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24/27

24.同じ手順を踏んだ者

北の氷原は、ステインから馬車で9日かかった。


大陸の北端。森林限界を越えて、木が一本もなくなり、地面が全部白くなる場所。空気が痛い。息を吸うと鼻の奥が凍る。


俺は、そこに、たった一つのものを取りに来た。


   ◇


《静寂の祭壇》。


氷原の東、風が抜ける丘の上に、それはある。


半分が氷に埋まった、古い石の輪。中心に平らな台座があって、周囲に8本の柱が立っている。柱はどれも折れていて、一番高いもので俺の胸くらいまでしかない。


そして、この祭壇には、取得条件がある。


一、日没から夜明けまで、祭壇の石の輪の中にいること。


二、その間、一言も発しないこと。


三、その間、一度も武器を抜かないこと。


四、その間、モンスターに3度、追われること。


   ◇


改めて書き出すと、頭のおかしい条件だ。


真冬の氷原で、一晩、武器を持たずに、声も出さずに座り続ける。そこへ氷狼が来る。雪蟲が来る。追われる。逃げる。だが武器は抜けない。悲鳴を上げた時点で、その夜の分は全部無効になる。


これを3回。


日本サーバーでこれを最初に達成したのは、「静寂の祭壇祭り」と呼ばれた3週間の総当たり検証の最後だった。数百人がありとあらゆる条件を試して、誰も光らせられず、最後に、ある廃人が「そもそも何もしないのが条件なんじゃないか」と言い出して、一晩座って、追われて、逃げて、達成した。


——誰も、思いつかない。


だから、この世界の誰も、これを持っていない。


   ◇


得られるのは、スキル《看破》だ。


効果は単純で、対象の「概算の格」が見える。


このゲームでは、他人のレベルは基本的に見えない。パーティを組めば表示されるが、それ以外の相手の強さは分からない。《看破》は、それを見えるようにする唯一のスキルだった。


そして、この世界での価値は、ゲームの比じゃない。


俺は今、他人の強さを推測でしか測れない。ガウスがどれくらい強いのか、レインがどれくらい強いのか、「たぶんこれくらい」としか言えない。


もしこの世界で誰かが俺を狙うなら——たとえば、俺と同じものを持った誰かが——


俺は、そいつの格を、知りたい。


   ◇


日没の、少し前。


剣を置く前に、俺はステータスウィンドウを開いた。


 《朽ちた儀礼剣》 段階:4/5

 次の段階まで:あと 3 体


——3体。


3年半前、この剣の育成情報を掲示板で読んだとき、俺は「3000体も殴るやつがいるか」と思った。実際、ゲームでは面倒くさがって育てないやつのほうが多かった。当時の俺は、Lv400の装備を金で買って、この剣は倉庫に放り込んだ。


