81話 重病の患者
主人公が勤務するこの病院には、一つの決まりがあった。
――現在の医療では治療が難しい重病患者や、普通に働くことが困難なほど重い障碍を抱えた患者は、「神の世界」にある病院へ転院させる。
表向きには、より高度な医療を受けさせるための制度とされていた。
産婦人科医として働く主人公にも、ついにその対象となる患者が現れた。
進行した子宮頸がんの患者だった。
本来なら、定期的な健康診断で異常が見つかっていてもおかしくない。
しかも、この世界ではAIによる診断まで導入されている。
それなのに、過去の検査記録を何度確認しても、そこには毎回「異常なし」と記録されていた。
――見落とされたんだ。
主人公は、そう考えるしかなかった。
病気はすでにかなり進行していた。
患者は長期の入院を余儀なくされ、以前のように仕事へ戻れる状態ではなかった。
それでも、主人公は諦めなかった。
海外で行われた治療の事例。
古い医学資料。
新しい治療薬に関する研究報告。
少しでも可能性がありそうな資料を、片っ端から調べていった。
「何かあるはず……」
端末に表示された論文を、何度も読み返す。
「手術が難しくても、別の方法なら……」
だが、調べれば調べるほど、厳しい現実ばかりが突きつけられた。
そして数日後。
主人公は院長室へ呼び出された。
「例の患者だが」
院長は静かに告げた。
「神の世界にある病院へ転院させることになった」
「……待ってください」
主人公は思わず立ち上がった。
「まだ調べています。治療できる可能性が完全になくなったわけじゃありません」
「分かっている」
「だったら――」
「決定事項だ」
院長は主人公の言葉を遮った。
「この病院でこれ以上入院を続けても、回復の見込みは低い。規則に従い、神の世界へ転院させる」
主人公は言葉を失った。
医師である自分が、患者を救う方法を見つけられない。
しかも、もう少し時間があれば、何か見つけられたかもしれない。
その時間さえ、与えられない。
その日の午後。
患者の家族にも、転院の決定が伝えられた。
説明室には、患者の夫と両親、そして姉が集まっていた。
主人公と院長が、その向かい側に座る。
院長は淡々と説明を始めた。
「病状を検討した結果、明日、神の世界にある病院へ転院していただくことになりました」
その言葉が告げられた瞬間だった。
家族全員の表情が凍りついた。
「……え?」
夫が小さく声を漏らした。
「神の……世界?」
母親の顔から、さっと血の気が引いた。
「そんな……」
そして次の瞬間。
「いやあああっ……!」
母親が両手で顔を覆い、その場で泣き崩れた。
「お願いです! 娘を連れていかないでください!」
「お母さん、落ち着いてください」
主人公が声をかける。
しかし、母親は激しく首を振った。
「無理です! 神の世界なんて……そんなところへ行ったら、もう会えないじゃないですか!」
父親も唇を震わせながら、うつむいていた。
普段はあまり感情を表に出さない人だった。
だが、膝の上で固く握られた拳が、小刻みに震えている。
やがて、その目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「まだ……生きているんですよ」
父親が絞り出すように言った。
「娘はまだ生きているんです。それなのに、どうして……」
夫は呆然と椅子に座ったままだった。
「昨日だって、話したんです」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
「退院したら、また一緒に買い物に行こうって……」
声が震える。
「家に帰ったら、好きなものを食べようって……」
そこで耐えきれなくなったように、両手で顔を覆った。
「まだ何も終わってないのに……」
説明室には、家族のすすり泣く声だけが響いた。
まるで、患者がすでに亡くなったかのようだった。
いや――
この国の人々にとって、「神の世界へ行く」という言葉は、それほど重い意味を持っているのだ。
制度上は、ただの転院。
より高度な治療を受けるための移送。
国も病院も、そう説明している。
それなのに――
神の世界へ送られた人間が、再び元の生活へ戻ってきたという話を、主人公は一度も聞いたことがなかった。
「先生……」
患者の姉が主人公を見た。
涙で目を真っ赤にしている。
「本当に、もう方法はないんですか?」
主人公はすぐには答えられなかった。
「まだ……」
拳を強く握る。
「まだ、調べています」
「だったら!」
姉が身を乗り出した。
「だったら、もう少しだけ待ってください!」
「私も、そうしたいです」
主人公の声も震えていた。
「でも……」
その先の言葉が出てこなかった。
決定権は、自分にはない。
院長が決定した以上、明日になれば患者は移送される。
自分は医師なのに。
目の前で泣いている家族に対して、
――私が助けます。
その一言さえ、口にすることができなかった。
その日の夕方。
主人公は患者の病室の前に立っていた。
扉に手をかけたまま、なかなか開けることができない。
昼間に聞いた家族の泣き声が、まだ耳に残っていた。
母親は最後まで、
「お願いですから、娘を連れていかないでください」
と泣き続けていた。
父親も夫も、まるで葬式の席にいるかのような顔をしていた。
――私は医者なのに。
――何もできなかった。
やがて主人公は意を決し、病室の扉を開けた。
患者はベッドの上から主人公を見ると、いつものように少しだけ笑った。
「先生、どうしたんですか?」
主人公は答えられなかった。
患者が不思議そうに首をかしげる。
「……先生?」
主人公は唇を噛んだ。
明日、この患者は神の世界へ送られる。
そのことを、本人はまだ知らない。
家族は、まるで彼女が亡くなると告げられたかのように泣いていた。
そして主人公には――
その決定を覆すことも、
彼女を救えると約束することも、
できなかった。




