22.隣で歩く
トトの左脚は、繋がった。
神官が3日かけて、骨を戻して、癒着させた。この世界の治癒術は俺の想像よりよく効く。折れた骨は繋がるし、裂けた皮膚は塞がる。
だが、完全には戻らなかった。
「膝から下の感覚が、半分ほど失われています」
治療院の神官が、俺に説明した。
「歩けます。走るのは、難しいでしょう」
「……治りますか」
「戻る例もあります。ですが、こちらから何かできることは、もうありません」
「じゃあ、何が要りますか」
神官は、少し困った顔をした。
「毎日、使うことです。使わない脚は、忘れます」
◇
俺が最初にやったのは、金を置くことだった。
トトの治療費、もう一人の子の腕の処置、それにメルの弔いの費用。全部で3金貨と40銀貨。俺の所持金の、だいたい半分だった。
ミリアに預けて、名前は出さないでくれと頼んだ。
「……なぜですか」
「俺が出したと知ったら、あの子が受け取りません」
「ノルンさん」
ミリアは、金貨を数えながら言った。
「それは、あの子のためですか。それとも、あなたのためですか」
俺は答えられなかった。
◇
翌朝、俺はギルドの寮の前に立っていた。
まだ暗いうちだった。
しばらくして、扉が開いて、トトが出てきた。
松葉杖をついていた。
俺を見て、彼は固まった。
「……ノルンさん」
「おはよう」
「あの」
「散歩に行こう」
「え」
「散歩」
俺は歩き出した。
トトは、しばらく立ち尽くしていたが、やがて松葉杖を鳴らして、ついてきた。
◇
その日、俺たちは西門を出て、草原の入口まで行って、戻ってきた。
距離にして、往復で2000歩くらいだ。
トトはそれで息が上がっていた。途中で3回休んだ。
角兎が1匹、遠くを跳ねていった。
「……」
トトは、それを目で追った。
追って、松葉杖を握り直して、動かなかった。
俺は、何も言わなかった。
◇
3日目に、彼は言った。
「ノルンさん」
「うん」
「ぼく、どうすればいいですか」
——来た。
俺は、足を止めた。
3年半、俺が何百回も受けてきた質問だ。
そして、いつもなら、俺には用意された答えがある。「まずこうしろ」「次にこうしろ」「その狩場はやめておけ」。
口の中に、答えが並んでいた。
膝から下の感覚が半分ないなら、まず足首の可動域を戻す運動を。そのあとは体重をかける訓練を。狩りに戻るなら、動かなくていい役——後衛か、罠か、あるいは弓か。角兎の逓減はもう気にしなくていい、あの子はそこまで行っていない。
全部、言える。
——言うな。
俺は、口を閉じた。
◇
「分からない」
俺はそう言った。
トトが顔を上げた。
「え」
「俺には、分からない」
「……ノルンさんでも、ですか」
「俺だから、分からない」
俺は、彼の目を見た。
「俺は、この間、分かったつもりで喋った。それで、こうなった」
トトの顔が歪んだ。
「あれは、ぼくが」
「違う」
俺は言った。
「君は、俺の言うことを聞いた。聞いたのが間違いだった。俺が言ったのが間違いだった。どっちにしても、君が下手だったからじゃない」
「……」
「だから、もう、俺は答えを言わない」
俺は、自分の隣を指した。
「その代わり、ここにいる」
◇
それから20日間、俺は毎朝、彼の隣を歩いた。
最初の5日は、街の外を往復するだけだった。
6日目に、トトが「兎、狩ってみたいです」と言った。
俺は「そうか」とだけ答えた。
彼が槍を構えた。松葉杖を放して、片足に体重を乗せて、震えながら構えた。
角兎が突っ込んできた。
外した。
角が腿を掠めて、トトは転んだ。
俺は、動かなかった。
——ここで剣を抜けば、この20日が全部無駄になる。
角兎はもう一度跳ねた。
トトは地面から槍を突き出した。
外した。
3回目で、当たった。
◇
「ノルンさん!」
彼は地面に座り込んだまま、俺を振り返った。
俺は、親指を立てた。
それだけにした。
「昨日より、確実にましだ」とか、「その形がいい」とか、そういう言葉が喉まで出かかったが、飲み込んだ。
言えば、また、俺の言葉になってしまう気がした。
◇
危ないときだけ、俺は剣を出した。