この世界には、放り込む倉庫がなかった。


だから、使い続けるしかなかった。


骸兵。イワトカゲ。ツノイノシシ。リザードマン。ロックゴーレム。灯守り。オーガ。溶岩トカゲ。


数えたわけじゃない。ウィンドウが、勝手に数えていた。


   ◇


俺は、氷原の縁まで戻って、氷狼を3頭探した。見つけるのに、半刻かかった。


3頭目の首を落とした瞬間、手の中で、剣が鳴った。


鍔が、鳴ったのだ。金属が、内側から一度だけ、澄んだ音を立てた。


俺は、刃を空に翳した。


白銀の刃の表面を、細い線が走った。刃元から先端へ、ゆっくりと。伸びきったところで、二本目が走った。三本目。


三本の線が、刃の中に、光の筋として残った。


   ◇


 《儀礼剣アルヴェイン》

 攻撃力 +180

 段階:5/5


   ◇


——名前が、変わった。


俺は、その場に立ったまま、しばらく動けなかった。


   ◇


3年半、俺はあのゲームで、数え切れないほど装備を手に入れた。レイドの報酬で。トレードで。金で。


だが、そのどれ一つとして、この剣のような顔つきはしていなかった。手に入れた時点で完成していて、名前も数字も最初から決まっていた。俺はそれを拾っただけだ。


   ◇


この剣は、俺が殴った回数で、できている。


鑑定士に「屑鉄ですな。5銅貨」と言われた剣だ。


   ◇


「……はは」


白い荒野に、俺の声だけが響いて、すぐ吸われて消えた。


   ◇


日没。


俺は、その剣を、石の輪の外に置いた。


今夜は、一度も抜けない。3000体かけて完成させた剣を、完成した日に、置いていく。


——上等だ。


俺は、輪の中央に座った。


   ◇


最初の2時間は、何も来なかった。


寒い。ただ寒い。


Lv215のVITは、寒さをある程度は無効化する。凍傷にはならない。だが「寒くない」わけじゃない。指先の感覚が薄れて、耳が痛くなって、体の芯が重くなる。


俺は膝を抱えて、じっとしていた。


   ◇


3時間目に、氷狼が来た。3頭。風上から回り込んできた。俺の匂いを嗅ぎつけたらしい。


Lv160。今の俺なら、剣があれば3秒で片付く。


——剣は、輪の外だ。


俺は立ち上がって、走った。氷狼は追ってきた。


雪の上を、俺は全力で走った。Lv215のAGIは氷狼より速い。だが足元が雪だ。何度も沈んで、何度も転んだ。


転ぶたびに、声が出そうになった。


出さなかった。


歯を食いしばって、口の中を噛んで、飲み込んだ。


1キロほど走って、氷の裂け目を飛び越えた。氷狼は追ってこなかった。


 一度目。


   ◇


祭壇に戻って、また座った。


6時間目に、雪蟲の群れが来た。これは走って逃げられない。地面の下を移動するからだ。


俺は氷の岩の上に登った。岩の下で雪が盛り上がって、蟲が何度も突き上げてきた。俺は岩の上で足場を移し続けた。2時間、そうしていた。


 二度目。


   ◇


9時間目。——来ない。


もう夜明けが近い。空の東側が、うっすら青くなってきている。


3度目が来なければ、この一晩は無駄になる。


俺は座って、待った。


指の感覚は、もうなかった。


   ◇


そのときだった。


祭壇の向こうの雪原に、影が立った。でかい。


——白熊種。


《看破》がないから正確な格は分からないが、体格からしてLv200を超えている。氷原の主だ。


そいつは俺を見て、走ってきた。


   ◇


俺は逃げた。


速い。氷狼の比じゃない。雪の上を、あの巨体が滑るように走ってくる。


俺は丘を駆け下りた。背中で、風の音が変わった。


——来る。


横に飛んだ。爪が、俺の外套の背中を裂いた。背中が熱くなった。血が出ている。


 HP 2,431/3,180


——声、出すな。


俺は転がって、立ち上がって、また走った。


白熊は追ってきた。


俺は氷の裂け目を目指した。さっき氷狼を撒いたところだ。


飛んだ。


——届かない。


裂け目は、さっきより広かった。夜明け前に氷が動いたらしい。


俺は空中で身をひねって、対岸の縁に手をかけた。


指が滑った。


落ちた。


   ◇


裂け目の中は、3メートルほど下だった。俺は氷の底に叩きつけられた。


 HP 2,180/3,180


痛い。背中が、燃えるように痛い。


——叫ぶな。


俺は口を両手で押さえた。


上で、白熊が裂け目を覗き込んで、俺を見ていた。


そいつは、しばらくそこにいた。


爪で氷の縁を掻いた。氷の破片が降ってきた。


だが、降りてこなかった。


裂け目が狭すぎて、体が入らなかったのだ。


やがて、白熊は諦めて、去っていった。


 三度目。


俺は、氷の底で仰向けになった。上を見ると、裂け目の細い隙間から、空が見えた。


その空が、白かった。——夜明けだ。


   ◇


視界の隅に、表示が出た。


 スキル欄に、新規項目が追加されました。

 《看破》——対象の格を推し量る


   ◇


俺は、氷の壁をよじ登った。背中の傷が開いて、氷が赤く汚れた。


上がって、祭壇まで戻って、置いてきた剣を拾った。三本の光の筋が、朝日を吸って、白く光った。


そして、初めて声を出した。


「……っ、く、そ」


声が出た瞬間、涙が出た。


痛みでか、寒さでか、それとも別の理由でか、自分でも分からなかった。


   ◇


俺は祭壇の石の輪に、もう一度入った。


朝日が、雪の上を斜めに照らしていた。その光の角度で、雪の表面の凹凸が、はっきりと影になって浮かび上がった。


   ◇


——足跡が、あった。


   ◇


俺は膝をついた。


祭壇の石の輪の外側を、ぐるりと一周する足跡が、あった。


一周じゃない。数えた。三周。


3本の輪が、ほぼ同じ場所を、重なり合って走っていた。


   ◇


俺は、その足跡を、指でなぞった。


新しくはない。表面が風で削れて、縁が丸くなっている。何か月も前のものだ。


小さい。俺のブーツより、ふたまわり。


——水没聖堂と、同じサイズだ。


   ◇


そして、足跡の「形」が、俺に全部を教えた。


歩幅が、不規則だ。


長いところと、短いところがある。長いのは走った跡。短いのは、走れなくて、じりじり後ろに下がった跡だ。


そして、輪の外側を、きっちり3周している。


——追われた跡だ。


三度、追われて、三度、逃げて、そして戻ってきた。


武器を抜かずに。


声を出さずに。


   ◇


俺は、雪の上に、両手をついた。


「……嘘だろ」


声が出た。


「なんで、知ってんだよ」


   ◇


考えろ、俺。


この条件を、独力で見つけられるか?


一晩、氷原で、武器を持たずに、声を出さずに座り続ける。しかも、それを「モンスターに3度追われるまで」続ける。


こんなことを、誰が思いつく。


思いついたとして、誰が実行する。


——思いつかない。


——実行しない。


——できるのは、答えを最初から知っている人間だけだ。


   ◇


俺は雪の上に座り込んだまま、祭壇を見上げていた。


朝日が、折れた8本の柱に、長い影を作っていた。


俺は、初めて《看破》を使ってみた。


遠くの雪原にいた氷狼に向ける。


 氷狼 格:中の下(推定)


——ざっくりしてるな。


ゲームでは数字が出た。この世界では「格」でしか出ないらしい。それでも、ないよりはるかにいい。


自分に向けてみた。何も出なかった。


   ◇


帰りの馬車の中で、俺はずっと考えていた。


先客は、少なくとも。


——水没聖堂の指輪を持っている。


——《焔心鉱》を必要なだけ持っている。


——《看破》を持っている。


そして、俺がやったことを、俺より先に、全部やっている。


   ◇


分からないことが、一つあった。


先客の足跡は、何か月も前のものだ。風化の具合からして、半年か、それ以上。


だが。


俺がこの世界に落ちたのは、スミレを投げ飛ばした、あの瞬間だ。


俺は、あの直後に、ここにいる。


だとすれば。


——なんで、俺より先にいるんだ?


   ◇


答えは、出なかった。


馬車の窓の外で、白い荒野が、後ろへ流れていった。


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