132話 新婚生活
結婚してから、主人公は彼女と一緒に暮らし始め、しばらくたった。
付き合っていたころや、新婚生活の最初のうちは、彼女もかなり気を遣っていたらしい。
主人公が料理をすれば、
「ありがとう。おいしいよ」
掃除をすれば、
「助かる。私もあとでやるね」
そんなふうに笑っていた。
主人公も、
――結婚生活って、案外うまくいくかもしれないな。
そう思っていた。
だが、一緒に暮らす期間が長くなるにつれて、少しずつ彼女の態度が変わっていった。
いや、変わったというより――本性が出てきた、と言ったほうが正しいのかもしれない。
ある日のこと。
主人公が仕事から帰り、ようやくソファに腰を下ろした、その瞬間だった。
「あんた、まだ掃除してないでしょ」
「……今、仕事から帰ってきたばっかりなんだけど」
「だから何? 床、ちょっと汚れてるじゃない。早くやりなさいよ」
「俺も仕事してきたんだけど……」
「私だって疲れてるの!」
そう言いながら、彼女は携帯を片手にソファへ寝転がった。
主人公は思わず、その姿をじっと見つめる。
彼女は仕事にそれほど積極的というわけでもなく、勤務時間も主人公より短かった。
かといって、休みの日に率先して家事をするタイプでもない。
それなのに――。
「あと、洗濯物もたまってるから」
「え?」
「食器も洗ってないでしょ。それもお願い」
「お願いって言い方じゃないだろ、それ……」
「何か言った?」
「……いえ、何でもありません」
完全に女王様である。
しかも、本当に厄介なのは、主人公が彼女の言うことを聞かなかったときだった。
ある日、
「今日は疲れたから、掃除は明日にしない?」
そう言っただけで――。
「…………」
突然、返事をしなくなった。
「ねえ」
「…………」
「聞いてる?」
「…………」
完全無視。
翌朝になっても、機嫌は直っていなかった。
それどころか、普段なら用意されているはずの朝食までない。
「俺の朝ご飯は?」
「自分で作れば?」
「いや、自分で作るのはいいんだけど……昨日の掃除の件で怒ってる?」
「別に」
「絶対怒ってるじゃん!」
「怒ってないけど?」
一番怖いやつだった。
主人公が話しかけても、生返事しか返ってこない。
何を聞いても、
「知らない」
「好きにすれば?」
「勝手にしたら?」
の三連発。
こうなると、主人公のほうが折れるしかなかった。
「……その服、かわいいね」
「…………」
反応なし。
主人公は続ける。
「今日の髪型も似合ってると思う」
「……そう?」
少し反応した。
主人公は心の中で拳を握った。
――よし、効いてる!
さらに畳みかける。
「この前作ってくれた料理もおいしかったよ」
「本当に?」
「もちろん。料理うまいよね」
「まあ、昔から得意だったし」
明らかに声が明るくなった。
――あと少しだ。
主人公は最後の一撃を放つ。
「それに、今日もかわいいし」
「もう。さっきから何なのよ」
そう言いながらも、彼女の口元には笑みが浮かんでいた。
どうやら機嫌は直ったらしい。
主人公がほっと胸をなで下ろした、そのときだった。
彼女が突然、主人公をじっと見つめた。
「でも、あんたのほうがかわいいかも」
「……は?」
彼女は立ち上がると、クローゼットの奥から何かを取り出してきた。
「はい。これ着て」
「何これ?」
渡されたのは、彼女が昔着ていた制服だった。
「いや、なんで!?」
「いいから着てみて」
「絶対嫌なんだけど!」
「…………」
彼女の笑顔が消えた。
主人公は固まった。
――まずい。また機嫌が悪くなる。
結局。
「……着ればいいんだろ、着れば!」
主人公は嫌々ながら制服に着替えた。
しばらくして、制服姿の主人公が彼女の前に戻ってくる。
「…………」
「ほら、着たぞ。これで満足――」
「めっちゃかわいい!」
彼女の機嫌が一瞬で直った。
「似合う! 思ったとおり!」
「俺の尊厳と引き換えに機嫌を直すな!」
彼女は満面の笑みで主人公の周りをぐるぐる回っている。
「やっぱり私より似合ってるかも」
「それはそれで複雑だからやめて!」
少なくとも、完全無視状態からは脱出できたらしい。
主人公は胸をなで下ろした。
しかし、その直後。
ふと思う。
――俺、夫だよな?
――なんで毎日、女王様のご機嫌取りをしてるんだ……?
しかも最近では、女性ものの服まで着せられている。
こうして主人公は、結婚生活を続けるうちに、一つの妙な能力を身につけていった。
彼女の声色。
表情。
歩き方。
ドアの閉め方。
スマホを置く音。
それらを見ただけで、現在の機嫌を瞬時に判定する能力である。
少しでも危険を感じれば、
「今日もかわいいね」
「それ上手だね」
「さすがだね」
と、即座に褒める。
それでも駄目なら、最終手段。
「……今日は何を着ればいい?」
である。
もはや夫というより、女王様に仕える側近だった。
だが――。
皮肉なことに、この結婚生活は、のちに主人公が「神の世界」の謎を積極的に追う原動力の一つにもなっていった。
神の世界について調べることは危険だった。
下手をすれば、命を落とすかもしれない。
以前の主人公なら、
――もし俺が死んだら、妻はどうなる?
――一人残してしまって大丈夫だろうか。
そんなことを考え、危険な行動をためらっていたかもしれない。
しかし今は違った。
家に帰れば、
「あんた、洗濯物まだ干してないでしょ!」
「食器も残ってる!」
「掃除は?」
と女王様が待っている。
しかも、女性ものの服まで着せられる。
――……まあ、俺がいなくなっても、この人なら大丈夫だよな。
主人公が少し意見を言った程度で、翌日まで無視を続けられるほどの精神力まで持っている。
――まったく心配する必要ないな。
そう思うと、不思議なくらい迷いが消えた。
もちろん、妻を嫌いになったわけではない。
長く一緒に暮らしてきた情もある。
大切な家族であることには変わりなかった。
ただ――。
「自分が命を懸けなければならないとき、残される妻のことが心配で動けない」
という感情だけは、いつの間にか完全になくなっていたのである。
その結果、主人公は以前よりも大胆に行動するようになった。
ある夜。
主人公が携帯を眺めながら、神の世界へ侵入する方法を考えていると、背後から妻の声が飛んできた。
「あんた、何してるの?」
主人公の肩がビクリと跳ねる。
「い、いや、ちょっと調べ物を……」
「それより、お風呂掃除した?」
「…………」
主人公はゆっくり振り返った。
神の世界より怖かった。
「今やります!」
主人公は反射的に立ち上がった。
だが、そんな日々の積み重ねが、結果として主人公から一つの迷いを消していた。
――たとえ自分が死んでも、妻なら大丈夫だ。
その確信があったからこそ。
主人公は、やがて命を懸けて「神の世界」の正体を暴こうとする道へ、ためらうことなく踏み込んでいくことになる。




