第三話 十分派
赤羽雄介は、アイデアを思いつく男だった。
実行する男ではない。思いついたアイデアを他人に実行させる男である。この二つは似ているようで、まったく違う職能だ。前者は疲れる。後者は疲れない。赤羽は四十九年の人生でそのことを学び、疲れないほうを選んだ。
商店街振興組合の理事。前職は大手食品メーカーの営業。早期退職して実家の乾物屋を継いだが、乾物は売れない。売れないので、時間が余った。時間が余ったので、企画を考えた。
赤羽が考えた企画の一覧。
商店街ハロウィン仮装大会(三年で終了)。商店街スタンプラリー(二年で終了)。商店街クラフトビール祭り(初年度で終了)。商店街ゆるキャラ「カンブちゃん」(誰も覚えていない)。
どれも失敗した。失敗したが、赤羽は落ち込まない。落ち込まないことが、この男の唯一にして最大の才能だった。
十月の理事会で、赤羽は妙なことに気づいた。
議題は「年末セールの開始時刻について」である。開始は午前十時。ところが花屋の安藤が「うちはもう十時になってるけど」と言い、不動産屋の村松が「まだ九時五十五分だろう」と言い、両者の腕時計を突き合わせたところ、五分ずれていた。
赤羽は室内の時計を見た。集会所の壁時計。十時ちょうど。
スマートフォンを見た。九時五十五分。
「あれ」
赤羽は次の一週間、商店街を歩き回った。
花屋、五分進み。不動産屋、五分進み。惣菜屋、五分進み。パチンコ屋、五分進み。コンビニ、五分進み。クリーニング店、五分進み。歯科医院、五分進み。整骨院、五分進み。集会所、五分進み。市役所出張所、五分進み。
二十三軒中、十九軒。
八十三パーセント。
普通の人間なら、ここで不気味に思う。誰がやったのかと考える。犯人を捜す。
赤羽雄介は考えなかった。この男の頭の中には、犯人を捜す回路が最初から実装されていない。実装されているのは、別の回路だ。
使える、と赤羽は思った。
十一月の理事会で、赤羽は企画書を配った。
表紙にはこう書いてあった。
「五分早い商店街——余裕のまち構想」
「この町の時計は、五分進んでるんです」と赤羽は言った。「これ、面白くないですか」
「面白くないよ」と時計屋の三田村が言った。「間違ってるんだ」
「間違ってるのが面白いんですよ」
「面白くない」
「三田村さん、聞いてください。よその商店街にないものって、なんですか。名物? ないですよ。歴史? ないです。イケメン店主? いません。でもね、うちには五分があるんです。時間が五分早い町。これは唯一無二です。パクれない。土地に紐づいてる」
「紐づいてない。単に狂ってるだけだ」
「狂ってる町、って売れるんですよ」
三田村は黙った。黙ったのは同意したからではない。黙る以外に、この男に対する有効な手段が存在しないと悟ったからだ。
企画は賛成多数で可決された。
三田村勲だけが反対した。
のぼりが立った。「ようこそ、五分早いまちへ」。四十二本。商店街の入口から出口まで、五十メートル間隔で立った。
ステッカーが配られた。「当店の時計は五分進んでおります。余裕は人を救います」。二十三軒すべてが貼った。三田村時計店だけが貼らなかった。
ゆるキャラができた。「ヨユウくん」。時計の顔をした二頭身の生物で、長針と短針が眉毛になっており、常に五分進んだ時刻を指している。着ぐるみの製作費は八十七万円。赤羽はこれを市の補助金で落とした。落とせるものは落とす。この男は、そういう意味では有能である。
テレビが来た。
ローカル局の夕方の情報番組で、三分半。レポーターが商店街を歩き、店主たちが「うちも五分早いです」と笑い、ヨユウくんが手を振り、最後に振子が映った。
蛭田正三は、カウンターの中で微笑んでいた。目と口が均等に笑っていた。
「元祖はこちらの喫茶店なんですよね?」
「元祖などと、そんな」
「なぜ五分進めているんですか」
「余裕は人を救いますから」
この一言が、放送された。
放送された翌週、振子には四十一脚の椅子が足りなくなった。
立ち見が出た。行列ができた。行列は商店街の通りまで伸び、通りに面した花屋と惣菜屋の売上が跳ねた。SNSに「#余裕のまち」というタグが生まれ、二週間で八千件を超えた。若い女がヨユウくんと自撮りをし、その写真が二万回拡散された。
Tシャツが作られた。胸に「五分」とだけ書いてある。二千八百円。千二百枚売れた。
市が動いた。
市の観光振興課が「五分早め運動」を正式に後援すると発表した。市長がヨユウくんと握手する写真が広報誌の表紙になった。市議会で「本市における時間文化資源の活用について」という一般質問がおこなわれ、市長が「余裕は人を救う、という商店街の皆さんの理念を、市としても大切にしてまいります」と答弁した。
議事録に残った。
