20 時代の区切り
もう自分のすべきことは片付いたようだ、と認識した城戸は、静かに敬礼してから病室を辞した。
室内にはベッドの背もたれをやや起こしてそこに身を預けた螺旋と、伶那、高瀬が残される。
高瀬はなるべくかいつまんで、螺旋が眠り続けていた十日間の出来事を説明した。城戸と弓狩によって〈意識の海〉とやらの蔦が焼き払われたことや、春日井が室長代行を務めていること、悪神・テオドールの消滅が宣言されたこと、そして、後処理もほぼ完了したことも。
「……そうですか」
螺旋は短く言って、
「……皆さんのお手を煩わせてしまいましたね」
そう付け足した。
「大丈夫ですよ、そんな心配しなくていいです」
高瀬の言葉に伶那も頷く。
「余計なこと考えてないで、循環の安定に努めなさい」
「……はい」
応えてから螺旋は、色の異なる双眸を遠くに向けた。
「――悪神は、きちんと消滅しましたか」
質問のニュアンスではない。自分に言い聞かせるような調子だった。
「そうみたいですよ」
「ならば、やはり適切な選択ができたようです」
「…………」
伶那がそれを受けて息を吐いた。
「禁術行使の言い訳にはならない。けど、確かに他にあれを倒せる方法はなかったみたいね」
「……はい」
「…………」
「まああんた自身も存在消滅の一歩手前だったわけだけど……魔力回路も暴走せずに、一応きちんと生きてるわけだし。けどまあ回復途上で暴走の可能性はゼロではないわね、循環の安定のためにちゃんと休むこと。人間でいること」
ぴしゃりと言い放つ姉弟子を、螺旋は静かに見ていた。
「……はい。ですが――これで良かったのです。例えば私が彼のようになってしまう可能性も、決してないとは言い切れ――」
「それはありませんよ」
高瀬は強い口調で割り込んだ。
「羽佐間さんは大丈夫です。あなたは、あんな化け物にはならないですよ」
「…………」
螺旋は口をつぐんで目を伏せる。月のような銀色に変わった長い睫毛が、微かに震えた。
「……買いかぶりすぎですよ」
やがて彼女から紡がれた短い言葉に、高瀬は一瞬気圧される。決戦となった場に高瀬はいなかった。完全に閉鎖された異空間だか何だかの中で、実際に何があったのか、だから彼は正確なことは知らない。突き詰めてしまえば高瀬に彼女の、その力ゆえの孤独は理解不能だ。しかし、それでも。
「――それでも、羽佐間さんは大丈夫です」
高瀬は繰り返した。伏せられていた螺旋の目が、ゆるゆると高瀬を捉える。蒼く染まった左目の中で小さな光が揺れた。
「……ありがとうございます」
しばらく言葉を選ぶように沈黙してから、彼女はそう言った。
「やれやれ、ま、高瀬くんの言う通りよ、螺旋。さてと、じゃあ少し休んでなさい。高瀬くんも説明は済んだでしょ、帰る」
「……はい」
休めと言われた螺旋は不承不承といった様子で、高瀬は確かに長居すべきではないだろうという意識で口々に同じ返事をし、
「では羽佐間さん、自分は戻っていますので。咲坂さん、お願いします」
高瀬も病室を辞した。
* * *
例によって、人目のつかない場所に停まった車の運転席には十六夜参事官、後部座席には観月審議官、その隣に雨野怜香が座っていた。
「――というわけで、魔捜の件は片付いたわ。まあ、全部署が絡んでいる関係で、後処理の完了まではもう少しかかるようだけど」
「……高瀬くんがそちらへ行くまでは、大きな動きがなかったはずでしたよね」
「ええ。補助能力――物理干渉が、結果的に羽佐間の引力も加速させて、急速に悪神を引き寄せた、というのが、情分からの報告として上がっているわ。補助能力自体の詳細が未解明だから、あくまで仮説ということだけれど……黒峰の仮説ならそれはもう確定、ね」
「……なるほど」
「悪神の件が片付いた以上、時代の大きな区切りとはなるだろうけど――高瀬をそちらに返さなかったら怒るかしら?」
観月は嫣然と怜香を見やる。怜香は微笑んだ。
「刑事として普通に優秀でしょう、高瀬くん」
「ふふ、ええ」
「……正直五係の戦力としても欲しいですけど――ちなみに本人はどう言っていますか?」
「まだ何も伝えてないわ」
「――なら」
怜香は左手の人差し指を顎の辺りに当て、僅かに首を傾けた。
「……高瀬くんに選んでもらって下さい」
「あら、こっちに貰ってもいいの?」
「高瀬くんがそちらを選ぶなら」
「そうね、選ばせましょう、本人に――十六夜、手配をしておいて」
