15 魔術師の変貌
白い梟――ミネルヴァはまっすぐに螺旋に向かい、その途中でふんだんにレースが使われた白いブラウスとボリュームのあるロイヤルブルーのロングスカートを纏った黒髪の女性に姿を変えた。崩れ落ちる螺旋を抱き留める。
「……よくやったわね、螺旋」
螺旋を抱き留めた女性は、労うようにそう囁いた。
「――あなたは」
罅の入った音叉の構えを解いて、智歩がその女性に声を掛ける。
「もしかして――夜明けの魔術師、ですか?」
空中から地上に戻った漆も、黙ってその様子を見守っている。
「初めましてになるわね。ええ、私は夜明けの魔術師、宵宮暁音よ」
螺旋を抱きかかえた女性は、穏やかな笑みを湛えてそう名乗った。
「……霊魂すらも、残らなかったんじゃなかったかしら?」
漆の問いに、ええ、と暁音は頷いてから、
「元の軸では、そうなのだけれど――ここは特殊な次元の狭間だから、かしらね」
少しだけ困ったような笑みを浮かべ、そう返す。
「――それに、神降ろしの力もあるのでしょう。テオドール――私が出会った頃はサミュエルと名乗っていたのだけれど――に喰われてから、ミネルヴァの魂を見つけて、そこに隠れていたのよ。悪神は、一度取り込んでしまった力に関しては……全て己の制御下にあると思っていたみたいだけれど」
「……あらゆる条件が整って、ここに現れた、ということ……でしょうか?」
「まあ、簡単に言うとそんなところでしょうね。実際私の命は、向こうにはもうないのだし」
暁音は頷いて、
「……あなた、混沌の魔女でしょう? この子をお願いできるかしら?」
「……ふふ、夜明けの魔術師の頼みなら、仕方がないわね」
完全に意識のない螺旋を、漆に託した。
「驚いたわね、神降ろしを行使してなお、命を繋いでいるなんて。これじゃあ――ふふっ、まるで化け物だわ」
漆の顔にはしかし、螺旋を愛でるような表情が微かに浮かんでいる。
「……さあ、あなたたちはそろそろ行きなさい。こちらは私が引き受けます。ここにはこの子の魔力が残っているから大丈夫よ」
暁音がたおやかに微笑んだ。螺旋を抱きかかえた漆が小さく頷く。
「――マズい、空間が壊れます。黒野さん急ぎますよ!」
聖堂に入った罅が大きくなり、地響きが聞こえ始めた。智歩の音叉にも亀裂が入っている。
「ふふっ、解っているわ」
応じて、漆は地面を蹴った。智歩も続く。崩壊していく聖堂の上部には、白く光る空間の出口が見えている。入ってきたときには禍々しい黒と紫の渦だったそれは、テオドールという主を失って、その妖気も取り払われていた。
しかし。
「だめだ、間に合わない……っ」
既にこの次元の狭間は限界を迎えていた。智歩が振った音叉も、虚しく空を切るだけだった。音叉の亀裂は更に広がり、ついに片方の先端が音を立てて割れた。
「っ!」
漆が出口までの動線を確保しようと、薔薇の花びらを舞わせて次元軸を繋ぐ。だが空間の崩壊速度の方が上回っていた。
暁音の放った援護も、漆たちの元まで届かない。
「――っ、ここまで来て……っ」
智歩が表情を歪めて壊れた音叉を振るう。
出口はもうすぐそこだが――ほんの僅か、間に合わない。
そこへ、
「――ええぇぇぇいっ!」
向こうから声が聞こえた。つづりの声だ。次の瞬間、三人は強い光に包まれた。
* * *
テオドールが所持していた次元の狭間が、完全に閉じた。聖堂は跡形もなく崩れ去り、瓦礫の散乱する世界は完全な闇に包まれる。
それでも宵宮暁音の周囲だけは、ほんのりと光を放っていた。
「…………」
暁音はテオドールだったモノを見遣る。離れた位置に転がる、彼が所持していた身体は、もう動かない。
暁音の力を、そして命を奪った忌むべき悪神は、ついに消滅するのだ。
「けれど、この空間が存在していると、この悪神は生き返ってしまうかもしれないわね」
暁音はふわりと優しい笑みを浮かべ、すっと右手を掲げた。
「さあ――〈夜を、終わらせましょうか〉」
手のひらから眩い光が生まれる。
光は暁音を、テオドールの亡骸を、そして空間を包み、
そして、
テオドールが――かつてサミュエルと名乗った悪神が――あらゆる魔術師や悪魔、人々の感情を喰いながら貪婪の限りを尽くしていた悪神が、自らのために造り出し拠点としていた次元の狭間は、その主ともども、夜明けの魔術師・宵宮暁音と一緒に完全に消滅した。
* * *
「羽佐間さんっ……!?」
つづりが夕鷹の援護を受けて異次元に対してかけたテレポーテーションで、螺旋、漆、智歩はこちら側に戻ってきた。しかし、螺旋は漆に抱きかかえられており、明らかに意識がないどころかその髪の色が変貌している。高瀬はそれを見るやいなや短く叫んだ。
「っ……」
夕鷹はそれを見て、全てを悟った。華火も蒼白な顔色で、漆に抱えられた螺旋を見る。預かっている眼鏡をきゅっと握った。
「ちょっと、どういうこと――」
二階堂の言葉を夕鷹が遮る。
「うちのクリニックで処置する。それは普通の医療でどうこうできるものじゃないわ。近くにうちの人間待たせてるからすぐ運ぶ。他の話は後」
