82話 幸せの日々
この世界で暮らしているうちに、疑問に思うことはいくつもあった。
病院の仕組み、歴史の空白、神の世界へ送られていった人々。
けれど、どれだけ調べても真実には近づけなかった。下手に疑問を口にすれば、家族まで危険にさらしてしまう。主人公は次第に、何も知らないふりをして生きるようになった。
二十八歳のとき、もう一人子供が生まれた。
これで主人公たちは、三人の子宝に恵まれた。
子育ては決して楽なことばかりではなかった。夫と意見がぶつかることもあったし、子供たちの病気や反抗期に悩まされることもあった。
それでも、家の中にはいつも笑い声があった。
家族みんなで食卓を囲み、休みの日には出かけ、子供たちの成長を夫と一緒に見守った。
この世界の仕組みに不安を抱えながらも、家族と過ごした日々だけは、間違いなく幸せだった。
やがて三人の子供たちは成人した。
それは同時に、主人公たち夫婦の旅立ちの日が近づいたことを意味していた。
主人公はは子供たちを家に集め、誰にも聞かれないように小さな声で話した。
歴史から消された出来事。
地図に存在しない空白地帯。
神の世界へ行った者が、二度と戻ってこないこと。
そして、私自身が別の世界の記憶を持っていることも伝えた。
子供たちは言葉を失っていた。
「そんなこと、今までどうして黙っていたの?」
長女が震える声で聞いた。
「話せなかったの。あなたたちまで連れていかれるかもしれなかったから」
「じゃあ、逃げようよ」
次男が必死に言った。
だが、逃げる場所などなかった。
すべての人間の位置は、手のひらに埋め込まれたチップで管理されている。街にはAIカメラがあり、少しでも不審な行動をすれば、すぐに発見されてしまう。
子供たちは泣いていた。
主人公も夫も泣いた。
それでも、何一つできることはなかった。
数日後の夜。
食卓の上に置いてあった主人公と夫の携帯が、同時に青く光った。
画面には短い文章が表示されていた。
『旅立ちの時が来ました。指定された神社へ向かってください』
ついに、その日が来たのだ。
主人公たちは何も言わず、旅立ちの準備をした。
持っていけるものはほとんどなかった。そもそも、神の世界へ行く者に荷物は必要ないと教えられていた。
玄関には三人の子供たちが並んでいた。
「行かないで」
末の子が、主人公の服をつかんだ。
主人公はその手を握りしめた。
「あなたたちと暮らせて、本当に幸せだった」
夫も子供たちを一人ずつ抱きしめた。
「三人で助け合って生きるんだ。絶対に無茶なことはするな」
子供たちは何度もうなずいた。
玄関の扉を開ける。
外には、青い誘導灯を点滅させた自動運転車が待っていた。
主人公は最後に振り返った。
泣きながら立っている三人の子供たち。
長い間暮らした家。
家族で過ごした、幸せな思い出。
すべてを目に焼き付けるように見つめた。
そして主人公は夫の手を握った。
「行きましょう」
「ああ」
主人公たちは車に乗り込んだ。
扉が静かに閉まり、車は夜の街を走り始めた。
行き先は、空白地帯の近くにある神社。
そこから先に何が待っているのかは分からない。
ただ一つ分かっているのは、神の世界へ旅立った者は、誰一人として戻ってきていないということだけだった。




