第四話 正しい時計
三田村勲の店には、百三十七個の時計があった。
壁掛け時計が十九個。置き時計が二十三個。懐中時計が三十一個。腕時計が六十四個。全部が動いていた。全部が正確だった。
三田村時計店は四十二年間営業している。この四十二年で修理した時計は一万二千個を超える。そのうち修理後に再びズレて持ち込まれたものは八十七個。修理成功率、九十九・三パーセント。
三田村はこの数字を誇りにしていた。誇りにしていたが、口に出したことは一度もない。職人は数字を口にしない。数字は時計に語らせる。それが四十二年のあいだ、この男が守ってきた唯一の美学だった。
美学は、二年で崩壊する。
崩壊の第一報は、柳瀬という常連の女がもたらした。
「五分遅れるんです」
三田村は腕時計を受け取り、ルーペを当てた。クォーツ式の婦人用。電池残量、十分。ムーブメントに異常なし。基準時計——日本標準時に同期した高精度のマスタークロック——と照合。誤差、ゼロ。
この時計は完璧だった。
「ズレてませんよ」
「でも五分遅れるんです」
「何と比べてですか」
「え?」
「何の時計と比べて、五分遅れるんですか」
柳瀬は少し考えた。
「振子さんの時計と」
三田村は説明した。あの店の時計が五分進んでいるのであって、あなたの時計は正しい。柳瀬は「あら、そうなの」と言って帰った。
翌月、別の客が来た。「五分遅れるんです」。正確だった。説明した。帰った。
その翌月も。「五分遅れるんです」。正確だった。説明した。帰った。
その翌月も。
その翌月も。
三田村は四回、蛭田正三のところへ行った。四回とも同じことを言い、四回とも同じ答えが返ってきた。
「直してくれ」
「申し訳ございません。余裕は人を救いますから」
三回目の訪問のとき、三田村は店に入った瞬間に足を止めた。
秒針の音がおかしい。
三田村は四十二年、時計の音を聴いてきた。正確なクォーツの秒針は、ステップモーターによって一秒ごとに打たれる。打つ音は短く、乾いている。
ところが振子の壁掛け時計の音には、余韻があった。
かちり——ん。
かちり——ん。
「ん」の部分は、普通の環境では聞こえない。三田村の耳にだけ聞こえた。文字盤と針のあいだに、微小な遊びがある。日常使用に支障はない。だが三田村の基準では、この時計は不良品だった。
「その時計、針がガタついてる」
「そうですか。よく分かりますね」
「時計屋だからな」
「もし直していただけるなら——」
「五分戻すなら直してやる」
「それは、申し訳ございません」
帰り道、三田村は自分の怒りの正体を考えた。
商売への影響。それはある。だがそれだけではない。腹が立つのは、あの男の確信だ。「余裕は人を救います」。あの揺るぎなさ。
三田村にとって、時間は正確であることが絶対の価値だった。五分の余裕に価値を見出す人間は、五分の誤差を許す人間である。五分の誤差を許す人間は、時間を——ひいては世界の秩序を——軽んじている人間である。
三田村はそう信じていた。正しいと思っていた。
問題は、三田村以外の誰もそう思っていなかったことだ。
のぼりが立った。
「ようこそ、五分早いまちへ」。四十二本。そのうち一本が、三田村時計店の店先に立った。
三田村は引き抜いた。
翌日、また立っていた。引き抜いた。翌日、また立っていた。引き抜いた。三日目、赤羽雄介が来た。
「三田村さん。のぼり、抜かないでもらえますか」
「うちの前だ」
「歩道です。市の管理です」
「うちの店の前の歩道だ」
「そういう法律はないんですよ」
赤羽は微笑んだ。銀行員の微笑みではない。営業マンの微笑みだった。この二つの違いは、前者が苦情を無効化するのに対し、後者は苦情を予算に変換するところにある。
「ステッカーも、貼っていただけると助かるんですけどね。二十三軒中、二十二軒が貼ってるんです。うち一軒だけ空いてると、地図が変になっちゃって」
「地図?」
「観光マップです。市が作ったやつ。参加店舗にヨユウくんのマークが入るんですけど、三田村さんのところだけ、空白になってまして」
「空白でいい」
「空白だと、閉店してると思われますよ」
三田村は赤羽の顔を見た。赤羽は微笑んでいた。悪意はなかった。悪意がないことが、この男の最も危険な性質だった。
「してない」
「ですよね。じゃあ、ステッカーだけでも」
「帰れ」
