第五話 二十九分
蛭田正三の朝は、六時五分に始まる。
寝室の目覚まし時計が六時五分を指したとき、蛭田は目を開ける。この時計は五分進めてある。家中のすべての時計が五分進めてある。蛭田は五分進んだ世界で目を覚まし、五分進んだ世界で顔を洗い、五分進んだ世界で着替える。
六時二十分、一階に降りる。店の照明をつける。
儀式が始まる。
工具箱から小さなドライバーを取り出す。壁掛け時計の前に立つ。裏蓋を開ける。ムーブメントを確認する。スマートフォンで日本標準時を出す。
午前六時十五分三十二秒。
壁掛け時計、六時二十分二十八秒。
差、四分五十六秒。
四秒足りない。
蛭田は調整ネジを〇・二ミリ回す。秒針が微かに進む。もう一度照合する。差、五分〇一秒。一秒の超過。許容範囲。裏蓋を閉じる。
次。カウンター横の置き時計。差、四分五十九秒。ほぼ正確。調整不要。
次。トイレの壁掛け。差、五分〇三秒。三秒の超過。許容範囲だが、蛭田は調整する。五分ちょうどに。
五つの時計。所要十四分。すべてが日本標準時より五分進んだ状態に、秒単位の精度で維持される。
この作業を、蛭田正三は十四年間、一日も欠かしていない。
銀行員だったころの習慣だ、と本人は思っている。
思っているだけである。
十四年前の十一月十七日、蛭田正三は支店の窓口にいた。
午後三時、シャッターが下りる。現金の照合が始まる。この日の締めは順調だった。順調だったが、最後に合わなかった。
五円。
現金残高が五円合わなかった。
五円である。原価にもならない。銀行員でない人間なら、自分の財布から五円出して終わりにする。実際、若い行員がそうしようとした。蛭田は止めた。
「合わせるんじゃない。合うんだ」
この一言を、蛭田は自分の三十八年間で最も誇りに思っていた。数字は誤魔化すものではない。数字は、正しい場所に自分で戻ってくる。それが正確さというものだ。
伝票を三度めくった。
五円は、両替機の受け皿の底にあった。
午後三時四十六分。すべてが合った。蛭田は「お疲れさま」と言って、支店を出た。
いつもより五分、遅かった。
午後三時五十一分、蛭田は自宅の台所で妻を発見した。
妻の左手首には、革のバンドの小さな腕時計が巻かれていた。文字盤は午後三時二十二分を指して止まっていた。倒れたときに、どこかにぶつけたのだろう。以来、この時計は動いていない。
救急車が来たのは午後四時八分だった。蛭田が電話をしてから十二分後。妻が倒れてから、四十六分後。
二十九分。
妻が一人で床にいた時間である。
医師は「もう少し早ければ」と言った。
何分早ければよかったのかは、言わなかった。蛭田も聞かなかった。聞いても妻は戻らない。
——ここまでが、蛭田正三が他人に話したことのない事実のすべてである。
そして、ここから先が、蛭田正三が自分にも話したことのない事実だ。
あの日、蛭田は五分早く帰れた。
五円を、若い行員の財布から出させればよかった。三十秒で終わった。誰も損をしない。誰も気づかない。
蛭田は、そうしなかった。
正確であろうとしたからだ。
だから五分、遅れた。
妻が床にいた二十九分のうち、五分は、蛭田正三の正確さでできている。
この事実を、蛭田は十四年間、一度も言語化していない。言語化していないが、身体は知っている。銀行を辞めた。喫茶店を始めた。そして最初にやったことが、すべての時計を五分進めることだった。理由は自分でも分からなかった。分からないまま、進めた。
毎朝、ドライバーで五分を作る。
いや。
作っているのではない。
返しているのだ。
返す相手は、十四年前からいない。
七時。壁時計が七時五分を示す。蛭田は開店準備を始める。豆を計量する。カップを並べる。グラスを確認する。椅子を整える。四十一脚。
左肩が痛んだ。
先週から続いている。肩から左腕にかけて、鈍い痺れが降りてくる。蛭田は左腕を回した。痺れは消えない。
七十四歳だ。肩が痛くなる年齢である。
開店。八時。壁時計は八時五分。
午前中は静かだった。テレビの騒ぎが落ち着いてから、行列は消えた。客は戻った——正確には、椅子が四十一脚あって客が三人という、この店の本来の姿に戻った。蛭田はそのほうがよかった。行列のあいだ、蛭田は一度も時計の点検を省略しなかったが、点検の時間を十四分から九分に短縮した。短縮したことが、いまでも気に食わない。
昼過ぎ、赤羽雄介が来た。
「どうも、蛭田さん」
「いらっしゃいませ」
「ブレンドで。……あのですね、この前の理事会の件なんですけど」
「はい」
「十分の話、蛭田さんが反対されたのは分かるんです。ただ、根拠を教えていただければ、こっちも納得できるんですよ。なぜ五分じゃなきゃいけないのか」
蛭田は豆を挽いていた。手を止めなかった。
「五分だからです」
「それ、答えになってないですよ」
「申し訳ございません」
赤羽はコーヒーを飲み、四百五十円を置いて帰った。帰り際、扉のところで振り返った。
「僕、諦めてないですからね」
蛭田は微笑んだ。目と口が均等に笑った。
扉が閉まった。
蛭田はカウンターの中で、左腕を回した。
午後四時。客が引けた。
蛭田はカウンターの椅子に座った。珍しいことだった。窓口に立つ人間は座らない。三十八年でそう教育され、十四年でその教育を守り続けている。
だが今日は座った。
左肩から左腕にかけて、痺れが降りている。指先が冷たい。グラスを持つ手に力が入りにくい。蛭田は左手を開いて、閉じた。開いて、閉じた。
電話をかけようと思った。
商店街の反対側に整骨院がある。予約を取れば、明日の朝なら空いているだろう。開店は八時だから、七時に行けば間に合う。間に合うが、その場合、時計の点検ができない。
十四分。
毎朝の十四分を、明日は削ることになる。
蛭田はスマートフォンをカウンターに置いた。
かけなかった。
エプロンのポケットに手を入れた。
妻の腕時計を取り出した。手のひらに乗せた。軽い。冷たい。革のバンドは擦り切れ、留め具の金属が黒ずんでいる。文字盤の中で、秒針が十四年前の位置に立ったままだ。
午後三時二十二分。
妻の手首にあったころ、この時計は妻の体温で温まっていた。今はポケットの温度だ。蛭田の体温は妻より〇・三度低い。手を握ると、いつも自分の手のほうが冷たかった。妻は「手が冷たい人は心が温かいのよ」と言った。蛭田は「銀行員は手が冷たいものです」と答えた。妻は笑った。
その笑い方を、蛭田は正確に覚えている。
覚えているのに、思い出さないようにしている。思い出すと、五円のことを思い出すからだ。
蛭田は時計をポケットに戻した。
立ち上がった。左肩が痛んだ。かまわなかった。
カウンターの外に出て、壁掛け時計を確認した。午後四時三十五分。スマートフォンを出した。午後四時三十分。
五分。
正確に、五分。
蛭田は微笑んだ。誰もいない店で、誰に向けるでもなく微笑んだ。
「余裕は人を救います」
声に出して言った。
誰も答えなかった。
秒針だけが答えた。
かちり。
かちり。
かち——り。
秒針が、一瞬だけ詰まった。止まったのではない。詰まっただけだ。次の瞬間にはまた動いていた。かちり。かちり。いつもの間隔で。
蛭田は気づかなかった。
左腕が痺れていたからだ。