「――はい」
それまで気配を消していた十六夜が、陽だまりを思わせる声で応じた。
「……それにしても、よくあんな人材を見つけたものね」
観月は感心したような、それでいてどこか呆れたような表情を怜香に向ける。
「早乙女警視長からのリストをチェックしていたら……該当の人物は五係にいると気付いて、それだけなんですけど」
怜香は困ったように微笑んだ。
「けれど前任はリストアップできなかったでしょう」
「あー……それはリストアップできなかったと言うよりは、そちらが特殊すぎるだけでしょう、そもそもは刑事ですよ、私たち。異能部署なんて、普通はファンタジーの世界です」
「それはそうね」
「高瀬くんがそちらに馴染んでいることの方が――どちらかと言うと異常かと」
「ふふっ、そうね」
「…………」
十六夜が運転席で前を向いたまま、その無表情を僅かに動かしたことに、女帝と怜香は気付かなかった。
「……あの」
怜香は少し逡巡してから、切り出した。
「何?」
「これは古くからの友人として、お伝えしてもよろしいですか?」
「あら、何よ」
「……夜さんは変わりませんね」
にっこりと笑みを浮かべた怜香に、
「うるさいわね」
女帝はいつもとは違う、素に近い笑顔を向けた。
「……審議官、そろそろお時間です」
侍従長が時計を見て、静かに告げる。
「判ったわ」
「……では観月審議官、私はこれで失礼します」
「ええ」
女帝が頷いたのを見て、怜香は車を降りた。
「会議があったわね」
「はい。高瀬の件については、早乙女に指示しました」
「十六夜、相変わらず仕事が早いわね」
「ありがとうございます」
侍従長は恭しく礼を述べ、静かに車を発進した。
* * *
翌日、クリニックの病室では、ベッドに身を起こした螺旋に伶那が静かに向き合っていた。十日間の眠りから覚めて以降、彼女は眼鏡をかけていない。恐らくまだ華火が持っているはずだった。
「とにかく、しばらくは外に向けての魔力の使用は厳禁。これまで生活すら魔力でどうにかしてたツケが回って、身体がギリギリ。今使える魔力もそんなにない。その魔力は生命維持に回すしかないから、死にたくないんならしばらくここで休む。で、食事もちゃんと摂る」
「……はい」
螺旋は大人しく頷く。
「ったく、返事は良いけど、今朝出した食事も残してる。あんたちゃんと状況理解してるの?」
「……していますよ」
螺旋は目を逸らして答えた。伶那は無言の圧とともにカロリー補助飲料を差し出した。
「飲む」
「……これは、甘――」
「そう、甘いやつ。手っ取り早くカロリーを補うのには最適」
螺旋は嫌そうな目を向ける。彼女は甘い物が好きではない。無論伶那もそれは百も承知である。
「…………」
口を結んだまま受け取り、嘆息しながら彼女はそのパック飲料にストローを通した。数瞬ためらってから、静かにストローに口を付ける。どう見ても苦行に耐えている表情でそれを飲み切るのを見届け、伶那は息を吐いた。
「よし、偉い偉い。昼食はきちんと摂りなさいね、そうすればこれは出さないから」
「……はい」
観念したように螺旋が頷く。
「――螺旋」
やがて静かな瞳で、伶那はそう呼びかけた。
「……何ですか」
「あんた……あの禁術の代償――」
「この髪の色は目立ちますか」
「は? ああ、まあ……黒野さんに少しだけ似てるかしらね、その色は」
「…………」
「良いんじゃない? 前は判りやすく対になってたけど、秩序と混沌は表裏一体っていう意味で言うなら、これもこれでアリでしょ」
「……あまり好ましくはありませんが、仕方ありませんね」
薄茶色の右目と蒼い左目が、僅かに下を向く。
「代償と言うよりは――後遺症かしらね」
「…………ええ、そうでしょう」
やや長い沈黙を挟んでから、螺旋は応えた。
そこへ、病室のドアが控えめにノックされた。看護師に連れられて顔を見せたのは、高瀬だった。
「先生、今大丈夫です?」
「あら氷室ちゃん、どうしたの?」
「高瀬さん、羽佐間さんにお話があるとかで……」
看護師――氷室に促された高瀬が頭を下げた。
「オッケー、こっちの話も済んでるし、入っていいわよ」
「失礼します」
高瀬の表情に真剣なものが浮かんでいるのを見て、伶那は氷室を伴って席を外した。
「――羽佐間さん、お話があります」
「何ですか」
「ええと、早乙女部長から選択肢を渡されまして――」




