45話 推薦を断る女
中学三年生になり、進路相談の時期がやってきた。
放課後、主人公は担任に呼ばれ、進路指導室へ向かった。
机を挟んで向かい合って座ると、担任は一枚の書類を主人公の前に差し出した。
「あなたなら、子ども家庭庁への推薦を出せるわ」
「子ども家庭庁……ですか?」
聞いたことはあった。
この国の結婚や出産、子育てに関する政策を管理する、一番大きな役所だ。そこで働く者は待遇もよく、将来も約束されているといわれていた。
担任は興奮気味に話を続ける。
「この推薦は、誰もが憧れるものなのよ。普通の生徒には、まず声がかからないわ」
「そんなにすごい推薦なんですか?」
「もちろんよ。この学校から推薦できるのは一年に一人だけ。校長先生に何度も頼み込んで、ようやく推薦枠を取ってきたの」
担任は自分のことのように胸を張った。
「あなたには彼氏がいないでしょう?」
「それ、進路に関係あるんですか?」
主人公が聞き返すと、担任は当然のようにうなずいた。
「大いにあるわ。恋人や家庭に縛られていないから、仕事に集中できるもの。それに、あなたは美人でスタイルもいい。国民からの印象もいいでしょうし、将来は幹部にだってなれるわ」
「顔とスタイルで幹部になれるんですか……」
「もちろん、それだけじゃないわよ。成績も優秀だし、真面目だし、誰とでも話せる。子ども家庭庁が求めている人材にぴったりなの」
担任の期待に満ちた目を見ながら、主人公は書類へ視線を落とした。
確かに、悪い話ではない。
国の重要な機関で働けて、将来は幹部になれるかもしれない。
両親に話せば、きっと泣いて喜ぶだろう。
しかし、主人公の心には、前世から捨てられない夢が残っていた。
医者になりたい。
病気やけがで苦しんでいる人を助けたい。
それは前世で果たせなかった、たった一つの大きな夢だった。
主人公はしばらく書類を見つめたあと、静かに担任へ返した。
「すみません。推薦は辞退します」
担任の笑顔が固まった。
「……今、なんて言ったの?」
「辞退します。私は医学部へ進んで、医者になりたいんです」
「ちょ、ちょっと待って。この推薦がどれほど貴重なのか分かっている?」
「分かっています」
「子ども家庭庁よ? 将来は幹部よ? 誰もが欲しがる推薦なのよ?」
担任は書類を手にしたまま、信じられないという顔で主人公を見つめていた。
主人公は深く頭を下げた。
「校長先生にまで頼んでくださったのに、本当に申し訳ありません。でも、医者になることだけは諦めたくありません」
進路指導室に、長い沈黙が流れた。
やがて担任は大きなため息をつき、椅子の背もたれへ体を預けた。
「まさか、子ども家庭庁の推薦を断る生徒がいるなんて……」
「そんなに珍しいんですか?」
「開校以来、初めてよ」
「そこまでですか……」
主人公は少しだけ気まずくなった。
だが、不思議と後悔はなかった。
どれほど恵まれた道を用意されても、自分の夢を捨てて進めば、いつか必ず後悔する。
「分かったわ」
担任は残念そうに書類をしまった。
「そこまで覚悟があるなら、医学部を目指しなさい。ただし、簡単な道ではないわよ」
「はい。頑張ります」
主人公が力強く答えると、担任は困ったように笑った。
「本当に変わった子ね。美人で、スタイルがよくて、彼氏もいない。子ども家庭庁にとって最高の人材なのに」
「最後の一つは褒めてませんよね?」
「子ども家庭庁では立派な長所よ」
主人公は、この世界の価値観には、まだまだ慣れそうにないと思った。
その日の夜。
主人公は夕食の席で、両親に進路相談のことを話した。
「今日、先生から子ども家庭庁への推薦をもらったんだけど……断った」
その瞬間、両親の動きが止まった。
「…………え?」
母が箸を持ったまま固まる。
父も目を見開いた。
「い、今なんて?」
「だから、子ども家庭庁の推薦を断った」
「なんでぇぇぇぇっ!?」
両親の声がきれいに重なった。
「いや、医者になりたいから」
「子ども家庭庁よ!?」
母は今にも泣きそうな顔で主人公の肩をつかんだ。
「幹部になれるかもしれないのよ!? 給料も待遇も最高なのよ!?」
「先生とまったく同じこと言ってる……」
父まで頭を抱えた。
「もったいない……あまりにも、もったいない……」
「そんな泣くほど?」
「泣くわよ!」
本当に母の目には涙が浮かんでいた。
父まで目頭を押さえている。
「校長先生まで動いてくれた推薦なんだろう?」
「らしいね」
「それを断ったのか……」
「断った」
「ううっ……もったいない……」
「お父さんまで泣かないでよ!」
まるで宝くじの一等当選券を自分から破り捨てたかのような反応だった。
しかし、主人公は困ったように笑いながらも、自分の意思を曲げなかった。
「でも、私は医者になりたいんだ。ずっと前から決めてたから」
その言葉を聞くと、両親はしばらく黙り込んだ。
やがて父が、大きくため息をついた。
「……そこまで決めているなら、仕方ないか」
母も涙を拭いながらうなずいた。
「分かったわ。応援する。でも……」
「でも?」
「やっぱり、もったいない……」
「まだ言うの!?」
どうやら両親がこの推薦を諦めるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
主人公は改めて思った。
どうやらこの世界では、自分が想像していた以上に、子ども家庭庁で働くことは特別なことらしい。




