93話 彼女と付き合った理由
記憶喪失になる前、主人公には親しい友人が何人かいた。
ある日の放課後、主人公はそのうちの一人と二人きりで教室に残っていた。
窓の外からは、部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえてくる。
主人公は机に頬杖をつきながら、校庭の隅を歩いている彼女を見つめていた。
彼女は主人公に気づくと、小さく手を振った。
主人公も反射的に手を振り返す。
だが、自分がどうして彼女と付き合っているのかは、いまだに思い出せなかった。
彼女と一緒にいるのが嫌なわけではない。
むしろ、そばにいると不思議と安心する。
しかし、それが恋人としての感情なのか、それとも失った記憶が身体に残している感覚なのか、主人公には判断できなかった。
「なあ」
主人公は隣の席に座っている友人へ声をかけた。
「俺とあいつって、どうやって付き合い始めたんだ?」
友人は目を丸くした。
「本人には聞いてないのか?」
「聞きにくいだろ」
「なんで?」
「自分から告白したのか、向こうから告白されたのかすら覚えてないんだぞ」
主人公は小さく息を吐いた。
「彼女に聞いたら、傷つけそうな気がする」
友人はしばらく主人公を見つめたあと、苦笑した。
「記憶を失っても、そういうところは変わらないんだな」
「どういうところだよ」
「彼女が傷つくことを先に考えるところ」
主人公は答えず、再び窓の外へ視線を向けた。
友人は椅子の背もたれに寄りかかる。
「告白したのは、お前のほうだよ」
「俺から?」
「ああ。それも、かなりしつこく」
「しつこく?」
主人公は眉をひそめた。
学校一の美男子と呼ばれ、大勢の女子から告白されていたという話は何度も聞いている。
そんな自分が、一人の女子を追いかけていたとは信じられなかった。
「最初、彼女はお前のことを避けてたんだ」
「嫌われてたのか?」
「違う。目立ちたくなかったんだよ」
当時から、主人公は学校中の女子に人気があった。
廊下を歩けば視線が集まり、休み時間になれば女子たちが教室へ押しかけてくる。
下駄箱には毎日のように手紙が入り、休日に外を歩けば、知らない女子から声をかけられることさえあった。
一方、彼女は目立つことを好まない女子だった。
ただし、外見まで目立たないわけではなかった。
運動をしていたこともあって肩幅があり、華奢というよりは健康的で、しっかりとした体格をしていた。
主人公自身も同年代の男子の中では背が高いほうだったが、彼女も女子の中では一番背が高かった。
二人が並んでも、身長差はそれほどない。
「そういえば、お前、あいつの体格も好きだって言ってたぞ」
「体格?」
主人公が思わず聞き返す。
「変な意味じゃないぞ」
「まだ何も言ってない」
「お前が変な顔したからだろ」
友人は笑った。
「付き合う前に、一度、体育でペアを組んだことがあったんだよ」
その日は、二人一組で行う運動の授業だった。
ほとんどの女子が主人公と組みたがったが、先生が機械的に出席番号でペアを決めた結果、主人公は偶然、彼女と組むことになった。
彼女は主人公の隣へ立つと、少し嫌そうな顔をした。
『うわ……』
『なんだよ、その反応』
『だって、また女子に見られてる』
実際、周囲からものすごい視線が集まっていた。
主人公は苦笑しながら彼女の隣へ立った。
そこで、ふと気づく。
普段、女子と話すときは、かなり視線を下げることが多い。
だが、彼女とはそれほど目線の高さが変わらなかった。
『お前、本当に背高いな』
『悪かったね』
『なんで怒るんだよ』
『女子にそれ言っても、だいたい褒め言葉にならないから』
彼女は少し不機嫌そうに答えた。
昔から、背が高いことを気にしていたらしい。
だが、主人公は首をかしげた。
『俺は好きだけど』
『……何が?』
『背が高いの』
彼女が固まった。
『それに、ちゃんと体格があるのもいい』
『ちょ、ちょっと待って。急に何言ってるの?』
『いや、並びやすいなと思って』
『並びやすいって何!?』
主人公は自分でもうまく説明できなかった。
ただ、彼女の隣に立つと妙に落ち着いた。
自分も背が高いため、ほかの女子と並ぶと、自分だけが必要以上に大きく見えることがあった。
だが、彼女と並ぶと不思議なくらい釣り合って見えた。
