14 禁術
そのまるで巨大な聖堂のような空間で、螺旋は悪神――テオドールと距離を置いて向き合っていた。
そこへ僅かに空気の揺らぎが発生し、テオドールが眉をひそめた。しかし口元は笑ったままだ。
「おや? 侵入者がいるみたいだね」
螺旋はその言葉を黙殺する。
「羽佐間さん!」
どこからともなく音叉を携えた智歩が現れ、それに続いて、
「あらぁ、このノイズはそれなりに美しいわね」
ゴシックロリータのドレスを翻しながら漆も現れる。
「お二人とも、お手数をおかけします」
「いえいえ、任務ですからね、っと」
智歩が小さく音叉を振り、その空間を軽く調律した。
「それなりに美しいノイズではあるけれど――だからこそ混沌の中に収束してもらわないと困るわ。ふふふっ」
「あははっ、魔術師ではないみたいだけど――食べ応えはありそうだね」
テオドールはその無垢な声とは不釣り合いなことをのたまい、嗤った。
即座に智歩が音叉を振るう。
「――させませんよ」
絶対零度を思わせる声で螺旋が言い放ち、再びその魔眼を発動させる。悪神には似つかわしくない聖堂を、魔法円が覆い尽くした。
「それでこそ獲物として相応しいというものだよ」
美しい少年の姿をした悪神は純粋な声で邪悪な言葉を吐き、その双眸に得体の知れない炎を宿す。
――それが、戦闘開始の合図だった。
テオドールは地面を蹴って舞い上がり、重力など存在しないかのように虚空にその姿を固定する。次の瞬間、その頭上から真っ黒で巨大な手が躍り出た。
その手は螺旋に向かうが、彼女は軽く跳躍してそれを躱す。続けざまにテオドールが放った衝撃波も、右手で薙ぎ払う。そして、魔眼の左側を力強く光らせた。聖堂を覆い尽くす魔法円が、最大輝度でその効力を発動させている。
「あはははっ、僕を楽しませてくれるみたいだね?」
テオドールは心底楽しそうに言って、少年の顔には不釣り合いな邪悪な笑みを浮かべた。巨大な黒い手を一旦引っ込め、連続で衝撃波を放ってくる。
「っ――」
すかさず智歩が音叉を大きく振り、左方向に跳躍する。螺旋も再度右手で空を切るような動作をしながら後方へ跳び、衝撃波を躱した。智歩の調律が、次々と放たれる衝撃波を破壊していく。
「ふふっ、やるわね、探索者。けど――」
常に余裕を湛えている漆の瞳が、僅かに翳る。
「名のある魔術師を片っ端から喰ってきただけのことはあるようね」
瞳の翳りとは反対に歌うような調子で言い、両手の指先でドレスのスカートをつまんで持ち上げ、ふわりと舞い上がった。テオドールと同じように重力を無視し、漆は空中で静止する。
「ここは異次元のようだから――ふふふ、私にとっても好都合だわ」
童話に出てくる猫のような笑みを浮かべた次の瞬間、黒い薔薇の花びらが無数に聖堂を舞った。
「……ふぅん」
テオドールはそう呟くと、再び頭上から巨大な手を出現させる。
「じゃあ、そっちの魔女から頂こうかな」
巨大な手は漆に向かった。
「ふふっ、この私を喰おうなんて、良い度胸ね」
漆は華麗に舞うようにして巨大な手を躱し、
「魔術師!」
螺旋に声を飛ばす。
「――――」
螺旋は声では応じずに、右の魔眼も発動させる。同時に漆が再び薔薇の花びらを無数に舞わせる。智歩がまた音叉を振った。
しかし、テオドールはまだその動きを封じられることなく、心底愉しそうに嗤う。
「あはははっ、いいね、遊びがいがあるのは――とても素敵だね」
そしてその双眸にぞっとするような冷たさを宿し、
「――素敵だけど、気に食わないな」
先ほどとは比べものにならない衝撃波を、幾重にも重ねて放った。
「……っ!」
「――っ」
螺旋、漆、智歩はそれぞれの能力でその衝撃波を緩衝し、破壊する。
「ふふっ、気に食わないのは――」
宙に浮かんだままの漆も、底知れぬ笑みを湛えて、
「――こちらも同じだわ」
今度は深紅の薔薇の花びらを舞わせた。
螺旋の魔法円がその無数の花びらを強化し、深紅の花びらのそれぞれが異様な光を纏う。
智歩がまた音叉を振ると、光を纏った無数の花びらが一斉にテオドールに向かい、彼を包み込む。
しかし次の瞬間、テオドールはその花びらを全て弾き飛ばした。
「っ、埒があかない!」
智歩が叫ぶ。
「ふふ、探索者、諦めるのはまだ早いわよ」
漆が愉しそうに言い、螺旋は静かにその魔眼の火力を最大値に引き上げた。
と、そこへ、
聖堂を――空間を揺るがすような、大きな干渉が加えられた。
「な、何?」
智歩が警戒するように音叉を構えるが、
「あらぁ? これは――援護、かしらぁ?」
漆が別の次元を見るような目をし、干渉の源であろう方向を見やる。
「これは……」
螺旋は何かに思い当たったように漆の視線を追うと、
「……ラインハルト」
小さく、だが確かに、そう呟いた。
かつての使い魔の援護が――確実に、螺旋たちを包むように、聖堂を揺るがす。
