24.同じ手順を踏んだ者
北の氷原は、ステインから馬車で9日かかった。
大陸の北端。森林限界を越えて、木が一本もなくなり、地面が全部白くなる場所。空気が痛い。息を吸うと鼻の奥が凍る。
俺は、そこに、たった一つのものを取りに来た。
◇
《静寂の祭壇》。
氷原の東、風が抜ける丘の上に、それはある。
半分が氷に埋まった、古い石の輪。中心に平らな台座があって、周囲に8本の柱が立っている。柱はどれも折れていて、一番高いもので俺の胸くらいまでしかない。
そして、この祭壇には、取得条件がある。
一、日没から夜明けまで、祭壇の石の輪の中にいること。
二、その間、一言も発しないこと。
三、その間、一度も武器を抜かないこと。
四、その間、モンスターに3度、追われること。
◇
改めて書き出すと、頭のおかしい条件だ。
真冬の氷原で、一晩、武器を持たずに、声も出さずに座り続ける。そこへ氷狼が来る。雪蟲が来る。追われる。逃げる。だが武器は抜けない。悲鳴を上げた時点で、その夜の分は全部無効になる。
これを3回。
日本サーバーでこれを最初に達成したのは、「静寂の祭壇祭り」と呼ばれた3週間の総当たり検証の最後だった。数百人がありとあらゆる条件を試して、誰も光らせられず、最後に、ある廃人が「そもそも何もしないのが条件なんじゃないか」と言い出して、一晩座って、追われて、逃げて、達成した。
——誰も、思いつかない。
だから、この世界の誰も、これを持っていない。
◇
得られるのは、スキル《看破》だ。
効果は単純で、対象の「概算の格」が見える。
このゲームでは、他人のレベルは基本的に見えない。パーティを組めば表示されるが、それ以外の相手の強さは分からない。《看破》は、それを見えるようにする唯一のスキルだった。
そして、この世界での価値は、ゲームの比じゃない。
俺は今、他人の強さを推測でしか測れない。ガウスがどれくらい強いのか、レインがどれくらい強いのか、「たぶんこれくらい」としか言えない。
もしこの世界で誰かが俺を狙うなら——たとえば、俺と同じものを持った誰かが——
俺は、そいつの格を、知りたい。
◇
日没の、少し前。
剣を置く前に、俺はステータスウィンドウを開いた。
《朽ちた儀礼剣》 段階:4/5
次の段階まで:あと 3 体
——3体。
3年半前、この剣の育成情報を掲示板で読んだとき、俺は「3000体も殴るやつがいるか」と思った。実際、ゲームでは面倒くさがって育てないやつのほうが多かった。当時の俺は、Lv400の装備を金で買って、この剣は倉庫に放り込んだ。
この世界には、放り込む倉庫がなかった。
だから、使い続けるしかなかった。
骸兵。イワトカゲ。ツノイノシシ。リザードマン。ロックゴーレム。灯守り。オーガ。溶岩トカゲ。
数えたわけじゃない。ウィンドウが、勝手に数えていた。
◇
俺は、氷原の縁まで戻って、氷狼を3頭探した。見つけるのに、半刻かかった。
3頭目の首を落とした瞬間、手の中で、剣が鳴った。
鍔が、鳴ったのだ。金属が、内側から一度だけ、澄んだ音を立てた。
俺は、刃を空に翳した。
白銀の刃の表面を、細い線が走った。刃元から先端へ、ゆっくりと。伸びきったところで、二本目が走った。三本目。
三本の線が、刃の中に、光の筋として残った。
◇
《儀礼剣アルヴェイン》
攻撃力 +180
段階:5/5
◇
——名前が、変わった。
俺は、その場に立ったまま、しばらく動けなかった。
◇
3年半、俺はあのゲームで、数え切れないほど装備を手に入れた。レイドの報酬で。トレードで。金で。
だが、そのどれ一つとして、この剣のような顔つきはしていなかった。手に入れた時点で完成していて、名前も数字も最初から決まっていた。俺はそれを拾っただけだ。
◇
この剣は、俺が殴った回数で、できている。
鑑定士に「屑鉄ですな。5銅貨」と言われた剣だ。
◇
「……はは」
白い荒野に、俺の声だけが響いて、すぐ吸われて消えた。
◇
日没。
俺は、その剣を、石の輪の外に置いた。
今夜は、一度も抜けない。3000体かけて完成させた剣を、完成した日に、置いていく。
——上等だ。
俺は、輪の中央に座った。
◇
最初の2時間は、何も来なかった。
寒い。ただ寒い。
Lv215のVITは、寒さをある程度は無効化する。凍傷にはならない。だが「寒くない」わけじゃない。指先の感覚が薄れて、耳が痛くなって、体の芯が重くなる。
俺は膝を抱えて、じっとしていた。
◇
3時間目に、氷狼が来た。3頭。風上から回り込んできた。俺の匂いを嗅ぎつけたらしい。
Lv160。今の俺なら、剣があれば3秒で片付く。
——剣は、輪の外だ。
俺は立ち上がって、走った。氷狼は追ってきた。
雪の上を、俺は全力で走った。Lv215のAGIは氷狼より速い。だが足元が雪だ。何度も沈んで、何度も転んだ。
転ぶたびに、声が出そうになった。
出さなかった。
歯を食いしばって、口の中を噛んで、飲み込んだ。
1キロほど走って、氷の裂け目を飛び越えた。氷狼は追ってこなかった。
一度目。
◇
祭壇に戻って、また座った。