赤羽は帰った。帰り際、店の前でヨユウくんの着ぐるみと若い女が自撮りをしていた。着ぐるみの眉毛は、五分進んだ時刻を指していた。
その年の暮れ、三田村の店から客が消えた。
正確に言えば、ゼロではない。電池交換とバンド調整の客は来る。だが「ズレを直してほしい」という依頼が消えた。以前は月に十件あった精度調整が、ゼロになった。
理由は明白だった。
客の時計は、すでに五分進んでいる。町の時計と合っている。合っている時計を修理に出す人間はいない。三田村の基準時計に合わせれば、客の時計は町から五分「遅れる」ことになる。誰がそんな修理を頼むのか。
一月、老人が一人、店に入ってきた。
久しぶりの客だった。三田村は立ち上がった。老人はショーウインドウを覗き込み、壁の時計を見上げ、それから三田村を見た。
「おたくの時計、遅れてるよ」
三田村は動かなかった。
「全部。五分」
「……遅れてない」
「遅れてるって。ほら」老人は自分の腕時計を見せた。「五分違う」
「その時計が進んでるんだ」
老人は笑った。三田村の顔を見て、それから店内の百三十七個の時計を見回して、笑った。
「時計屋さんが、時計を直したほうがいいんじゃないの」
老人は帰った。何も買わずに帰った。
三田村はカウンターに座ったまま、しばらく動かなかった。
百三十七個の時計が、正確に時を刻んでいた。
二月。三田村は夜中に目が覚めることが増えた。
ある夜、午前三時に起きた。寝室の壁時計を見た。三時ちょうど。正確。立ち上がって、一階の店に降りた。
暗闇の中で、百三十七個の時計が動いていた。
秒針の音が重なっていた。百三十七個の秒針が、ほんの少しずつずれたタイミングで打っている。一つ一つは正確だ。だが百三十七の正確さが重なると、それはもう「かちり」ではない。
さらさらさら、と鳴っていた。
砂の音だった。
三田村は基準時計を見た。午前三時〇二分十七秒。正確。
スマートフォンを見た。午前三時〇二分。一致。
壁の十九個を順番に見た。全部、三時〇二分。一致。
全部が正確だった。
三田村は安心するはずだった。百三十七個が正しい。自分は正しい。正しいはずだ。
正しいはずの店に、客が来ない。
三田村は基準時計を見つめた。午前三時〇四分三十三秒。正確。完璧に正確。
右手が震えていた。
三田村は自分の右手を見た。四十二年間、〇・一ミリ単位で針を調整してきた手だ。その手が震えている。老いなのか。恐怖なのか。区別がつかない。
いや。
三田村は、いま自分が何をしていたかに気づいた。
確認していたのだ。
基準時計を見て、スマートフォンを見て、壁の十九個を順番に見て、全部が一致していることを確認していた。午前三時に。誰も見ていない店で。
蛭田正三は確認しない。あの男は毎朝ドライバーを持つが、あれは確認ではない。執行だ。五分を正しいと決めた男が、その正しさを物理的に維持しているだけだ。あの男は自分が正しいかどうかを、一度も確かめたことがない。
確信している人間は、確認しない。
三田村は確認している。
ということは——
三田村は基準時計から目を逸らした。
店を出て、二階に上がり、ベッドに潜り込んだ。壁の時計がかちり、かちりと鳴っていた。正確に。正確に。正確に。
三月、三田村勲はシャッターを降ろした。
降ろす前に、一つだけやったことがある。
ショーウインドウの一番手前に置いてあった振り子時計——店で最も古い、祖父の代からの掛時計——の振り子を、指で止めた。
止めた。
長針を、五分進めた。
振り子を、動かした。
時計は五分進んだ状態で歩き出した。
三田村はその文字盤を三秒だけ見つめ、それからシャッターを降ろした。
降ろした翌朝、三田村は振子の前を通った。蛭田が開店前の儀式をしていた。ドライバーを持ち、裏蓋を開け、五分進んだ状態を秒単位で維持している。
蛭田が顔を上げた。
「おはようございます、三田村さん。お店、お休みですか」
「しばらく休む」
「そうですか。お体に気をつけて」
三田村は歩き出した。三歩あるいて、止まった。
振り返らずに言った。
「あんたの時計が、正しいのかもしれない」
蛭田は何も言わなかった。
三田村は歩き去った。
シャッターの内側では、百三十七個の時計が動いていた。
百三十六個が、日本標準時を指していた。誰にも見られることなく、正確に。
一個だけが、五分進んでいた。
その一個だけが、この町と同じ時刻を指していた。




