117話 修学旅行(1)
みんなが楽しみにしていた修学旅行。
クラスメートたちは朝から浮かれていた。バスの座席は恋人同士、水族館も恋人同士、遊園地も恋人同士。夜には二人で夜景を見る予定まで立てている。
しかし、主人公だけは集合場所に着いた時点ですでにげんなりしていた。
主人公の隣には彼女がいる。そこまでは普通だった。
問題は、そのさらに隣に、なぜか大きな旅行かばんを持ったこども家庭庁のおねいさんまで立っていたことだった。
しかも、おねいさんは誰よりも楽しそうだった。首からカメラを下げ、旅行用のお菓子まで大量に用意している。
「……どうして、おねいさんまでついてきたんですか?」
主人公が恐る恐る尋ねると、おねいさんは満面の笑みで答えた。
「だって、私がついていかなかったら、旅行中に特別授業ができないじゃん」
「できなくていいんですよ!」
主人公のツッコミが、朝の集合場所に響いた。
しかし、おねいさんはまったく気にしていない。
「この日のために有給休暇まで取ったんだから」
「休暇中まで仕事をしないでください!」
「仕事じゃないよ。修学旅行だよ」
「じゃあ特別授業もしないでください!」
どうやら、おねいさんは主人公の修学旅行についていくため、わざわざ有給休暇を申請したらしい。
職場では、上司から何度も確認されたという。
「有給休暇の理由は、旅行ですか?」
「はい。担当している生徒の修学旅行です」
「それは本当に休暇なんですか?」
「もちろんです」
誰が聞いても休暇には思えなかった。
しかも、学校への同行は校長先生に直接お願いして実現させたらしい。
もっとも、担任の話によると、お願いというほど穏やかなものではなかった。
「私も修学旅行に同行していいですよね?」
「いや、外部の方を同行させるのは、さすがに前例が……」
「いいですよね?」
「しかし、保護者への説明も必要で……」
「いいですよね?」
「……はい」
校長先生は、震える手で許可書に判子を押したという。
つまり、脅されたのである。
一方、彼女は朝からものすごく不機嫌だった。
せっかくの修学旅行なのだ。周りのみんなと同じように、主人公と二人きりで水族館を歩き、遊園地で遊び、夜景を見るつもりだった。
それなのに、なぜかもう一人いる。
しかも、そのもう一人は旅行かばんだけでなく、特別授業用の資料まで持ってきていた。
「修学旅行は、恋人同士で楽しむ行事なんだけど」
彼女が低い声で言った。
「大丈夫。私は邪魔しないから」
おねいさんは笑顔で答えた。
「その存在がすでに邪魔なの!」
主人公は二人の間に立ちながら、出発前から帰りたくなっていた。
最初の目的地は水族館だった。
巨大な水槽の前で、彼女が主人公の右腕をつかんだ。
「一緒に写真を撮ろう」
すると、おねいさんも主人公の左腕をつかんだ。
「その前に、イルカを見に行こうよ」
「私は主人公と写真を撮るの」
「写真なら三人で撮ればいいじゃん」
「二人で撮りたいの!」
二人は主人公の腕を左右から引っ張り始めた。
「痛い! 腕が伸びる! そのうち僕がチンアナゴみたいになりますよ!」
水槽の中では魚が優雅に泳いでいたが、主人公には魚を見る余裕などなかった。
近くにいたクラスメートたちは、その様子を楽しそうに眺めていた。
「主人公、二人から取り合われてる」
「すごくモテてるな」
「じゃあ代わってくれる?」
主人公が真顔で尋ねると、全員が一斉に目をそらした。
誰も代わってはくれなかった。
次の目的地は遊園地だった。
ジェットコースターの前では、主人公の隣に誰が座るかで争いが始まった。
「恋人なんだから、私が隣に座るの」
「引率者なんだから、私が隣に座らないと」
「いつ引率者になったんですか?」
「校長先生から許可をもらったから」
「校長先生は脅されただけですよ!」
結局、じゃんけんで決めることになった。
しかし、彼女が勝つと、おねいさんは言った。
「今のは練習ね」
おねいさんが勝つと、彼女は言った。
「後出しだった」
何度勝負しても決着がつかない。
やがて後ろには長い列ができ、係員が困った顔で近づいてきた。
「お客様、そろそろお決めいただけますか?」
最終的に、主人公が二人の真ん中に座ることになった。
「三人で座れるなら、最初から争わなくてよかったですよね?」
主人公の質問に、二人は聞こえないふりをした。
ジェットコースターが急降下すると、彼女は主人公の右腕を、おねいさんは左腕を強くつかんだ。
「うわあああ! 乗り物より両隣の握力のほうが怖い!」
主人公の悲鳴だけが、遊園地中に響き渡った。
観覧車でも同じだった。
彼女は主人公と二人で乗ろうとしたが、扉が閉まる直前、おねいさんが素早く乗り込んできた。
「間に合った!」
「間に合わなくてよかったのに!」
狭い観覧車の中で、主人公は二人の間に挟まれた。
おねいさんは窓の外を眺めながら、嬉しそうに言った。
「きれいな景色だね」
「僕からは二人の顔しか見えませんけど」
主人公は窓の外を見ることすらできなかった。
そして夜、一行は街を一望できる夜景スポットへ向かった。
周りでは恋人たちが静かに寄り添い、光り輝く街を眺めている。
彼女は今度こそ主人公と二人で過ごそうと、主人公の手を握った。
「やっと二人で夜景を見られるね」
ところが、おねいさんも反対側の手を握った。
「三人で見る夜景もいいね」
「よくない!」
彼女が即座に叫んだ。
「主人公は私の彼氏なの!」
「でも私は特別授業の担当だから」
「夜景を見ながら何を教えるつもりなのよ!」
「後であなた達に特別授業行うわよ?」
「そのために有給休暇を取ったんですか!」
主人公のツッコミが、美しい夜景の中にむなしく響いた。
その後も、記念写真を撮る場所、土産を選ぶ店、ホテルへ戻るバスの座席まで、二人は主人公を取り合い続けた。
バスでは右肩に彼女が、左肩におねいさんが同時にもたれかかって眠っていた。
主人公は完全に身動きが取れなかった。
前の座席にいたクラスメートが振り返り、羨ましそうに言った。
「主人公、両手に花で楽しそうだな」
主人公は死んだ魚のような目で答えた。
「水族館に置いて帰ってほしかったよ……」
みんなにとっては、恋人との楽しい思い出を作る修学旅行。
しかし主人公にとっては、彼女と有給休暇を取ってまでついてきたこども家庭庁のおねいさんに、振り回され続けたのであった。