10日目、狼が1匹、迷い込んできたときだ。
俺はトトの前に出て、抜いて、1秒で終わらせて、鞘に戻した。
「ノルンさん」
「うん」
「今の、何もしてないみたいでした」
「してるよ」
「……ぼくにも、いつかできますか」
——できない。
そう思った。
俺のこれは、Lv180の膂力と、ゲームの中で何百回も見た行動パターンの記憶と、《剣術Ⅳ》のスキル補正でできている。トトが同じことをするには、たぶん10年かかる。
だが、俺は、こう言った。
「分からない」
「また、分からないですか」
「うん」
トトは、少し笑った。
初めて笑った。
「ノルンさん、最近、分からないばっかりですね」
「そうなんだよ」
◇
20日目の朝だった。
トトは、松葉杖を持たずに出てきた。
「今日、なしで行ってみます」
「うん」
歩き出して、100歩くらいで彼はよろけた。俺は手を出さなかった。彼は自分で立て直した。
草原の入口まで行って、そこで座って、二人で水を飲んだ。
そのとき、トトが背嚢から何かを出した。
麻の袋だった。
「……これ」
俺は、それを見た。
メルの袋だった。リゼが拾って、そのあとトトに渡したのだろう。
「ノルンさんに、渡そうと思って」
「……いや、それは」
「メル、これずっと書いてたんです」
トトは袋を開けて、中から、ぼろぼろの綴じ紙を出した。
◇
俺は、それを受け取った。
粗末な紙だ。羊皮紙ですらない。植物の繊維を漉いた、安い紙。表紙はなく、麻紐で綴じてある。
開いた。
小さな、几帳面な字が、びっしり詰まっていた。
『東の谷の白い葉。切り傷によく効く。熱には効かない。3日目から効かなくなる。なぜかは分からない。』
『赤い実の皮。腹下しに使えると聞いたが、私が試したら余計にひどくなった。使わないこと。』
『沢の苔。傷口に貼ると膿まない。ただし乾かすと駄目。濡れたまま使う。』
『黄色い花の根。眠くなる。痛みには効いていない。痛みが消えたと本人は言うが、たぶん眠いだけ。』
『青灰色の葉。火傷に効く。これはよく効く。これはとてもよく効く。3回試して3回とも効いた。まだ名前を知らない。』
◇
俺は、綴じ紙をめくり続けた。
40枚以上あった。
日付が入っていた。いちばん古いものは、2年前だった。
彼女は13歳から、これを書いていた。
◇
俺は、手が止まった。
——ない。
俺の頭の中に、この情報は、一行も入っていない。
このゲームに、薬草の細かい効能なんてなかった。「下級ポーションの材料」というアイテム説明が一行あるだけだ。回復量は数値で決まっていて、傷の種類によって効き方が変わることも、3日目から効かなくなることも、実装されていない。
つまり。
このぼろぼろの紙に書いてあることは。
——925レベルぶんの俺の記憶に、一行もない。
◇
「ノルンさん?」
トトが、俺の顔を覗き込んだ。
「……いや」
俺は、綴じ紙を閉じた。
「これ、預かっていいか」
「はい」
「大事にする」
◇
その日の帰り道、俺は綴じ紙を、荷の一番奥に入れた。
濡れないように、油紙で包んで、いちばん底に。
◇
街に戻ると、ギルドの前にリゼが立っていた。
「おかえりなさい」
「……見てたんですか」
「毎日見てました」
彼女は、腕を組んだ。
「20日間、毎朝。何時に出て、何時に帰ってくるか、全部知ってます」
「怖いですね」
「怖くないです」
彼女は、俺の隣に並んだ。
夕日が、石畳を赤くしていた。
「ノルンさん」
「はい」
「わたし、あなたのこと、強いから好きになったんだと思ってました」
——来た。
俺は身構えた。この2か月、彼女はことあるごとにこの話を持ち出しては、俺がとぼけて、周りが笑う。もう様式美になっている。
だが、今日は違った。
リゼは、笑っていなかった。
「訂正します」
彼女は言った。
「今のほうが、ずっと厄介です」
◇
俺は、何も言えなかった。
とぼける言葉が、一つも出てこなかった。
リゼは、それだけ言って、さっさと歩いていった。
途中で振り返って、
「返事、急がなくていいです。逃げるのは駄目ですけど」
とだけ言って、また歩いていった。




