80話 子どもをもうけなければならない義務
この国には、二十三歳までに一度も妊娠していない女性は、必ず産婦人科を受診しなければならないという法律があった。
しかも、結婚している場合、女性一人だけでの受診は認められない。
夫婦そろって産婦人科を訪れ、必要な検査と治療を受けることが義務づけられていた。
そして、一人目の子どもを出産するまでは、原則として治療を途中でやめることも許されなかった。
治療は、身体への負担が比較的小さい方法から段階的に進められていく。
最初に行われるのは、タイミング法だった。
超音波検査で卵胞の大きさを確認し、必要に応じてホルモン検査なども行いながら排卵日を予測する。そして、医師から指定された時期に夫婦生活を持つよう指導される。
それを何度か試しても妊娠しなかった場合、次の段階へ進む。
人工授精である。
夫から採取した精子を洗浄・濃縮して調整し、排卵の時期に合わせて細い管を使い、子宮内へ直接注入する。
それでも妊娠に至らなければ、体外受精へ移行する。
女性の卵巣から卵子を採取し、体外で精子と受精させる。受精後、数日間培養して育てた胚を、再び女性の子宮へ戻す方法だった。
さらに、通常の体外受精では受精が難しいと判断された場合には、顕微授精が行われる。
顕微鏡で確認しながら一個の精子を選び、極めて細い針を使って卵子の中へ直接注入し、受精させる方法である。
この国では、そこまで治療を進めても子どもを授からない場合など、医学的にやむを得ない事情が認められない限り、
「自然に任せたい」
「治療をやめたい」
という本人たちの希望だけで、治療を中止することはできなかった。
ある日、主人公が勤める産婦人科に、一組の夫婦がやって来た。
二人は結婚して何年も経っていたが、いまだに子どもがいなかった。
妻は法律で定められた年齢を、すでに過ぎている。
これまで病院から何度も受診するよう通知が送られていたものの、夫婦はそのたびに理由をつけて治療を先延ばしにしていた。
そして今回、ついに規定に基づき、人工授精の段階まで進むことになった。
ところが、診察室で主人公が説明を始めた途端、妻は大きく首を横に振った。
「嫌です」
主人公は思わず聞き返した。
「……え?」
「人工授精なんて嫌です。検査も嫌だし、治療だって身体に負担がかかるじゃないですか」
妻は明らかに不満そうな顔をしていた。
主人公は困惑しながらも、できるだけ穏やかに説明を続ける。
「ですが、これまでタイミング法を続けても妊娠されていません。法律上も、次の治療へ進む必要があります」
しかし、妻は納得しなかった。
「嫌なものは嫌です」
「ですが……」
「嫌です」
まるで駄々をこねる子どものように、何度も同じ言葉を繰り返す。
主人公は困り果て、今度は夫のほうへ視線を向けた。
「確認させてください。これまで、排卵日に合わせて夫婦生活を持つよう何度も指導されていましたよね?」
すると夫は、しばらく黙り込んだ。
何かを言おうとしては口を閉じ、やがて観念したように小さな声で答えた。
「……実は、一度もしていません」
「一度も?」
主人公は耳を疑った。
夫は気まずそうに妻を見た。
「はい。初めての日だけです。付き合っていた頃も、結婚してからも、それ以来一度もありません。ずっと妻に断られていました」
「…………」
主人公はゆっくりと妻へ視線を移した。
妻は腕を組んだまま、そっぽを向いている。
そして、悪びれる様子もなく言った。
「だって、嫌なんだもん。触られるのも嫌。」
「嫌って……」
「私は、みんなに言われて仕方なく結婚したの。好きでもない男に触られるのも嫌なの」
主人公は思わず頭を抱えそうになった。
これでは、いくら排卵日を正確に予測したところで妊娠するはずがない。
そもそも、これまでのタイミング法そのものが成立していなかったのだ。
主人公は一度気持ちを落ち着かせてから、妻に向き直った。
「事情は分かりました。ですが、この国では一人目の子どもを出産するまで、原則として治療を続けなければなりません」
妻は黙ったままだ。
「人工授精がどうしても嫌なのであれば、事情を記録したうえで、もう一度タイミング法からやり直すことも検討できます」
しかし――。
「それも嫌」
妻は即答した。
主人公は言葉に詰まった。
「……では、このままでは規定違反になります」
「知らない」
「え?」
「そんな法律を作った国が悪いんでしょ」
その言葉に、夫の表情が変わった。
「お前……いい加減にしてくれよ」
「何よ」
「俺は何年も話してきただろ。病院から通知が来るたびに、ちゃんとしようって。それなのに、お前が全部拒否してきたんじゃないか!」
「あなたまで私を責めるの?」
「責めたくもなるだろ!」
夫が声を荒らげた。
診察室の空気が、一気に険悪になる。
「俺だって、このままじゃまずいって何度も言った!」
「だからって、嫌なものは嫌なの!」
「それで済む問題じゃないだろ!」
「うるさい!」
主人公は慌てて二人の間に入った。
「二人とも、落ち着いてください。ここで言い争っても何も解決しません。とにかく今日は一度――」
そのときだった。
ピロン。
小さな電子音が、ほぼ同時に二つ鳴った。
夫婦が動きを止める。
「……何?」
妻が自分の携帯を取り出した。
夫もポケットから携帯を取り出す。
次の瞬間。
二人の携帯が、不気味な青い光を放ち始めた。
「…………!」
主人公の表情が凍りついた。
