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12.リゼット・アルマ

毒沼の帰り道で、悲鳴を聞いた。


正確には、悲鳴じゃない。「ちくしょう」という、かなり気の強い罵り声だった。


崖の下からだ。


俺は道を外れて、崖っぷちに立った。


高さは10メートルくらい。下は乾いた河原になっていて、そこに人がひとり、うずくまっている。


赤い髪。革の胸当て。背中に短弓。


そして、その周りを、リザードマンが5体で囲んでいた。


   ◇


状況は一瞬で読めた。


赤毛は座り込んでいる。左足首を両手で押さえている。挫いたか、折ったか。立てない。


矢筒は空だ。地面に、折れた矢が数本散らばっている。


リザードマンは、まだ飛びかかっていない。囲んで、じりじり間合いを詰めている段階だ。あいつらは獲物が動けないと分かると、なぜか慎重になる。ゲームでもそうだった。「対象が移動不能状態のとき、接近速度が低下する」という、地味な行動パターン。


——猶予は、20秒くらいか。


崖を降りる道を探した。


なかった。


正確には、南に50メートルほど回り込めば、緩い斜面がある。走れば1分。


1分は、間に合わない。


   ◇


俺は崖の縁から下を覗いて、目測した。


高さ、10メートル。下は乾いた砂利。


このゲームの落下ダメージの計算式を、俺は覚えている。落下距離をメートルで測り、そこから3を引いた値を2乗して、最大HPの割合に掛ける。ややこしいが、要するに——


Lv45の俺の最大HPは412。


10メートルの落下で受けるダメージは、およそ98。


 HP 412/412


死なない。


そして、着地の衝撃には、副次的な効果がある。


このゲームの落下着地は、着地点の周囲に微弱な範囲ダメージと、短いノックバックを発生させる。ダメージ自体はゼロに近い。だがノックバックは、体格の小さい敵に対しては、けっこう効く。


——足りるか?


足りなくても、やるしかない。


俺は崖から飛んだ。


   ◇


落下は、1秒もなかった。


砂利の上に、両足で着地した。


膝で衝撃を殺す——のは、無理だった。膝が悲鳴を上げて、俺は前のめりに片手をついた。全身に痺れが走った。


 HP 314/412


計算どおり、98減った。


そして、周囲のリザードマン5体が、砂煙と一緒に外へ弾かれた。


——効いた。


俺は膝が笑っているのを無視して、立ち上がった。


《朽ちた儀礼剣》を抜く。


錆はもう半分落ちている。段階2。攻撃力+31。まだゴミだが、ゴミなりに切れるようになった。


弾かれたリザードマンのうち、いちばん近い1体が起き上がる。


そいつの起き上がりに、真上から刃を落とした。


握らない。乗せる。当たる直前に、小指と薬指だけ締める。


首の付け根から、肩まで抜けた。


2体目。


こいつは横から来た。石斧を振りかぶった、その腕の内側に踏み込んで、肘で顎を突き上げてから、返す刃で喉を裂いた。


3体目。


尾の薙ぎが来た。俺は跳ばずに、しゃがんだ。尾が頭上を通り過ぎる。跳ぶと空中で無防備になる。ガウスに教わった。


しゃがんだ姿勢から、下から上へ。


残り2体は、逃げた。


俺は追わなかった。追えばこっちの体力が削れるだけだ。


   ◇


赤毛のほうを振り返った。


彼女は、口を開けたまま、俺を見上げていた。


年は俺と同じくらい——いや、この体の見た目じゃなくて、中身の俺と同じくらいに見えた。17か18か。丸っこい大きな目に、そばかすが少し。赤い髪を頭の高い位置で結んでいる。


「……あの」


「動かないでください。足、見せてもらえますか」


俺はしゃがんで、彼女の左足首に触れた。


腫れている。だが、変な方向には曲がっていない。折れてはいないだろう。


「捻挫だと思います。立てますか」


「た、たぶん」


彼女は立とうとして、痛みで顔をしかめて、また座り込んだ。


「無理そうですね」


「あの、その、ちょっと待ってください」


彼女は両手を上げた。


「今の、なんですか」


「今の?」


「崖の上から降りてきましたよね」


「はい」


「10メートルくらいありますけど」


「そうですね」


「なんで死んでないんですか!?」


——いい質問だ。


俺は少し考えて、無難な答えを選んだ。


「受け身が上手いんです」


「受け身!?」


「あと、その、丈夫で」


「丈夫でどうにかなる高さじゃないですよ!」


彼女は座り込んだまま、ものすごい勢いで喋った。


「しかもリザードマン3体を、えっと、何秒でした? 10秒くらい? わたし、あれ1体倒すのに矢が7本要るんですけど。7本要って、それでもさっき5体来られてこのざまで、正直もう死んだと思ってて、遺書とか書いてないなって考えてて」


