最終話 余裕は人を救います
その日の朝も、蛭田正三は六時五分に起きた。
六時二十分、一階に降りた。ドライバーを持った。壁掛け時計の裏蓋を開けた。日本標準時と照合した。差、四分五十七秒。三秒足りない。調整ネジを回した。差、五分〇〇秒。
完璧だった。
五つの時計を確認し終えるのに、今日は十六分かかった。二分の超過である。左手に力が入らず、ドライバーを二度落とした。
蛭田はそれを、寒さのせいだと思った。
八時、開店。壁時計は八時五分。
最初の客は宮前達也だった。窓際の席。パソコン。ブレンド。
十一時、野々村香織が来た。昼休みの前倒しである。手帳を開き、壁時計を見て、腕時計を見て、一致を確認し、満足してコーヒーを飲んだ。正午に帰った。帰り際、「ごちそうさまでした」と言った。
午後一時十五分。壁時計は一時二十分。
蛭田がグラスを落とした。
割れなかった。カウンターの上に落ちて、鈍い音を立てて転がった。
宮前が顔を上げた。
「マスター、大丈夫ですか」
蛭田はグラスを拾おうとした。左手に力が入らなかった。右手で拾った。
「ええ。大丈夫です」蛭田は微笑んだ。目と口が均等に笑った。「少し、肩が凝っただけです」
「無理しないでくださいね」
「ありがとうございます」
宮前は壁時計を見た。一時二十分。締め切りまであと三日ある。原稿はあと千二百字。余裕がある。
宮前はパソコンに向き直った。
十五分後、蛭田正三は床に倒れる。
その十五分のあいだに、宮前はおかわりを頼んだ。蛭田は豆を計量し、ミルのハンドルを回した。
ごり、ごり、と豆が鳴った。
左胸に、重いものが乗った。
ハンドルが止まった。蛭田は左手をカウンターの縁に置いた。指先が冷たい。カウンターの内側の床は、客の席からは見えない。
妻も、こうだったのだろうか。
台所で。一人で。
蛭田の膝が折れた。
小さな音がした。
宮前は顔を上げなかった。締めの一段落が見えていた。あと三行。三行くらいなら、待ってくれる。マスターが何か落としたのだろう。この店では、落ちたものは静かに落ちる。
かちり。
かちり。
かちり。
豆を挽く音がやめば、あとは秒針しか残らない。この店はそういう店だった。いつものことだった。
宮前は三行を打ち終え、保存した。
「マスター。砂糖、もらえますか」
返事がなかった。
宮前は顔を上げた。
カウンターの向こうに、白いシャツの肩がなかった。姿勢の良い老人が立っているはずの場所に、何もなかった。
「マスター?」
立ち上がった。カウンターの端を回り込んだ。
蛭田正三が、床に仰向けに倒れていた。目は開いていた。左手で胸を押さえていた。顔が白い。額に汗が浮いている。
壁時計が、午後一時三十六分を指していた。
実際には、一時三十一分だった。
「救急車。救急車を呼びます」
宮前はスマートフォンを取り出し、一一九をかけた。
「救急です。人が倒れました。喫茶店です。商店街の、振子という——」
住所を言った。
「意識はありますか」
「あります。目は開いてます。胸を押さえてます。顔が真っ白です」
「分かりました。救急車を向かわせます。倒れたのは何時頃ですか」
宮前は壁時計を見上げた。
「一時三十五分です。ついさっきです」
「一時三十五分ですね。救急車が到着するまで、五分ほどかかります。そのままそばにいてあげてください。楽な姿勢を取らせて、動かさないでください」
「はい」
電話を切った。
五分。
宮前は壁時計を見た。午後一時三十七分。
五分後は、一時四十二分だ。
まだ、五分ある。
宮前は蛭田のそばに座った。
「マスター。救急車が来ます。五分で来ます。大丈夫です」
蛭田は宮前を見た。微笑もうとした。微笑めなかった。口が動いた。
「喋らないでください。じっとしていて」
蛭田の口が動いた。声は出なかった。だが唇の形で、宮前にはその言葉が読めた。
よ・ゆ・う・は——
宮前は蛭田の手を握った。
握って、何もしなかった。
何もしないことが、この店の正しい振る舞いだった。慌てない。走らない。余裕は人を救う。
秒針がかちり、かちりと鳴っていた。
壁時計、午後一時四十二分。
救急車は来なかった。
午後一時四十四分。まだ来ない。
午後一時四十六分。
サイレンが聞こえた。
救急隊員が二人、扉から入ってきた。宮前は退いた。
「倒れたのは一時三十五分ですね」
「はい」
隊員がバイタルを取り始めた。血圧。脈拍。酸素飽和度。蛭田の目は開いていた。言葉は出なかった。
もう一人の隊員が無線に向かって話していた。
「——七十四歳男性、発症から約十分——」
壁時計は、午後一時五十分を指していた。
実際には、一時四十五分だった。
宮前はその声を聞いた。聞いて、何も思わなかった。
ストレッチャーが運び込まれた。蛭田が持ち上げられた。
そのとき、エプロンのポケットから、何かが落ちた。
