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18/29

18.月のない夜に108回

「同行者は、私です」


炎環諸島行きの依頼票を出したとき、カウンターの向こうにいたのはミリアだったが、その隣に立っていたのはセシル・ウェインだった。


「え」


「その依頼は、私が出したものです」


「……あなたが?」


「王立魔術院の委託です。炎環諸島の火山地帯には、古い時代の祭祀遺構が点在しています。私の研究対象です」


セシルは腕を組んだ。


「Cランク以上と条件をつけたのは、あの一帯が危険だからです。あなたはDランクですが——」


彼女は少し間を置いた。


「オーガを19秒で殺す方に、ランクの話をするのは滑稽ですね」


   ◇


炎環諸島までは、船で4日かかった。


正確には島ではなく、大陸の南端が海に落ち込んで、その先に岩の塊がいくつも浮かんでいる地形だ。全部が火山で、いくつかは今も煙を上げている。


船を降りて、俺たちは黒い砂の浜を歩いた。


暑い。空気が焼けている。歩くたびに、足の裏から熱が上がってくる。


「ノルンさん」


セシルが、日除けの外套の下から言った。


「あなた、この島に来たことがありますか」


「ありません」


「では、なぜ道を知っているのですか」


俺は足を止めた。


——やってしまった。


さっきの分岐で、俺は迷わず右を選んだ。地図なんて見ていない。


「……勘です」


「三度目ですね、その言い訳」


   ◇


《焔の祭壇》は、島の中心の火口の縁にあった。


黒曜石でできた、円形の台座。直径は10メートルほど。中央に一段高い場所があって、そこに幾何学模様が彫られている。


模様は、火山灰に埋もれていた。


セシルは、その台座を見て、しばらく動かなかった。


「……記録通りです」


彼女は膝をついて、灰を手で払った。


「300年前の『炎環巡礼記』に、この祭壇の記述があります。『火の祖の座』と書かれていました。ですが、これまで誰も、ここで何をすべきかを解読できませんでした」


「解読、ですか」


「模様は文字ではありません。ただの装飾です。何の手がかりもない。だから学院では、これはただの祭祀場の跡だと結論づけています」


彼女は立ち上がって、火口の向こうを見た。


「私は、それを疑っています。300年前、リグヴァルドは確かに上級魔法を使った。彼は炎環諸島の出身です。ここに何かがあるはずなんです」


俺は、黙って灰を払っていた。


——あるよ。


——あんたの立ってる、そこだ。


   ◇


夜になった。


火口の縁に野営を張って、俺は空を見上げた。


星が異様に多い。そして——月がない。


正確には、この世界には月が二つある。大きいほうを「白月」、小さいほうを「赤月」と呼ぶ。二つの月が同時に地平の下にある夜は、およそ40日に一度しか来ない。


今夜が、その夜だった。


「セシルさん」


俺は焚き火の向こうに声をかけた。


「ちょっと、試してみたいことがあるんですが」


「試したいこと?」


「あの祭壇で、火の魔法を撃ってみたいんです」


セシルが顔を上げた。


「……あなた、魔法が使えるのですか」


「初級だけです。船の上で教えてもらいましたよね」


俺は右手を上げて、掌の上に小さな火の玉を作った。


初級火魔法《火種》。


——実を言うと、俺は魔法をほとんど使えない。


このゲームでは、魔法は「スキル欄に生えたものを使う」だけだった。詠唱の中身は自動で流れる。俺のノルンは剣士だったから、そもそも魔法をほとんど取っていない。


だがこの世界では、魔法は言葉と手順でできている。


セシルが船の中で、暇つぶしに教えてくれた《火種》と《火球》。俺はその2つを、5日で覚えた。


覚えるのが異常に速い、とセシルは言った。


そりゃそうだ。俺は詠唱の「文言」を覚えるのが速いわけじゃない。「魔法とはこういうものだ」という前提を、最初から丸ごと持っている。


   ◇


「無意味ですよ」


セシルは首を振った。


「あの祭壇で火を焚くのは、当然、私たちも試しました。学院の調査隊が20年前に3日かけて。何も起きませんでした」


「3日ですか」


「ええ」


「回数は」


「回数?」


「何回、撃ったんですか」


セシルは、少し困った顔をした。


「……そこまでは記録にありません。数回でしょう。何も起きないと分かれば、普通はやめます」


——そこだよ。


「やってみます」


俺は立ち上がった。


   ◇


祭壇の中心に立った。


足元の模様が、星明かりを吸って、わずかに黒く光っている。


俺は両手を胸の前で合わせた。


そして、唱えた。


「焔よ、集え。《火球》」


拳大の火の玉が生まれて、火口の空へ飛んで、消えた。


 1


「焔よ、集え。《火球》」


 2


「焔よ、集え。《火球》」


 3


   ◇


10回を超えたころ、セシルが焚き火のそばから立ち上がった。


「ノルンさん?」


俺は答えなかった。


答えれば、途切れる。


——条件は「詠唱を一度も途切れさせずに108回」だ。


この「途切れさせずに」の解釈が、実装当時、掲示板で大論争になった。息継ぎは? 間を空けるのは? 別のことを喋ったら?


