましいことです」


   ◇


俺は、その言い方に寒気がした。嘘をついていないのだ、この男は。そのうえで、次の月も同じことをする。


「ノルンさん」


彼は指を組んだ。


「冒険者は、この街で毎年380人ほど登録されます」


「……」


「そのうち、170人ほどが、半年以内に辞めます」


——ドロテアと、同じ台帳を見ている。


「私は、辞める側の170人を、辞める前に使っているだけです」


彼は言った。


「彼らは、どのみち辞めます。私が雇わなくても辞めます。雇えば、辞めるまでの半年間、彼らには収入があります。私には納品があります。誰も損をしていない」


「……死んでますよ」


「毎年17人ほど死にます。私が雇わなくても、同じ数が死にます」


——17人。


ドロテアの数字は384人と211人だった。この男は380と170に丸めている。同じ台帳を、片方は名前で読み、片方は概数で読む。


その17人の名前を全部覚えている人間が、この街にひとりいる。


この男は、たぶん、ひとりも覚えていない。


「同じじゃないでしょう」


「同じですよ」


彼は微笑んだ。


「ノルンさん。あなたも、ひとり殺したそうですね」


   ◇


俺は、剣の柄に手をかけた。


かけて、止めた。


——抜けば、負けだ。


この男は、暴力で回っていない。


暴力で回っていない相手を、暴力で潰したら、俺はただの人殺しになる。そして相場は、明日には別の誰かが握る。


バルドーは、俺の手が止まるのを見て、初めて満足そうな顔をした。


「賢明です」


「……」


「私を殺しても、値段は下がりません」


   ◇


俺は立ち上がった。


「ケインさん」


「はい」


「一つだけ、伺っていいですか」


「どうぞ」


「あなたは、算盤で人を数えていますね」


バルドーは、少しだけ、目を細めた。


「ええ。それが商人です」


「分かりました」


俺は扉に向かった。


そして、振り返らずに言った。


「なら、算盤で潰します」


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