6時間目に、雪蟲の群れが来た。これは走って逃げられない。地面の下を移動するからだ。
俺は氷の岩の上に登った。岩の下で雪が盛り上がって、蟲が何度も突き上げてきた。俺は岩の上で足場を移し続けた。2時間、そうしていた。
二度目。
◇
9時間目。——来ない。
もう夜明けが近い。空の東側が、うっすら青くなってきている。
3度目が来なければ、この一晩は無駄になる。
俺は座って、待った。
指の感覚は、もうなかった。
◇
そのときだった。
祭壇の向こうの雪原に、影が立った。でかい。
——白熊種。
《看破》がないから正確な格は分からないが、体格からしてLv200を超えている。氷原の主だ。
そいつは俺を見て、走ってきた。
◇
俺は逃げた。
速い。氷狼の比じゃない。雪の上を、あの巨体が滑るように走ってくる。
俺は丘を駆け下りた。背中で、風の音が変わった。
——来る。
横に飛んだ。爪が、俺の外套の背中を裂いた。背中が熱くなった。血が出ている。
HP 2,431/3,180
——声、出すな。
俺は転がって、立ち上がって、また走った。
白熊は追ってきた。
俺は氷の裂け目を目指した。さっき氷狼を撒いたところだ。
飛んだ。
——届かない。
裂け目は、さっきより広かった。夜明け前に氷が動いたらしい。
俺は空中で身をひねって、対岸の縁に手をかけた。
指が滑った。
落ちた。
◇
裂け目の中は、3メートルほど下だった。俺は氷の底に叩きつけられた。
HP 2,180/3,180
痛い。背中が、燃えるように痛い。
——叫ぶな。
俺は口を両手で押さえた。
上で、白熊が裂け目を覗き込んで、俺を見ていた。
そいつは、しばらくそこにいた。
爪で氷の縁を掻いた。氷の破片が降ってきた。
だが、降りてこなかった。
裂け目が狭すぎて、体が入らなかったのだ。
やがて、白熊は諦めて、去っていった。
三度目。
俺は、氷の底で仰向けになった。上を見ると、裂け目の細い隙間から、空が見えた。
その空が、白かった。——夜明けだ。
◇
視界の隅に、表示が出た。
スキル欄に、新規項目が追加されました。
《看破》——対象の格を推し量る
◇
俺は、氷の壁をよじ登った。背中の傷が開いて、氷が赤く汚れた。
上がって、祭壇まで戻って、置いてきた剣を拾った。三本の光の筋が、朝日を吸って、白く光った。
そして、初めて声を出した。
「……っ、く、そ」
声が出た瞬間、涙が出た。
痛みでか、寒さでか、それとも別の理由でか、自分でも分からなかった。
◇
俺は祭壇の石の輪に、もう一度入った。
朝日が、雪の上を斜めに照らしていた。その光の角度で、雪の表面の凹凸が、はっきりと影になって浮かび上がった。
◇
——足跡が、あった。
◇
俺は膝をついた。
祭壇の石の輪の外側を、ぐるりと一周する足跡が、あった。
一周じゃない。数えた。三周。
3本の輪が、ほぼ同じ場所を、重なり合って走っていた。
◇
俺は、その足跡を、指でなぞった。
新しくはない。表面が風で削れて、縁が丸くなっている。何か月も前のものだ。
小さい。俺のブーツより、ふたまわり。
——水没聖堂と、同じサイズだ。
◇
そして、足跡の「形」が、俺に全部を教えた。
歩幅が、不規則だ。
長いところと、短いところがある。長いのは走った跡。短いのは、走れなくて、じりじり後ろに下がった跡だ。
そして、輪の外側を、きっちり3周している。
——追われた跡だ。
三度、追われて、三度、逃げて、そして戻ってきた。
武器を抜かずに。
声を出さずに。
◇
俺は、雪の上に、両手をついた。
「……嘘だろ」
声が出た。
「なんで、知ってんだよ」
◇
考えろ、俺。
この条件を、独力で見つけられるか?
一晩、氷原で、武器を持たずに、声を出さずに座り続ける。しかも、それを「モンスターに3度追われるまで」続ける。
こんなことを、誰が思いつく。
思いついたとして、誰が実行する。
——思いつかない。
——実行しない。
——できるのは、答えを最初から知っている人間だけだ。
◇
俺は雪の上に座り込んだまま、祭壇を見上げていた。
朝日が、折れた8本の柱に、長い影を作っていた。
俺は、初めて《看破》を使ってみた。
遠くの雪原にいた氷狼に向ける。
氷狼 格:中の下(推定)
——ざっくりしてるな。
ゲームでは数字が出た。この世界では「格」でしか出ないらしい。それでも、ないよりはるかにいい。
自分に向けてみた。何も出なかった。
◇
帰りの馬車の中で、俺はずっと考えていた。
先客は、少なくとも。
——水没聖堂の指輪を持っている。
——《焔心鉱》を必要なだけ持っている。
——《看破》を持っている。
そして、俺がやったことを、俺より先に、全部やっている。
◇
分からないことが、一つあった。
先客の足跡は、何か月も前のものだ。風化の具合からして、半年か、それ以上。
だが。
俺がこの世界に落ちたのは、スミレを投げ飛ばした、あの瞬間だ。
俺は、あの直後に、ここにいる。
だとすれば。
——なんで、俺より先にいるんだ?
◇
答えは、出なかった。
馬車の窓の外で、白い荒野が、後ろへ流れていった。