無理に身体をかがめる必要もない。
歩幅も近い。
体育で並んで走っていても、自然と速度が合った。
『なんか、お前と並ぶと楽だな』
『それ、褒めてる?』
『かなり褒めてる』
『全然うれしくないんだけど』
そう言いながらも、彼女の耳は少し赤くなっていた。
友人は笑う。
「そのあと、お前、俺たちに『あいつと並ぶと妙にしっくりくる』って何回も言ってたぞ」
主人公は窓の外の彼女を見る。
確かに彼女は背が高い。
今の主人公と並んでも、極端な身長差はない。
「俺、そんなところまで好きだったのか……」
「かなりな。本人は背が高いのを気にしてたから、お前に褒められたとき、めちゃくちゃ驚いてた」
「でも、それだけで付き合いたくなるか?」
「だから、それだけじゃないって」
友人は続けた。
「始まりは、体育のリレーだったと思う」
ある日の体育で、主人公はクラス対抗のリレーに出場した。
運動神経のよかった主人公は、ほかの走者を次々と追い抜いていった。
女子たちから大きな声援が飛ぶ。
主人公も期待に応えようとして、最後の直線でさらに速度を上げた。
ところが、ゴール直前で足を滑らせた。
派手に転び、顔から地面へ突っ込んだ。
何をしても格好いいと言われていた主人公の、あまりにも無様な転び方だった。
周囲が心配して駆け寄る中、彼女だけは少し離れたところで、お腹を抱えて笑っていた。
『ご、ごめん。でも、転び方がすごくて……』
主人公が彼女をにらむと、彼女は笑いながら手を差し出した。
『大丈夫? 学校一の美男子でも、顔から転ぶんだね』
『普通は先に心配しないか?』
『立てるなら大丈夫でしょ』
彼女はそう言って、主人公の膝についた土を払った。
顔がいいとも、走る姿が格好よかったとも言わない。
ただ、派手に転んだ主人公を笑いながら助けてくれた。
それが、主人公にとっては新鮮だったらしい。
「そんな理由で?」
「それだけじゃない」
友人はさらに続けた。
その少しあと、主人公は授業中に体調を崩した。
朝から熱があったにもかかわらず、周囲に心配をかけたくなくて黙っていた。
女子たちの前では、いつもどおり笑顔を見せていた。
誰も主人公の異変には気づかなかった。
しかし、彼女だけは違った。
『今日、あまりしゃべらないね』
『普通だけど』
『顔も赤いよ』
『女子に囲まれてるからじゃないか?』
主人公が冗談でごまかすと、彼女は無言で主人公の額に手を当てた。
そして、すぐに眉をつり上げる。
『熱あるじゃん!』
『大したことない』
『大したことあるよ。保健室に行くよ』
『授業があるから』
『倒れてからじゃ遅いでしょ』
彼女は主人公の腕をつかみ、半ば強引に保健室まで連れていった。
主人公が保健室のベッドで休んでいるあいだも、授業が終わるたびに様子を見に来たという。
「そのころから、お前は本格的に彼女を気にするようになった」
「顔を見ただけで熱があるって分かったから?」
「それもある。でも、お前が一番うれしかったのは、そのあとだ」
しばらく休んだあと、主人公は保健室の先生に言った。
『もう大丈夫です。教室に戻ります』
先生も主人公の顔を見て答えた。
『本人が平気なら、無理しない範囲で戻ってもいいわよ』
ちょうどそのとき、様子を見に来た彼女が会話を聞いた。
『ダメです』
主人公と先生が同時に彼女を見る。
『え?』
『どう見ても授業を受けられる状態じゃないでしょ』
保健室の先生が困ったように笑う。
『でも、本人がもう大丈夫だと言っているからね』
『平気な人は、あんな顔しません』
『俺、そんなにひどい顔してる?』
『してる』
『即答するなよ』
『今日は帰ったほうがいい』
『でも授業が――』
『授業と身体、どっちが大事なの?』
『授業』
『怒るよ?』
『もう怒ってるだろ』
結局、主人公はそのまま早退させられた。
「しかも彼女、お前が帰ったあとも保健室の先生に『無理するって分かってるんだから、ちゃんと止めてください』って怒ってたからな」
「先生にまで?」
「ああ」
主人公は思わず苦笑した。
「強いな……」
「そこも好きだったんだよ、お前」
彼女は主人公の人気や顔に関係なく、無理をしている一人の人間として本気で心配していた。
失敗すれば笑う。
無理をすれば怒る。
そして、本当に困っているときには手を差し伸べる。
