120話 両親が大喧嘩
子ども家庭庁のおねいさんによる特別授業が終わり、主人公が自宅へ帰ってくると――。
玄関を開けた瞬間、家の奥から大きな声が聞こえてきた。
「だから、何度も謝ってるだろ!」
「謝れば済む問題じゃないでしょ!」
主人公は靴を脱ぐ手を止めた。
「……何事?」
リビングをのぞくと、父と母が向かい合っていた。
いつもなら夕食の準備をしている時間なのに、テーブルの上には料理どころか、食器すら並んでいない。
母は腕を組み、明らかに怒っていた。
「今日は何の日か分かってる?」
父は疲れ切った顔でネクタイを緩める。
「分かってるよ」
「じゃあ、どうしてこんな時間まで帰ってこなかったのよ!」
「仕事が長引いたんだって」
「今日は特別な日なのよ! 早く帰ってくるって言ったじゃない!」
どうやら今日は、両親にとって大切な記念日だったらしい。
ところが父は仕事が終わらず、予定よりかなり遅く帰宅してしまった。
最初のうちは、父も素直に謝っていたようだった。
「悪かった。本当に悪かったよ。連絡するべきだった」
しかし、母の怒りは収まらない。
「本当に仕事だったの?」
「仕事だよ」
「誰かと会ってたんじゃないでしょうね?」
「は?」
「浮気してるんじゃないの?」
父の眉がぴくっと動いた。
「してない」
「だったら証拠見せてよ」
「なんの証拠だよ」
「携帯!」
「なんでそこまでしないといけないんだよ!」
そこから、一気に空気が悪くなった。
「怪しい!」
「怪しくない!」
「だったら見せられるでしょ!」
「仕事の連絡も入ってるんだから、勝手に見せられないんだよ!」
「ほら! やっぱり怪しい!」
「なんでそうなるんだ!」
主人公はリビングの入口で固まっていた。
「……帰るタイミング、最悪だったな」
できれば、このまま自分の部屋へ逃げたい。
しかし、すでに母と目が合ってしまった。
「あっ、ちょっと聞いて!」
「嫌な予感しかしないんだけど」
母は主人公を味方につけようと、父を指さす。
「今日、お父さん、記念日なのにこんな時間まで帰ってこなかったのよ!」
父も負けじと反論する。
「仕事だったんだよ!」
「でも連絡もしなかった!」
「それは悪かったって言ってるだろ!」
主人公は困った。
どう考えても、自分が裁判官をやる案件ではない。
「二人で話し合ってよ……」
ところが、その言葉など聞こえなかったかのように、口論はさらに激しくなっていった。
「あなたは昔からそう!」
「昔の話まで持ち出すなよ!」
「去年だって忘れたでしょう!」
「去年はちゃんと次の日に埋め合わせしただろ!」
「次の日じゃ意味ないの!」
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
そして、ついに――。
父が頭を抱えながら叫んだ。
「もういい!」
リビングが静まり返る。
父は勢いのまま言った。
「そんなに俺のことが信用できないなら――離婚するか?」
「……え?」
母の顔から怒りが消えた。
主人公も目を見開く。
「え?」
さっきまで怒鳴っていた母の表情が、一瞬で青ざめる。
「り……離婚?」
父も自分で言ってから少し後悔したようだったが、引っ込みがつかなくなっていた。
「ああ。毎回こんなことで疑われるなら、そのほうがいいだろ」
すると――。
母の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「嫌ぁぁぁぁ!」
「えっ」
父がひるむ。
母はその場に座り込み、本気で泣き始めた。
「こんなことで離婚なんて大げさよぉぉ!」
「いや、さっきまであれだけ怒ってたのはそっちだろ!」
「離婚するなんて言ってないもん!」
「浮気してるって言っただろ!」
「疑っただけよ!」
