13.開いている宝箱
Lv60を超えたあたりで、俺は「そろそろ装備を何とかしよう」と考えはじめた。
《朽ちた儀礼剣》は段階3に入って、刃こぼれが埋まった。攻撃力+68。この街の武具屋で買える最高級品が+45だから、もう十分に化物だ。
問題は、防具と装飾品のほうだった。
俺はまだ、支給品の革の胴当てを着ている。1か月半、毎日着倒したせいで、脇のところが裂けかけている。
そして装飾品——指輪や首飾りの類は、一つも持っていない。
この世界では、装飾品はほとんど流通していない。魔力を帯びた品は貴族か教会が抱え込んでいて、市場に出てこない。ギルドの買取所に並んでいるのは、ただの銀細工だ。
だが、俺は知っている。
序盤で手に入る装飾品の中に、一つだけ、格の違うものがあることを。
◇
《雫の指輪》。
効果は「HP自動回復・毎分2パーセント」。
数字だけ見ると地味だ。だが、こいつは腐らない。レベルが上がって最大HPが増えれば、回復量も比例して増える。Lv400のときも、Lv900のときも、ずっと同じ性能で働き続ける。
ゲームでは「序盤で取れる装備の中で、唯一エンドコンテンツまで使える」と言われていた。
入手場所は、西の水没聖堂。
◇
水没聖堂は、ステインから西へ2日の距離にある。
かつては大きな神殿だったらしい。地盤が沈んで、建物の下半分が水に浸かっている。今は誰も使っていない廃墟だ。
俺は正面の階段——水面から上に出ている数段——を登って、崩れた扉をくぐった。
中は、腰まで水があった。
冷たい。空気が澱んで、藻の匂いがする。天井の穴から光が落ちて、水面で揺れていた。
湧いているのは水棲の骸兵で、Lv40帯。今の俺には敵じゃない。
俺は水を掻き分けて、奥へ進んだ。
◇
聖堂の最奥に、祭壇がある。
その両脇に、水を汲むための石の槽が3つ並んでいる。
これがギミックだ。
槽の底に、栓がある。手前から順に、1番、2番、3番。この栓を抜き差しすることで、聖堂内の水位が変わる。
正しい手順は、こうだ。
まず3番の栓を抜く。水位が下がる。
次に1番の栓を挿す。水位が上がる。
最後に2番の栓を抜く。水位が下がる。
——三度、上げ下げする。
俺は水に潜って、3番の栓に手をかけた。
◇
冷たい。息が続かない。
Lv60のVITなら、水中でも1分以上は保つはずだ。だが「保つ」のと「苦しくない」のはまったく別の話だと、この1か月半で嫌というほど学んだ。
3番を抜いた。ごぽ、と音がして、足元に渦ができる。
水面まで上がって、息を吸った。
水位が、膝まで下がった。
1番を挿す。水位が上がる。腰まで戻る。
2番を抜く。水位が下がる。
——脛のあたりまで。
そして、祭壇の裏の壁が、ごり、と音を立てて沈んだ。
◇
「よし」
俺は水を蹴って、壁の奥へ入った。
短い通路。その先の小部屋。
天井が低い。壁は乾いている。ここだけ水が入っていない。
部屋の中央に、石の台があった。
その上に。
宝箱が、置かれていた。
——蓋が、開いていた。
◇
俺は、その場で立ち止まった。
石の台の上の宝箱は、蓋を大きく開いて、中の赤い布地を晒していた。
空だった。
何も入っていなかった。
「……は?」
俺は数歩近づいた。
近づいて、覗き込んだ。
やっぱり、空だ。布の中央が少し窪んでいる。何かがそこに長い間置かれていた跡だ。
指で触れた。
——埃が、薄い。
これがいちばん、おかしかった。
この部屋は、200年以上封じられていたはずだ。壁が沈むまで、外の空気は入らない。それなのに、宝箱の内側の布に積もった埃は、指の腹にうっすらつく程度しかない。
俺は床を見た。
石の床に、砂が薄く積もっている。
その上に。
足跡が、あった。
◇
俺は膝をついて、それを見た。
ブーツの跡だ。俺のものより、ふたまわり小さい。
台のまわりを一周して、それから通路のほうへ戻っている。
足跡のふちは、砂が崩れて丸くなっていた。ついてから、だいぶ時間が経っている。
だが、確かに、そこにあった。
◇
俺は、しばらく動けなかった。
膝をついたまま、その足跡を見ていた。
考えられる可能性を、片っ端から潰していく。
——この世界の誰かが、偶然、手順を踏んだ?
