19.公開してください
帰りの船で、セシルは3日間、口をきかなかった。
彼女は甲板の隅に座って、羊皮紙に何かを書き続けていた。俺が食事を運んでも、目礼だけして、また書く。書いては消し、消しては書き、風で紙が飛べば追いかけて、また書く。
俺は喉が治りきっていなかったので、ちょうどよかった。
4日目の朝、彼女は俺のところへ来た。
「ノルンさん。少しよろしいですか」
◇
船倉の、荷物の間だった。
セシルは羊皮紙の束を、積荷の樽の上に置いた。
「書き起こしました。全部です」
俺は覗き込んだ。
『焔の祭壇における上級火魔法《紅蓮嵐》の取得条件(推定)
一、双月がともに地平下にある夜であること
二、祭壇中心の刻印上に立つこと
三、火の中級魔法《火球》を、詠唱以外の発語を一切挟まず、連続して108回唱えること
四、術者の魔力が尽きた後も、生命力を代償として継続すること
備考。術者は詠唱中、一切の応答を行わなかった。これは条件三に含まれると推定される。
備考。108回目の完了と同時に刻印が発光。所要はおよそ2刻。
備考。術者は完了直後に自ら《紅蓮嵐》を発動。対岸の岩壁上部を消失させた。射程はおよそ400歩。』
正確だった。
俺が一言も説明していないのに、彼女はほぼ全部を、観察だけで再構成していた。
「……すごいですね」
「観察は私の仕事です」
セシルは羊皮紙を揃えた。
「一つだけ、書けなかったことがあります」
「なんですか」
「なぜ108なのか」
彼女は俺を見た。
「祭壇は9つ知られています。その9つが、祭壇ごとに別々の回数を持っているのか。それとも、どの祭壇でも108なのか。あるいは108という数そのものに、何か意味があるのか。——いえ、そもそも意味などなく、ただそう決まっているだけなのか」
——ただ、そう作られただけだ。
俺は口の中でそう答えた。声には出さなかった。
「分かりません」
「そうですか」
彼女は、あっさり引いた。
そして、次の言葉を出した。
「ノルンさん」
「はい」
「これを、王立魔術院に公開させてください」
◇
俺は、すぐには答えられなかった。
「……公開」
「はい」
「セシルさんの名前で、ということですか」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「あなたの名前で、と申し上げるつもりもありません。名前はどうでもいい。手順そのものを、公開したいのです」
「なぜですか」
「なぜ?」
セシルは、少し目を見開いた。
「あなた、本気で聞いていますか」
「本気です」
「では、答えます」
彼女は、羊皮紙の束を持ち上げた。
「北の辺境では、毎年、村がひとつ焼かれます」
「……」
「魔物の群れが降りてくるからです。討伐隊が行くまでに3日かかる。3日あれば村は消える。私たちが中級までしか使えないからです。中級の魔法では、群れは止められない」
彼女は言った。
「上級が普及すれば、それは止まります」
◇
俺は、樽の縁を握っていた。
彼女の言っていることには、隙が一つもなかった。
「学院には、中級を修めた術師が今、147人います」
セシルは続けた。
「その全員に、この4条件を配ります。祭壇は9つ知られています。双月の重なる夜は40日に一度。1年あれば、147人のうち、半分は上級に届くでしょう」
「……半分ですか」
「108回は、簡単ではありません。魔力が尽きたあとも唱え続ける必要がある。途中で気を失う者も、死ぬ者も出るでしょう」
彼女は淡々と言った。
「それでも、半年から1年で、この世界の上級術師は70人になります」
70人。
俺は、その数字を頭の中で置いた。
——70人の《紅蓮嵐》。
◇
「駄目です」
俺は、そう言っていた。
セシルの表情が、変わった。
正確には、変わらなかった。ただ、目の奥の温度だけが、すっと下がった。
「……理由を、伺えますか」
「言えません」
「言えない」
「はい」
「ノルンさん」
彼女は、羊皮紙を樽の上に戻した。
「私は、あなたに何ひとつ聞かないできました。あなたがどこから来たのか、なぜ道を知っているのか、なぜオーガの予備動作を初見で読めるのか。一度も聞かなかった」
「……はい」
「それは、あなたに事情があるのだろうと思ったからです。冒険者に過去を聞くのは無粋だと、この国では言います」
「はい」
「ですが、これは違います」