狂気が、公文書になった瞬間である。
来街者数は前年同月比で四十二パーセント増えた。
赤羽雄介は、生まれて初めて成功した。
成功した男が次に何をするか。これは統計的にほぼ確定している。
もっとやる。
十二月の理事会で、赤羽は二枚目の企画書を配った。
「余裕のまち第二期——十分構想」
「考えたんですけどね」と赤羽は言った。「五分でこれだけの効果が出たわけです。来街者四十二パーセント増。売上ベースで一八パーセント増。数字が出てる。じゃあ——」
誰も何も言わなかった。全員が、次に何が来るか分かっていた。
「十分にしたら、どうなりますか」
沈黙が三秒あった。
「倍でしょう」と赤羽は言った。「単純に考えて」
「単純に考えるな」と三田村が言った。
「三田村さんは反対でしょ。知ってます。他の方は」
安藤が手を挙げた。「まあ、五分でいけたなら、十分もいけるんじゃないの」
村松が頷いた。「話題性は上がるよね。五分は地味だし」
「そうなんです。五分って、地味なんですよ。インパクトが足りない。十分早いまち。どうですか。響きが違うでしょう」
響きは、確かに違った。
その日の理事会には、参考人として二人が呼ばれていた。振子の蛭田正三と、市役所職員の野々村香織である。野々村は「五分早め運動」の市側の担当者になっていた。人事とは、そういうものだ。
赤羽が蛭田に向き直った。
「蛭田さん。元祖として、どう思われますか」
蛭田は微笑んだ。
「十分では、いけません」
「なぜですか」
「五分でなくてはならないんです。四分でも六分でもいけない。五分です」
「その根拠は」
蛭田は微笑み続けた。微笑み続けたまま、何も言わなかった。
三秒。五秒。十秒。
赤羽は待った。理事たちも待った。蛭田は微笑んでいた。目と口が均等に笑っていた。三十八年間の窓口業務で鍛え上げられた無効化装置が、この日はじめて、無効化すべき対象を持たなかった。
「根拠は、ないんですね」
「余裕は人を救います」
「それは根拠じゃないです。標語です」
蛭田は左肩を、一度だけ回した。それから微笑んだ。
「申し訳ございません」
赤羽は勝ったと思った。実際、この時点で赤羽は勝っている。理事会の空気は完全に十分派に傾いていた。数字が出ている企画に、標語で対抗することはできない。
そこで野々村香織が発言を求めた。
「反対です」
「野々村さん、市の立場としては——」
「個人の立場です」野々村は立ち上がった。「十分は、成立しません」
「なぜですか」
「気づかれるからです」
理事たちが顔を見合わせた。
「人間は五分に鈍感です」と野々村は言った。「一分のズレには気づきます。十分のズレにも気づきます。五分は、気づく人間と気づかない人間がちょうど半々になる閾値です。気づいた人間の半分は『まあいいか』と思い、残りの半分は『あとで直そう』と思って忘れます。だから五分は定着する。」
野々村は理事会の壁時計を指した。
「十分は定着しません。十分ズレていたら、全員が気づきます。全員が気づいた瞬間、これは『余裕』ではなくなります。ただの、狂った時計になります」
沈黙があった。
「五分は、世界が許容するズレの最大値です」と野々村は言った。「その一秒でも外に出たら、世界は許してくれません」
三田村勲が、椅子の上で身を固くした。
この男はいま、生まれて初めて、自分の味方かもしれない人間の発言を聞いている。ところが野々村の主張は、三田村の主張とは似ても似つかない。三田村は「時計は正確であるべきだ」と言っている。野々村は「五分でなくてはならない」と言っている。二人は同じ側に立っているのではない。野々村は、三田村よりもさらに遠い場所に立っていた。
三田村は手を挙げた。
「全部、戻すべきだ」
誰も反応しなかった。
「聞いてるのか。全部だ。五分も十分もない。時計は正確であるべきなんだ」
安藤が曖昧に笑った。村松が資料に目を落とした。赤羽が「三田村さんのご意見も承りました」と言った。承っただけだった。
採決がおこなわれた。
十分案。賛成六、反対十四、棄権三。
否決。
「五分」が、商店街の公式基準として維持されることが決定した。議事録に記載された。市の後援も継続される。ヨユウくんの時計の針は、五分進んだままである。
赤羽雄介は負けた。
負けたが、落ち込まなかった。落ち込まないことが、この男の唯一にして最大の才能だからだ。
理事会が終わり、全員が帰ったあと、赤羽は集会所に残って手帳を開いた。
手帳に「十分」と書いた。
二重丸をつけた。
その下に、こう書き足した。
「時期を見て再提出」
赤羽は手帳を閉じ、集会所の壁時計を見上げた。午後九時十五分。実際には九時十分。五分の余裕。
赤羽は帰った。
三田村勲だけが、まだ座っていた。