無理だ。
栓を「3番を抜く、1番を挿す、2番を抜く」の順で操作するなんて、偶然では起きない。しかも操作するには水に潜る必要がある。誰が、廃墟の水槽の栓を、わざわざ潜って抜き差しする?
——もともと開いていた?
それも無理だ。壁は俺が開けた。俺が手順を踏むまで、この部屋は完全に密閉されていた。
つまり。
誰かが、俺より前に、この手順を踏んで、この部屋を開けて、指輪を持っていって、そして壁を閉じた。
俺と、同じことをした。
◇
俺は水没聖堂を出て、階段に座り込んだ。
日が暮れかけていた。水面が赤い。
指が震えていた。寒いからじゃない。
この1か月半、俺は、ずっとひとつの前提の上で動いてきた。
「この世界はゲームと同じだ」という前提だ。
その前提があったから、俺は谷筋を知っていて、群生地を知っていて、松明の順番を知っていた。俺の頭の中の3年半が、そのまま俺の武器になった。
だが、今日、その前提には続きがあることが分かった。
この世界は、ゲームと同じだ。
——ただし、ゲームの「始まり」からは、少し進んでいる。
俺の記憶にある世界は、いわば初期状態だ。宝箱には中身が入っていて、祭壇は誰にも踏まれていなくて、隠し部屋は封じられている。
だが目の前の世界には、時間が流れている。
俺が来る前から、流れていた。
◇
そして、もっと嫌な考えが、そのあとに来た。
俺は思い出していた。
カルナスの廃遺跡、第2階層。
俺が背中から突っ込んで割った、あの壁。
あそこは、俺が「Lv925の質量で」ぶつかったから壊れた。この世界の人間には壊せない。
つまり、あの穴は、この世界の側からは開かない。
——なら、こっち側に来られる方法が、他にあるってことか?
俺は膝を抱えた。
——いや、待て。落ち着け。
俺は自分に言い聞かせて、もう一度、可能性を並べ直した。
可能性1。この世界の誰かが、独力で試行錯誤して、偶然この手順に至った。
確率は絶望的に低いが、ゼロではない。200年もあれば、変わり者の一人や二人はいただろう。栓を面白半分に抜き差しした子供がいたかもしれない。
可能性2。ゲームには、俺の知らない「別の入口」があった。
これもありうる。俺は日本サーバーの実装を全部知っているつもりでいるが、「つもり」でしかない。
可能性3。
俺は膝の上で、拳を握った。
考えたくないほうの結論が、頭の中で形になっていく。
俺と同じことができる人間。
俺と同じ知識を持っている人間。
つまり——
「……プレイヤーか」
声に出したら、余計に現実味が増した。
◇
帰り道、俺は初めて、後ろを振り返った。
街道には誰もいなかった。夕暮れの中で、木の影が長く伸びているだけだった。
それでも、俺は2度、振り返った。
◇
ステインに戻ったのは、翌々日の夜だった。
ギルドの食堂で、リゼが待ち構えていた。松葉杖はもうない。
「ノルンさん! どこ行ってたんですか、3日も!」
「西のほうです」
「ひとりで?」
「ひとりで」
「わたし誘ってくださいよ! 足、治りましたし!」
「危ないので」
「危ないところに行ってたんですね?」
——しまった。
リゼは目を細めた。この子は、明るい顔をしているわりに、話の穴を見つけるのが異様に速い。
「ねえ、ノルンさん」
「はい」
「あなた、何を探してるんですか」
俺は、彼女の顔を見た。
答えられなかった。
俺が探していたのは指輪だ。それは本当だ。だが今の俺が本当に知りたいのは、そこにいなかった誰かのことだった。
「……指輪です」
「指輪!?」
リゼの顔が、みるみる赤くなった。
「い、いや、あの、それは、その、ちょっと、早くないですか!?」
「そういう意味ではなくてですね」
「そういう意味じゃないんですか!」
「はい」
「なんだ!」
食堂中がまた笑った。俺は少しだけ救われた気持ちになった。
だがその夜、宿の寝台で天井を見上げながら、俺はずっと同じことを考えていた。
——誰かが、いる。
俺と同じものを持って、俺より先に、この世界を歩いている誰かが。