彼女は、俺の目を見た。
「これは、あなたの過去の話ではありません。これから焼かれる村の話です」
◇
俺は、答えを探した。
言えるはずがなかった。
理由を言うためには、こう言わなければならない。
——70人の上級術師の中に、悪いやつが必ず混じる。
——手順というのは、渡した瞬間、渡した先を選べなくなる。
——学院が管理すると言うだろうが、管理できるものか。俺は3年半、そういうものを何百回も見てきた。攻略情報が公開された翌週から、それを使った嫌がらせが始まる。それが、人間だ。
だが、そんな理屈を口にした瞬間、彼女は聞き返すだろう。
「なぜ、あなたはそれを知っているのですか」と。
そして俺は、また答えられない。
◇
「……渡した先を、選べないからです」
俺は、そこまでは言った。
セシルは、少し首を傾げた。
「選べない?」
「手順というのは、誰にでも同じように効きます。素質も、人格も、選びません。147人に配れば、147人が同じ力を持ちます」
「それが目的です」
「その147人の中に、村を焼く側の人間が、ひとりもいないと言えますか」
セシルは、黙った。
しばらく黙って、それから言った。
「言えません」
「……」
「言えませんが、ノルンさん」
彼女は、まっすぐに俺を見た。
「では、あなたが独り占めする理由を、教えてください」
◇
俺は、何も言えなかった。
「あなたひとりが《紅蓮嵐》を持っている。それは、147人が持つより安全でしょうか」
「……」
「あなたが善良だからですか。あなたが正しく使うからですか。それを保証するものは、どこにありますか」
俺は、樽の縁を握ったまま、床を見ていた。
「私は、あなたを疑ってはいません」
セシルの声が、少し柔らかくなった。
「今日まで見てきて、あなたは悪い人ではないと思っています。ですが、それは私の印象です。印象で、力の配分を決めていいはずがない」
「……」
「私が学院で最初に習ったのは、こういうことです。『力は制度に預けよ。人格に預けるな』」
俺は、その言葉を口の中で繰り返した。
——力は、制度に預けよ。
正しい。たぶん、完全に正しい。
俺が3年半見てきた世界でも、結局それが答えだった。「善良なプレイヤーの自主性に任せる」という運営方針は、必ず破綻した。破綻するたびに、仕様で縛るしかなくなった。
分かっている。
分かっているのに、俺の口は動かなかった。
制度に預けろと言われても、俺が持っているものは、制度に載る形をしていない。
出所を説明できない知識を、どこの制度が受け取ってくれる。
◇
沈黙が長かった。
船底で、水が板を叩く音がしていた。
やがて、セシルは羊皮紙の束を取り上げた。
そして、革の鞄から小さな木箱を出して、その中に束を納めた。両手に乗るくらいの、蓋つきの箱だった。
蓋を閉じて、小さな錠前をかける。鍵は、首から下げた紐に通した。
「預かります」
「……え」
「学院には出しません。この箱を開けられるのは、私だけです」
彼女は錠前を指で確かめ、箱を鞄の底に戻して、鞄を閉じた。
「あなたが、自分の口で言える日まで、私が持っています」
俺は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはありません」
彼女は立ち上がった。
そして、船倉の梯子に足をかけて、振り返らずに言った。
「待つとは、言っていませんので」
◇
——待つとは言っていない。
その言葉の意味を、俺が本当に理解するのは、もっとあとのことだ。
このときの俺は、ただ、彼女の背中を見送っただけだった。
◇
甲板に上がると、風が冷たかった。
北へ向かう船の舳先に、大陸の輪郭が見えはじめていた。
俺はステータスウィンドウを開いた。
Lv.152
スキル:《剣術Ⅳ》《危険察知》《毒耐性》《採取Ⅲ》《紅蓮嵐》
《紅蓮嵐》の一行が、そこにある。
3年半、俺はこの行を、掲示板のテンプレを見ながら「作業」として埋めた。祭壇に立って、火球を108回撃って、光った。それだけの記憶だ。
今は、喉が壊れている。
血を吐いた。
——同じ一行なのにな。
俺は、そう思った。
そして、セシルが鞄の底に戻した、あの小さな木箱のことを考えた。
錠前のかかったあの箱の中に、俺が今日、渡さないと決めたものが入っている。
そして俺は結局、渡さない理由を、彼女に一言も説明できなかった。