「――了解、センセ」
応じた二階堂はインカムに向け、
「現象自体は片付いた。記操及び空管は通常処置で後処理に入って。以降指揮は僕が引き継ぐ」
そう指示を飛ばす。それから夕鷹に向け、
「じゃあ螺旋ちゃんを頼むよ」
「言われるまでもないわ。結崎さん、黒野さんと螺旋、それからあたしを下ろしてもらっていい?」
「はいっ。三人ならどうにか行けます。ちょっと揺らぎは感じるかもですけど許して下さいね」
「……と言うわけだから高瀬くんは自力で下りてきて」
「はい」
「じゃあ、行きますよ。認識!」
つづりの左目が光り、漆と螺旋、そして夕鷹は、高瀬や二階堂、智歩と華火、そしてつづりの前から姿を消した。
「はい、高瀬くんは下までダッシュね、センセたちに同行。階段気を付けてね。結崎くんと真山くんはゆっくり下りていいよ、本部に引き上げて貰っていいから」
「はい!」
二階堂に言われ、高瀬は駆け出す。
息を切らして地上に辿り着くと、夕鷹とそのクリニックの人間と思われる女性が、特捜の車両ではないワゴン車に螺旋を乗せているところだった。螺旋はぐったりしており、やはり意識はないようだ。漆は少し離れた場所で、腕を組んでその様子を眺めていた。
「あ、高瀬くん、早かったわね。着いてくるように言われたでしょ」
夕鷹に問われ、頷く高瀬。
「助手席に乗ってて。よし、じゃあ氷室ちゃん、運転お願い」
後部座席に意識のない螺旋を座らせ、それを支えるように隣に座った夕鷹が、氷室と呼ばれた女性に言う。
「はい、先生」
氷室も素早く運転席に乗り込み、車は夕鷹――伶那のクリニックに向かった。
「……ええと、咲……み、深森、さん?」
「ああ、もうどっちでも大丈夫よ」
「では、咲坂さん……あの、羽佐間さんは……」
高瀬には、螺旋の意識がないこと、そしてその髪が変色していることしか理解できていない。
「……一刻を争う。今はあたしの魔力で繋いでる。既に処置は開始してる」
彼女は短く答えた――ならば存在としては、現在彼女は深森夕鷹を維持しているのか、と高瀬は理解した。
「――何故、そんな事態に?」
「多分、禁術を行使したんだわ。はッ、螺旋ならやりかねないと思ってはいたけど――まさか本当にやるとはね」
伶那――夕鷹は言ってから、更に続ける。
「この状態で戻ってきたってことは、悪神は消滅したはずよ。けどそのために、神降ろしっていう禁術を行使した。現代ではもう誰も使えないとされてたはずの術だけど、その方法に辿り着いてたわけね、螺旋は。通常――神降ろしを行使した術者は、代償として命を払うことになるわ」
「っ!」
高瀬は思わず、助手席からばっと後部座席を振り返る。
「……危ないですよ」
運転席の氷室が冷静に言い、
「す、すみません」
高瀬は前に向き直った。しかしその衝撃は消えていなかった。
「……羽佐間さんは」
「今のところは命を繋ぎ止めているわね。ギリギリ間に合わないからあたしが魔力的に介入してる。この後クリニックで本格的に魔術的治療に移るわ。髪の色が変わっているのも代償でしょうね、術を行使したときに変化したんでしょ」
「…………」
夕鷹はあくまで、冷静さを保っていた。高瀬に対する説明は淡々としている。
やがて夕鷹のクリニックの裏口に、ワゴン車は辿り着いた。
スタッフと思われる数名が、ストレッチャーを用意して待機していた。以前螺旋と訪れた際にすれ違った看護師の姿もそこにあることに、高瀬は気付いた。
「すぐに処置室」
夕鷹がそれだけ指示すると、すぐに看護師たちが螺旋を車から降ろし、ストレッチャーに移す。そしてクリニックの中へと運び入れる。
「高瀬くんはその辺のソファで待ってて」
そう言い残し、夕鷹と氷室も足早にストレッチャーを追った。
「はい……」
高瀬はショックから立ち直れないままそれだけ呟き、茫然として院内に足を踏み入れる。クリニックの廊下の照明は、夜間と言うこともあってか控えめだった。
どこをどう歩いたのか定かではないが、騒がしい気配のする処置室の近くに辿り着き、そこにあるソファに腰を下ろす。心臓の早鐘は治まりそうになかった。
――確かに危なっかしい一面は持っていたが、それでも羽佐間螺旋は最強の魔術師のはずだった。長身だが華奢な体躯に、豊かな黒髪。顔色は良くないし基本的に無表情だが、機械のように整った美しさを備えた、最強の秩序の魔術師。
食事や睡眠を削るのは、それすらその莫大な魔力で補えてしまうからだったはずだ。
どんな窮地に瀕しても、涼しい顔で戻ってきてしれっと紅茶を飲んでいたはずだ。
事実今日だって、ヴェパールを逮捕――封印した。確かに少しの間出血していたが、あんなに淡々とした調子で悪神の空間に踏み込んでいったではないか。
――それが、今。
禁術とやらを使って悪神を消滅させた――らしい――結果、彼女はどうなっている? あの月光のような白銀の髪は――どういうことだ?
これまでのことが走馬灯のように蘇るのは、高瀬の補助能力の告知以来、二度目だった。