「それも十分ひどいだろ!」
しかし母は、それどころではなかった。
今度は主人公の服をつかみ、涙目で訴えてくる。
「お願い! お父さんを説得して!」
「なんで俺!?」
「離婚されたら困るの!」
「それは分かるけど……」
母は首をぶんぶん振った。
「違うの! 離婚そのものも嫌だけど、それだけじゃないの!」
そして、恐ろしいことを口にした。
「家族で神の世界になんて行きたくないわ!」
「……は?」
主人公の動きが止まった。
「今なんて?」
「だから、離婚したら家族みんな神の世界に送られちゃうじゃない!」
主人公は数秒間、言葉を失った。
「……みんな?」
「そうよ!」
母は泣きながら主人公の肩をつかむ。
「あなたもよ!」
「俺も!?」
主人公の声が裏返った。
「なんで夫婦喧嘩に子どもまで巻き込まれるんだよ!」
母は涙を拭いながら答える。
「家庭としての存続が困難と判断された世帯、全員そろって神の世界行きなのよ!」
「知らないよ、そんなこと!」
学校でも、そんな重要な話を聞いた記憶がない。
……いや。
主人公はふと何かを思い出した。
「あ……」
「なによ?」
「そういえば、年に一回ある宗教の講話で、そんな話をしてたような……」
毎年聞かされているのに、ほとんど聞き流していた。
まさか自分の家庭に関係する日が来るとは思っていなかったのだ。
主人公は頭を抱えた。
そして、恐る恐る父を見る。
「……本当に離婚するの?」
父は黙り込んだ。
母が叫ぶ。
「しないって言って!」
「……」
「あなた!」
「……」
主人公まで参加する。
「お父さん!」
父は頭を抱えた。
「分かった! 分かったから!」
「離婚しない!?」
「しない!」
母の顔がぱっと明るくなる。
「本当!?」
「ああ! しない!」
「よかったぁぁぁ……!」
母は再び泣き出した。
ただし今度は、安心した涙だった。
父は大きくため息をつく。
「ただし!」
そして母を指さした。
「もう簡単に浮気とか言うな!」
「言わない!」
「携帯見せろとかも言うな!」
「言わない!」
「あと、去年の話を持ち出すのも禁止!」
「それは……」
「そこ迷うな!」
主人公もすかさず叫んだ。
「迷わないでよ! 俺の人生もかかってるんだから!」
こうして、いつの間にか主人公まで本気で夫婦喧嘩の仲裁に参加することになった。
そのあとも――。
父には、母が疑ったことを何度も謝り。
母には、父が記念日に遅くなったことを謝り。
主人公はなぜか両方の間を行ったり来たりしていた。
一時間後。
ようやく夫婦喧嘩は終わった。
母は泣き疲れた顔で父の隣に座っている。
父もすっかり怒りが冷めていた。
「……来年の記念日は絶対早く帰るよ」
「約束よ?」
「ああ」
「浮気もしてない?」
「してないって!」
主人公はソファの反対側から二人を見る。
「もう二度と離婚とか言わないでよ」
父が苦笑する。
「悪かったよ」
「こっちは夫婦喧嘩を見てただけなのに、突然『お前も神の世界行き』って言われたんだからな」
あまりにも理不尽だった。
今日、主人公は子ども家庭庁のおねいさんによる特別授業を受け、ようやく家に帰ってきたばかりである。
それなのに、帰宅直後に両親の離婚危機。
しかも離婚すれば、自分まで神の世界送り。
主人公は深いため息をついた。
「……家に帰ってまで特別授業みたいなイベント起こさないでくれよ」
父と母は同時に答えた。
「ごめん」
こうして、家族総出の説得によって離婚騒動は無事に終わった。
そして主人公は、この日初めて身をもって理解した。
この世界では、夫婦喧嘩ひとつでも、下手をすると家族全員の人生が終わりかねないらしい。
主人公は天井を見上げた。
「……この世界って、怖すぎない?」
心の底から、そう思った。