金属がタイルに当たる、小さな音。
宮前は足元を見た。女物の腕時計が転がっていた。革のバンドが擦り切れている。
拾い上げた。軽い。冷たい。
文字盤を見た。
午後三時二十二分。
秒針が、動いていなかった。
この店のすべての時計が正確に五分進んで動いているなかで、この一個だけが止まっている。
宮前は、蛭田がこれをいつもポケットに入れていたことを知っていた。誰の時計なのかは知らなかった。蛭田に妻がいたことを知らなかった。その妻が死んでいることを知らなかった。午後三時二十二分が何の時刻なのかを知らなかった。二十九分という数字を知らなかった。五円のことを知らなかった。この店の時計がなぜ五分進んでいるのか、その本当の理由を、宮前は何一つ知らなかった。
「すみません。これ、この方のものです」
宮前は腕時計を隊員に渡した。隊員はそれを蛭田の荷物と一緒に袋に入れた。
ストレッチャーが店の外へ運び出された。
「付き添いの方は」
「僕が」
宮前は救急車に乗った。扉が閉まった。サイレンが鳴った。
振子が無人になった。
扉は開いたままだった。宮前が閉め忘れていた。商店街の空気が流れ込んだ。椅子が四十一脚。テーブルが八つ。カウンターの上にグラスが一つ、拭きかけのまま。ミルにはコーヒー豆が入ったまま、挽きかけのまま。工具箱の蓋が開いていて、小さなドライバーが一本、見えていた。
壁掛け時計は午後二時五分を指していた。
実際には二時ちょうどだった。
かちり。
かちり。
翌月の理事会に、蛭田正三は出席しなかった。
議題は五つあった。年度末会計。夏祭りの日程。ヨユウくんの着ぐるみのクリーニング費用(一回二万八千円)。シャッターの降りたままの三田村時計店について。そして、その他。
「その他」の冒頭で、赤羽雄介が言った。
「振子さんですけど。当面、お店は開けられないそうです」
「そう」と花屋の安藤が言った。
「そうですか」と不動産屋の村松が言った。
誰も、それ以上のことを聞かなかった。聞けば答えが返ってくる。答えが返ってくると、その答えについて何かを感じなければならなくなる。理事会というのは、そういうものを処理する場所ではない。
赤羽が手帳を開いた。
「では、その他の二件目です」
赤羽は二枚目の企画書を配った。
表紙にはこう書いてあった。
「余裕のまち第二期——十分構想(再提出)」
「前回、否決された案です。ですが、状況が変わりました」赤羽は言った。「来街者数が、先月から鈍化しています。前年同月比で四パーセント減。理由は簡単で、五分に飽きられたんです。話題性が切れた。ここで次の一手を打たないと、この町はただの、時計の狂った商店街に戻ります」
誰も反論しなかった。
数字が出ている企画に、標語で対抗することはできない。前回、その標語を持っていた男は、この場にいない。
「反対です」
野々村香織が立ち上がった。
「野々村さん。市の立場としては——」
「個人の立場です」
「前回と同じご意見ですか」
「はい。十分は、成立しません。五分は、世界が許容するズレの最大値です。その一秒でも外に出たら、世界は許してくれません」
赤羽は微笑んだ。営業マンの微笑みだった。
「でも野々村さん、それ、根拠は?」
野々村は口を開いた。
開いたまま、二秒、何も言わなかった。
「五分でなくてはならないんです。四分でも六分でもいけない。五分です」
「それ、答えになってないですよ」
採決がおこなわれた。
十分案。賛成十六、反対一、棄権六。
可決。
野々村香織だけが反対した。
その夜、野々村は商店街を歩いた。
のぼりが立て替えられていた。「ようこそ、十分早いまちへ」。四十二本。
花屋の時計を見た。十分進んでいた。野々村は店に入り、店員に断ってから、脚立を借り、五分戻した。
不動産屋の時計。十分進んでいた。五分戻した。
惣菜屋。戻した。
コンビニ。戻した。
集会所。戻した。
翌朝、全部が十分に戻っていた。
野々村はまた五分に戻した。翌朝、十分に戻っていた。戻した。十分に戻っていた。戻した。
三日後、野々村は市の観光振興課から「五分早め運動」の担当を外された。
人事とは、そういうものだ。
振子の扉には、鍵がかかっていた。
窓から中が見える。椅子が四十一脚。テーブルが八つ。カウンターの上に、グラスが一つ。ミルの中に、挽きかけの豆。
壁掛け時計が動いていた。
誰も点検していない。誰もドライバーを持たない。それでもクォーツは正確に動く。日本標準時より五分進んだ状態を、機械が勝手に維持している。信念を持たない機械が、信念だけを保存している。
午後八時十五分。壁時計はそう示していた。
商店街の時計は、午後八時二十分を指していた。
振子の時計は、この町でただ一つ、遅れている時計だった。
かち——り。