主人公にとって、それが何より新鮮だった。
「それから、お前は毎日のように彼女へ話しかけるようになった」
「彼女は逃げたんだろ?」
「毎回な」
主人公が廊下で待っていれば、彼女は別の階段を使った。
下駄箱で待っていれば、友人と一緒に裏門から帰った。
昼休みに隣へ座れば、用事を思い出したと言って立ち去った。
それでも主人公は諦めなかった。
「俺、そんなにしつこかったのか?」
「正直、少し怖かった」
「そこまで言うなよ」
「でも、お前は女子に追いかけられることはあっても、自分から誰かを追いかけたことなんてなかったからな。みんな驚いてた」
主人公が彼女を追いかけるようになってから、周囲の女子たちは彼女へ厳しい視線を向け始めた。
彼女のほうから主人公に近づいた。
主人公を誘惑した。
自分だけ特別扱いされている。
そんな噂まで流れ始めた。
彼女はますます主人公を避けるようになった。
そして、ある日の放課後。
主人公は誰もいない屋上へ彼女を呼び出した。
「そこで告白したのか?」
「いや。最初は怒られた」
「怒られた?」
屋上へやってきた彼女は、主人公を見るなり頭を下げた。
『ごめんなさい。もう私に話しかけないで』
主人公は意味が分からず、理由を尋ねた。
『私と一緒にいると、あなたまで悪く言われるから』
『俺は何も困ってない』
『私が困るの』
彼女は唇をかんだ。
『みんなに嫌われるのは怖いし、あなたのせいで目立つのも嫌。だから、もう近づかないで』
主人公はしばらく黙っていた。
そして、彼女へ尋ねる。
『俺のことが嫌いだから避けてるのか?』
『そういうわけじゃないけど……』
『じゃあ、俺がお前に話しかけるかどうかを、ほかの奴に決めさせる必要はないだろ』
『あなたには分からないよ。あなたはみんなに好かれてるから』
『分からないから、教えてほしい』
彼女は困ったように主人公を見つめた。
主人公はそこで、ようやく自分の気持ちを口にした。
『俺は、お前と一緒にいたい』
『どうして?』
『俺を普通の人間として扱ってくれるから』
主人公が失敗すれば笑う。
間違ったことをすれば怒る。
体調が悪ければ、本気で心配してくれる。
主人公が見ていないところでも、困っている人がいれば手を差し伸べる。
顔や人気に関係なく、一人の人間として主人公を見ていた。
そして、もう一つ。
『あと、お前と並んで歩くの、好きなんだよ』
『……え?』
『背も高いし、俺と体格も近いから、一緒にいると妙に落ち着く』
『こんなときに体格の話する!?』
『大事だろ』
『大事かな!?』
主人公は少し笑った。
『お前、自分の背が高いの嫌なんだろ?』
彼女は少し黙ってから、うなずいた。
『……うん』
『俺は好きだよ』
彼女が顔を上げる。
『無理に小さく見せなくていいし、猫背になる必要もない。俺の隣にいるときくらい、普通に立ってればいいだろ』
『……』
『俺は、そのほうが好きだから』
彼女の顔が一気に赤くなった。
『そういうこと、急に言わないでよ……』
『聞かれたから答えただけだろ』
『聞いてないよ!』
主人公は笑った。
そして、改めて彼女の目を見つめた。
『俺は、そういうところも全部含めて、お前が好きだ』
彼女はしばらく何も言わなかった。
やがて、顔を赤くしたまま尋ねる。
『それって、付き合いたいってこと?』
『そう言ってる』
『でも、あなたなら、もっとかわいい子を選べるよ』
『一番かわいい人を決める大会じゃないだろ』
主人公は彼女の目をまっすぐ見た。
『お前がいいから、お前に言ってる』
『あとで後悔しても知らないよ』
『後悔しない』
『私、怒るよ』
『知ってる』
『格好悪いことしたら笑うよ』
『それも知ってる』
『背も高いよ』
『そこは好きだって言っただろ』
『……体格もしっかりしてるよ』
『それも好き』
『なんでそこだけ即答なの!?』
『好きだから』
『もう……』
彼女は顔を真っ赤にしたまま、しばらく迷っていた。
やがて、小さくうなずく。
『じゃあ……よろしくお願いします』
『なんでそんなに固いんだよ』
『だって、こういうの初めてだから』
『俺も初めてだ』
『うそ。何人にも告白されてたじゃん』
『告白されたことはあっても、付き合ったことはない』
彼女は驚いた顔をした。
そのあと、少しだけうれしそうに笑った。