その青い光が何を意味するのか。
この国に住む者なら、知らない者はいない。
――神の世界への移送通知。
妻の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「……嘘」
夫も震える手で画面を見つめている。
そこには、感情のない無機質な文字が表示されていた。
『規定違反が確認されました』
『対象者は神の世界へ移送されます』
「…………」
夫はしばらく呆然と画面を見つめていた。
しかし、次の瞬間。
「お前のせいだぞ!」
突然、妻に向かって怒鳴った。
妻が目を見開く。
「何で私のせいなのよ!」
「お前がずっと拒否してきたからだろ! だからこんなことになったんだ!」
「私、何も悪くないもん!」
「悪くないわけあるか!」
「全部この国が悪いのよ!」
妻も負けじと叫び返す。
「子どもを産めとか、治療しろとか、そんなことを勝手に決める国がおかしいんじゃない!」
「だからって、何年も何もしなかったのはお前だろ!」
「私だけの責任にしないでよ!」
「俺は何度も話した!」
「私だって嫌なものは嫌だったの!」
二人の言い争いは、ますます激しくなっていく。
主人公は必死に止めようとした。
「二人とも、今は喧嘩している場合ではありません!」
だが――。
もう遅かった。
青い光は消えない。
むしろ時間が経つにつれ、その輝きはさらに強くなっていった。
夫は突然我に返ったように主人公を見た。
先ほどまでの怒りは消え、その顔には恐怖だけが浮かんでいた。
「先生……」
「……はい」
「これ……取り消せないんですか?」
主人公は答えられなかった。
一度発行された神の世界への移送命令を、病院の医師が取り消すことなどできない。
夫の顔が絶望に染まる。
妻も、ようやく自分たちが置かれた状況を理解したらしい。
「嫌……」
身体を震わせながら、小さな声で呟いた。
「私、行きたくない……」
そして主人公にすがるような目を向ける。
「先生……助けて」
主人公は唇を噛んだ。
「……申し訳ありません。私には、どうすることもできません」
「そんな……」
その直後だった。
診察室の外から、慌ただしい足音が聞こえてきた。
ドタドタドタドタッ!
足音はまっすぐこちらへ近づいてくる。
そして――。
ガチャッ!
診察室の扉が開いた。
「警察です」
制服姿の警察官が数人、診察室へ入ってきた。
夫婦の顔が凍りつく。
先頭の警察官が携帯端末を確認すると、淡々と告げた。
「神の世界への移送命令が発令されています。お二人には、これより移送施設まで同行していただきます」
「ま、待ってください!」
夫が立ち上がった。
「俺までなんですか!? 拒否していたのは妻なんです! 俺は何度も説得していました!」
しかし警察官は表情一つ変えない。
「夫婦双方に規定違反が認定されています」
「そんな……」
夫の顔が青ざめた。
妻は椅子から立ち上がると、後ずさった。
「嫌……嫌よ」
「移動してください」
「嫌! 行かない!」
妻は首を激しく横に振った。
「私は悪くない! 悪いのはこの国でしょ!」
警察官が近づく。
「抵抗しないでください」
「触らないで!」
妻が逃げようとした瞬間、別の警察官が進路を塞いだ。
夫も慌てて立ち上がる。
「ちょっと待ってください! せめて話を――」
「両手を前に出してください」
「え?」
「両手を前に」
有無を言わせない口調だった。
夫は絶望したような顔をしながら、ゆっくりと両手を差し出した。
カチャリ。
冷たい金属音が診察室に響く。
夫の両手に、手錠がかけられた。
「…………」
妻の目が大きく見開かれる。
「嫌……」
「あなたも両手を出してください」
「嫌よ!」
妻は再び後ずさった。
「私、犯罪者じゃない!」
「規定違反による移送対象者です。抵抗しないでください」
「嫌! 絶対に嫌!」
しかし、逃げ道などなかった。
二人の警察官に両腕を押さえられ、妻にも手錠がかけられる。
カチャリ。
その音を聞いた瞬間、妻の表情から強気な態度が消えた。
「……本当に連れていかれるの?」
誰に尋ねるでもなく、震える声で呟いた。
主人公は何も言えなかった。
警察官に連れられ、夫婦は診察室を出ていく。
それでも二人は、最後まで言い争っていた。
「お前のせいだからな!」
夫が怒鳴る。
「だから国が悪いんだって言ってるでしょ!」
「俺は何度も話した!」
「私だって嫌なものは嫌だったの!」
「それで俺まで巻き込まれたんだぞ!」
「私だけのせいにしないでよ!」
二人の声は、廊下の奥へと遠ざかっていった。
主人公は追いかけることもできず、ただ診察室の入り口に立って、その後ろ姿を見つめていた。
やがて角を曲がり、夫婦の姿が見えなくなる。
それでもしばらくの間、
「お前のせいだ!」
「国が悪いのよ!」
という二人の声だけが、病院の廊下に響いていた。
そして、それも聞こえなくなった。
診察室に静けさが戻る。
机の上には、途中まで説明していた人工授精の資料だけが残されていた。
主人公はそれを見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
逃げることもできない。
拒否することもできない。
どれほど泣いても、怒っても、助けを求めても、一度決定された移送命令が覆ることはない。
この国の決まりに従えなかった者は、例外なく神の世界へ送られる。
それが――。
この世界の、残酷な現実だった。