「落ち着いてください」


「無理です!」


   ◇


結局、俺は彼女を背負って街まで歩いた。


「ごめんなさい、重いですよね」


「そうでもないです」


実際、そうでもなかった。Lv45のSTRなら、人ひとりを背負って1時間歩くくらい、どうということはない。


「わたし、リゼット・アルマといいます。リゼでいいです。Cランクです」


「ノルンです。Fランクです」


背中で、動きが止まった。


「……え?」


「Fです」


「今日登録したとかですか」


「1か月半前です」


「1か月半でFのままの人が、リザードマンを3体、10秒で?」


「依頼をあまり受けてないので、実績が溜まってないんです」


これは本当だった。俺はギルドの依頼を、経験値効率のいいものしか取らない。しかもその大半は、ランク昇格の実績としてはたいして評価されない討伐依頼だ。おかげでレベルだけが上がって、ランクは据え置きになっていた。


「……変な人ですね」


「よく言われます」


「わたし、Cランクまで4年かかりました」


「そうなんですか」


「4年です。父が冒険者で、その伝手で12から始めて、4年」


背中の声が、少し低くなった。


「谷筋のこと、聞きました。単独で狼9体って、あなたですよね」


「……ええ」


「うちの父、Dランクなんですけど。狼は3体までって言ってます」


俺は何と返せばいいのか分からなかった。


   ◇


街に着いて、治療院に彼女を預けた。


「あの、ノルンさん」


引き渡すとき、彼女が俺の袖を掴んだ。


「明日、お礼をさせてください」


「いえ、結構ですよ」


「よくないです。命を助けられて何もしないのは、うちの家では駄目なんです」


言い方に、妙な迫力があった。


「……分かりました。じゃあ、パンでも」


「パン!?」


「安いので」


「安いのでいいわけないでしょう!」


   ◇


翌朝、ギルドの扉を開けたら、彼女が待っていた。


松葉杖をついて、扉の真横に立っていた。


「おはようございます!」


「……足、治ってないですよね」


「治ってません」


「じゃあ寝ててください」


「嫌です」


彼女は松葉杖でぴょこぴょこ移動して、俺の行く手を塞いだ。


「昨日、一晩考えました」


「はあ」


「わたし、たぶん、あなたのこと好きになったと思うんですけど」


——え。


俺は固まった。


ギルドの食堂で、朝から酒を飲んでいた連中が、一斉にこっちを向いた。


「……いや、あの」


「どうですか」


「どうですかって」


「どうですか!」


俺の頭の中は、完全に真っ白だった。


17年生きてきて、俺は、女子に告白されたことがない。


これは自慢でも卑下でもなく、ただの事実だ。学校では友達が多いほうだと思うし、女子とも普通に喋る。だが、そういう話になったことは一度もない。日曜は朝5時からゲームだった。そういうことに使う時間がなかった。


だから、こういうときの正しい返事を、俺は一つも知らない。


「……うん、それは、大変だね」


出てきたのが、それだった。


リゼの目が丸くなった。


「大変だね?」


「大変だと思います」


「かわさないでください!」


「かわしてないです」


「かわしてます! 今の、絶対かわしました!」


俺は逃げるようにカウンターへ向かった。


背後で、松葉杖が石床を叩く音が追いかけてきた。


「逃げないでくださいー!」


食堂から、盛大な野次と笑い声が飛んだ。


   ◇


その日の夕方、ガウスに言われた。


「坊主。お前、Cランクの嬢ちゃんに惚れられたんだって?」


「……耳が早いですね」


「ギルド中の話題だぞ。それで、どうすんだ」


「どうもしません」


「なんでだ。いい子じゃねえか」


俺は答えられなかった。


答えられない理由が、いくつもあったからだ。


俺はこの体の持ち主じゃない。俺の中身は17歳の高校生で、この世界に来て1か月半で、家に帰る方法も分かっていない。名前も出身も、全部嘘をついている。


そして、そういう込み入った理由を全部並べたあとで——


いちばん大きい理由が、残る。


——単純に、どうしていいか分からないんだよ。


「まあいい」


ガウスは麦酒を飲み干して、立ち上がった。


「木剣持て。今日は足の運びだ」

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