検証の結果、判明したのは——「詠唱の文言以外の言葉を発した時点でリセット」だった。


だから俺は、喋らない。


 20


   ◇


30回を超えたころ、MPが半分を切った。


MPというのは、この体では「息」に近い感覚だった。使うほど、胸の奥が薄くなる。


 40


 50


呼吸が浅くなってきた。


セシルは、いつの間にか祭壇の縁に立って、こちらを見ていた。何も言わない。ただ、腕を組んで、俺を見ている。


 60


指先が冷たくなってきた。


出てくる火球が、明らかに小さくなっている。最初は拳大だったものが、今は親指の先ほどしかない。


 70


膝が、笑いはじめた。


   ◇


 80


視界が、白く濁った。


MPが尽きた。


 MP 0/610


尽きてからも、俺は唱え続けた。


このゲームでは、MPが0の状態で魔法を撃つと、HPを削って発動する。「命懸け詠唱」と呼ばれていた仕様だ。効率が悪いので誰も使わない。


 HP 1,842 → 1,703


1回撃つごとに、HPが139減る。


 81


 82


   ◇


 90


喉が、焼けた。


比喩じゃない。詠唱が声に依存している以上、100回近く同じ言葉を叫び続ければ、喉は物理的に壊れる。


血の味がした。


 HP 601/1,842


——あと18回。


18回×139は、2502。


足りない。


   ◇


——足りない?


俺は、詠唱を続けながら、頭の中でだけ計算した。


いや。違う。


《火球》のMP消費は12だ。HP代替は消費MPの倍。つまり1回24——ではなく、俺のMND値による軽減が入る。


 HP 601 → 587


14。


今、14しか減っていない。


さっきまで139減っていたのは、MPが尽きた直後の追加負荷だ。あれは一時的なものだった。


 98


 101


   ◇


「ノルンさん!」


セシルの声が飛んだ。


俺は聞こえないふりをした。


 105


 106


 107


   ◇


——108。


「焔よ、集え。《火球》」


最後の一言を吐き出した瞬間。


足元の模様が、光った。


   ◇


黒曜石の台座が、内側から赤く透けた。


模様の溝を、光が走った。中心から外へ、放射状に。


轟音が来た。


火口の底から、熱の柱が立ち上がった。俺は熱風に押されて後ろへ倒れた。倒れながら、視界の隅を見た。


 スキル欄に、新規項目が追加されました。

 《紅蓮嵐》——上級火魔法


   ◇


熱が引いたあと、俺は仰向けに倒れたまま、しばらく笑っていた。


喉が壊れていたので、声は出なかった。ひゅうひゅうと息が漏れるだけだった。


——あった。


——ちゃんと、あった。


セシルが走ってきて、俺の上に膝をついた。


「今の——今の、何ですか。何が起きたんですか」


俺は答えられなかった。


代わりに、俺は右手を上げた。


そして、火口の対岸の岩壁を指さした。


「……見ててください」


かすれた声で、そう言った。


   ◇


俺は立ち上がった。


膝が震えていた。MPは0のままだ。HPは3分の1しか残っていない。


それでも、俺は右手を前に出した。


《紅蓮嵐》の詠唱は、俺の中に、最初から入っていた。


覚えたんじゃない。生えたのだ。スキルとして。


「——天蓋を焼く舌よ。地の果てまで、走れ」


腕が、勝手に動いた。


「《紅蓮嵐》」


   ◇


空が、裂けた。


俺の右手から炎の帯が伸びて、火口を横切り、対岸の岩壁に叩きつけられた。


音は、遅れて来た。


岩壁が、消えた。


高さ30メートル、幅50メートルの岩の壁が、上半分をまるごと削り取られて、赤熱した岩滓になって崩れ落ちた。


熱風が、俺たちのいる縁まで戻ってきて、髪と外套を後ろへ引っ張った。


   ◇


静かになった。


俺は、右手を下ろした。


そして、へたり込んだ。


セシルは、20歩ほど後ずさっていた。


後ずさって、そこで足がもつれて、尻もちをついていた。


彼女は、削れた岩壁を見ていた。


それから、俺を見た。


口が、動いていた。声が出ていなかった。


3度目でようやく、音になった。


「……で、伝説が」


「はい」


「伝説が、手順で……?」


俺は、笑った。


笑ったら喉が痛んで、咳き込んで、血を吐いた。


それでも笑いながら、俺は言った。


「たぶん、全部そうです」


「……全部?」


「誰も、108回も唱えなかっただけですよ」


   ◇


セシルは、しばらく動かなかった。


それから、四つん這いで祭壇まで戻って、模様を撫でた。撫でて、灰をかき集めて、また撫でた。


「108」


彼女は呟いた。


「108回。ただ、それだけ」


「はい」


「20年です」


彼女の声が、震えていた。


「私は、20年かけて、中級に届きました。学院の同期は31人いて、中級まで来たのは4人です。残りは諦めました」


「……」


「その先が、108回」


彼女は、灰の上に額をつけた。


   ◇


俺は、彼女の背中を見ていた。


言うべきことが、何一つ見つからなかった。


火口の底で、削れた岩が、まだ赤く光っていた。

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