それを受けて、テオドールの造り出した彼のための聖堂は――空間は、その強度をやや下げた。
「ちっ――」
テオドールは苦々しげにそう吐き捨てると、干渉の源である別の次元に向け、冷たい衝撃波を放つ。それによりその干渉は断たれた。しかし聖堂の強度は戻らない。
「ラインハルト!」
干渉が断たれたことで、螺旋の瞳が一瞬だけ揺れ、彼女にしては感情の乗った小さな叫びが放たれた。
「あははっ、そうか、お嬢ちゃんには――あの鴉がいたね」
テオドールは心底愉しそうに言うと、
「けど――これであの鴉も本当におしまいかな」
両の口の端を不自然なほどに持ち上げる。
「…………」
螺旋は数瞬、絶対零度の沈黙を宿してから、
「黒野さん」
漆に低い声で呼びかけた。
「なぁに?」
「――あとを、頼みます」
「っ」
その言葉に、漆は初めて動揺した様子を見せる。
「魔術師、あなたまさか――」
漆の言葉を最後まで聞かず、螺旋はくるりと背を向けた。
「やめなさいっ、こんな次元の狭間で――」
「 」
制止を聞かず、螺旋は何か呟いた。その声に呼応するように、瞬時に彼女を強い光が包む。
風が吹いた。
その風に靡く螺旋の髪は漆黒から透き通る銀に変わっている。右目は赤から黄金へ、左目は緑から白銀へと変化し、輝きを増した。
「……これは――〈神降ろし〉?」
智歩が囁くように言う。
「……馬鹿」
漆は一瞬だけ俯き、すぐに顔を上げる。
「仕方がないわね、骨は拾ってあげるわ!」
そして漆は、深紅の薔薇の花びらを舞わせる。
「っ」
智歩も音叉を構えた。
――神降ろし。
ほぼ伝説のようなものとしての知識は、漆にも智歩にもあった。魔術師の世界に存在したと言われる禁術である。時代を問わず、ゆえにその生死も問わず、この世に存在した、あるいは存在する全ての魔術師の力を、たった一人の魔術師に集約すると言われる禁術である。それゆえ術の行使者にそれを受け止められる器がなければそもそも成り立たないことと、そして――全ての魔術師の力を集約したその先に待つのは、行使者の死とされることが、禁術である所以だ。
透き通る月光のような色に変わった髪を靡かせ、螺旋は一言も発さずにその場に立っていた。
「探索者、恐らくあの状態は――敵も味方も区別しないわ。生き残りなさい」
漆が智歩に向け囁く。
「判ってますよ」
智歩は音叉の構えを解かずに応じる。
やがて螺旋は、金と銀に光るその目に信じられないほどの魔力を宿し、音もなく右手で空間を横に撫でた。凄まじい魔力が、テオドールは元より漆や智歩にも放たれる。
「っ」
漆は花びらを舞わせ、智歩は音叉を振って身を守る。
テオドールも飛び退いたものの、避けきれはしなかった。
「ぐっ……」
その少年貴族のようなドレスのフリルが裂かれ、テオドールにもダメージが入ったようだ。すかさずテオドールも衝撃波を放つが、神降ろしを行使している螺旋に、それは意味を成さない。強大や莫大という言葉では最早とても形容できないほどの魔力を――現在の螺旋は宿していた。
形勢は一気に逆転する。
螺旋は無言で、テオドールに飛びかかる。その魔眼の火力は、既に上限値を振り切っている。
「っ……」
テオドールは動きを止めた。
――喰ってきたはずの魔術師たちの力も含め、それ以上の力が、螺旋に集約されている。テオドールの顔に、初めて焦燥に近い表情が浮かんだ。
「魔術師! そろそろ危ないわ、力を――」
漆の声は螺旋に届かない。神降ろしという禁術は、当然それだけの反動も伴う。その上ここは次元の狭間だ。次元を管轄する漆、そして時空を司る能力を持つ智歩が居るとは言え、不安定な空間であることに変わりはない。
そんな空間は、長時間のイレギュラーに耐えられない。やがて聖堂に――世界に、罅が入る。
「っ!」
智歩が音叉を振って時空を調律する。その様子も見えていない様子で――恐らく実際に見えていない――螺旋はとうとうテオドールを魔法円に縛り付けた。
「そん、な……」
テオドールは、信じられない、という顔を浮かべた。もう――指一本、動かすことはできなかった。そして、それ以上の言葉を口にすることも、不可能だった。
螺旋の銀色の髪が逆立ち、魔眼がこれ以上ない鋭い光を放つ。
「――混沌へ」
温度のない声と共に、螺旋はテオドールに手をかざした。放たれた魔力がテオドールを切り裂く。
テオドールは、断末魔を上げることすらできなかった。その身体を真っ二つに裂かれ、あっけなくそれぞれが離れた場所に落ちる。
同時に、空間が激しく揺れた。
その時を待っていたかのように、裂かれたテオドールの中から白い梟が飛び出した。
「……、ミネルヴァ?」
梟を認めた螺旋は、正気を取り戻したようにその名を口にする。次の瞬間、彼女はその意識を手放した。神降ろしの負荷に耐えるのは、そこまでが限界だったのだ。