「それが、お前たちが付き合い始めた日」
友人の話を聞き終えた主人公は、しばらく何も言えなかった。
窓の外では、彼女が別の女子と話している。
背が高いため、遠くにいてもすぐに分かる。
主人公は無意識に、自分と彼女が並んで歩いている姿を想像した。
確かに、不思議なくらいしっくりくる気がした。
「俺、本当にそんなこと言ったのか?」
「言ったよ。しかも翌日、教室で自慢してた」
「何を?」
「彼女ができたって」
「俺が?」
「ああ。告白されても全部断ってたくせに、自分から告白して付き合えたら、一日中機嫌がよかった」
主人公は頭を抱えた。
「想像できない……」
「彼女が教室に来るたび、顔に出てたぞ」
そのとき、教室の扉が開いた。
「お待たせ」
彼女が顔をのぞかせた。
「話、終わった?」
主人公は彼女を見つめた。
彼女は不思議そうに首をかしげる。
「どうしたの?」
主人公は立ち上がった。
近くまで来ると、改めて彼女の背の高さが分かる。
主人公と並んでも、やはり大きな身長差はない。
すると彼女が怪訝そうな顔をした。
「……何?」
「いや」
「さっきから何なの?」
「俺、お前の背が高いところも好きだったらしい」
彼女の動きが止まった。
「……そこまで話したの?」
主人公は友人を見る。
友人は笑顔で親指を立てた。
「かなり詳しく」
「余計なことまで話しすぎ!」
彼女は顔を真っ赤にした。
主人公はそんな彼女を見て、思わず笑ってしまった。
友人から聞いた告白の場面は、今の主人公には他人の思い出のように感じられる。
それでも、彼女が自分の隣に立っていると、不思議と落ち着いた。
これも、失った記憶が身体のどこかに残している感覚なのだろうか。
「今日、一緒に帰れるか?」
主人公が尋ねると、彼女は驚いたあと、うれしそうに笑った。
「うん。帰れるよ」
「寄り道してもいい?」
「珍しいね。どこに行きたいの?」
「まだ決めてない」
主人公は彼女のそばへ歩いていった。
二人が並ぶ。
目線の高さも、歩幅も、確かに近い。
友人が言っていた意味が、ほんの少し分かった気がした。
「ただ、少し話したい」
彼女は一瞬だけ、寂しそうな表情を浮かべた。
記憶を失う前の主人公なら、そんな顔をさせずに済んだのかもしれない。
だが、彼女はすぐにいつもの笑顔に戻った。
「分かった。ゆっくり帰ろう」
二人が教室を出ようとすると、友人が背後から声をかけた。
「ちなみに、お前が告白した屋上、今も入れるぞ」
彼女が勢いよく振り返る。
「ちょっと! 全部話したの?」
「聞かれたから」
「告白のところまで?」
「かなり詳しく」
「背が高いところが好きって話まで!?」
「そこも重要だからな」
「重要じゃない!」
彼女の顔がみるみる赤くなった。
「もう! それは私から話したかったのに!」
彼女は恥ずかしそうに主人公の腕を軽くたたいた。
主人公は思わず笑う。
記憶は戻っていない。
告白した日の気持ちも、付き合い始めたときの喜びも思い出せない。
それでも主人公は、少しだけ分かった気がした。
記憶を失う前の自分が、どうして大勢の女子の中から彼女を選んだのか。
顔や人気ではなく、自分を普通の人間として見てくれたこと。
無理をすれば、本気で怒ってくれたこと。
そして――自分と同じように背が高く、しっかりとした体格で、隣に立ったときに妙に安心できたこと。
「なあ」
主人公が彼女を呼ぶ。
「何?」
「今度、その屋上に行こう」
彼女は驚いた顔をしたあと、静かにうなずいた。
「うん」
そして二人は、以前と同じように並んで歩き始めた。
主人公は横目で彼女を見る。
背の高さも。
歩幅も。
隣にいるときの距離も。
妙に心地よかった。
記憶がなくても、好きになる理由まで全部消えてしまうわけではないのかもしれない。
――だが。
そんな穏やかな時間とは裏腹に、主人公の胸の奥には、別の感覚がくすぶっていた。
男に転生してから、ずっと消えることのなかった嫌な予感。
それが、ここ数日で急速に強くなっている。
まるで何か大きな出来事が、すぐそこまで迫っているような感覚だった。
主人公は足を止め、夕暮れの空を見上げた。
理由は分からない。
それでも、なぜか確信していた。
――もうすぐだ。
何かが起こる。
そのときは、もう目前まで迫っていた。




