13 悪神
黒いロングコートをはためかせ、月光を受ける金髪がこの世のものとは思えない光を放つ。
そのぞっとするような美貌には何の感情も浮かばせず、ヴェパールは無言でそこに立っているのだった。
「――黒野さん、柊さん」
螺旋はまず短くそれだけ言った。
それを合図にするように、智歩が音叉を大きく振る。漆も深い笑みを湛え、ドレスのスカートをつまんだ。
「……時空座標を固定、ヴェパールと他の時間軸を切り離しました。時空の転移は不可能です」
「ふふっ、次元座標も固定したわ。邪魔者は入って来られないはずだし、あれもこの世界から抜け出せないはずね。こっちは私と探索者で管理するわぁ。じゃああとは――任せるわよ、魔術師、青年」
智歩と漆の言葉を受け、螺旋は小さく頷いてから高瀬を見た。
「では――高瀬さん」
高瀬も既に魔法銃をホルスターから取り出し、準備を終えている。
「――はい」
頷き返し、螺旋が右方向へ駆け出したのを見てから高瀬は左方向に駆けた。
屋上の床面のほぼ全てを、螺旋の魔法円が覆っている。いつもより輝度が高い。
ヴェパールはそれを見て、冷たく美しい笑みを浮かべてから、
「――――」
人語ではない何かを呟いて、まっすぐに螺旋を目がけて飛んだ。
滑空するように移動するヴェパールに、高瀬がすぐさま魔法銃の照準を合わせる。螺旋は右腕で空を切るような動作をし、ヴェパールが放ったらしい衝撃波を打ち消した。魔法円のきらめきが更にその強さを増す。
射程範囲内に螺旋が入っていないことを見定め、高瀬は魔法銃を撃つ。朝倉が言っていた通り、撃った段階では普通の拳銃と同じ反動が返ってきた。その弾丸はヴェパールの脇腹に命中した。それと同時に、
「――!?」
重力を無視して滑空していたヴェパールが、地面に叩きつけられた。脇腹から黒い靄のようなものが空中に溶けだしている。
「……はッ、なるほど、魔法銃、ね」
高瀬はこれまでと違うその光景に、やや苦笑を浮かべながらそうこぼし、這いつくばっているヴェパールに再び照準を合わせる。
その向こうで螺旋が、右の魔眼を発動させようとしている気配がした。本来なら悪魔は、彼女の左目の力だけでその動きを封じられるはずなのである。既に魔法円が展開されている状況――しかもいつもより強力な魔力が込められていることが、この輝度から明らかである――で、ヴェパールが滑空していたことが理から外れているのだ。
――ヴェパールは、悪神によって強化されている。螺旋の圧倒的な魔力をもってしても、手こずる程度には。
「羽佐間さん!」
ヴェパールに照準を合わせたまま、高瀬はその声を螺旋に投げる。
「ええ、予めお伝えした通り、銃撃と魔眼を同時――っ」
螺旋がそこまで言ったとき、相変わらず這いつくばったままの――先ほど魔法銃が命中した脇腹から、黒い靄を吐き出し続けているヴェパールが、その目に憎悪を浮かべ、
「――――」
何かを呟いた。
「っ!」
螺旋の左手が、右腕をきつく押さえる。
「っ、羽佐間さん!?」
嫌な予感は当たった。この状況で――ヴェパールは螺旋にエフェクトとやらをかけたようだ。月明かりが微かに、しかしはっきりと、彼女の白い左手に右腕から出た鮮血が伝うのを映した。
一瞬だけその表情を歪めた螺旋はしかし、すぐに左手を右腕から離し、その魔力を宿す双眸に異様なまでの力を込める。右腕からは血が滴っていたが、螺旋はそれ以上そのことに構わなかった。
「……高瀬さん、予定通りに」
「……っ、はい!」
高瀬は魔法銃を握る両手に力を込める。
魔法円の輝きが最高潮に達するのを確認しながら、確実に狙いを定めた。
「――混沌より出し者」
螺旋の詠唱に合わせ、引き金に指を掛ける。
「――混沌へと還りなさい!」
詠唱の後半と、高瀬の射撃が同時だった。
ヴェパールから流れ出る靄がその量を増し、そして、ついにヒトの姿を失う。魔法円が収束していき、空気の密度も下がっていく。
そして魔法円が収束しきったその場所に、一枚の紙片が残された。ヴェパールの紋章のはずだ。
今回は奪われてはならない。
螺旋も高瀬も、周囲を警戒しながら紋章の元へ駆け寄る。悪神の気配は――ない。
そして螺旋は、ヴェパールが紋章にまで封じられたからなのであろう、出血の形跡の残らない右手で紋章を拾い上げ、人差し指と中指で挟む。
「螺旋の狭間へ!」
力強く言い放ち、そして、
――ヴェパールの紋章は、確実に霧消した。
「……羽佐間さん、ヴェパールは」
「……片付きました」
一度その魔眼の発動を解除したらしく、元の色に戻った彼女の瞳が、高瀬を捉えた。
「……よしっ」
高瀬が小さく拳を握っていると、漆と智歩、そして夕鷹が歩み寄ってきた。
「ふふっ、魔術師、手こずってたじゃなぁい?」
漆が茶化すように言うのを、螺旋は受け流した。傷口の化膿とやらのエフェクトを一時的にとは言えかけられたことで、多少の消耗が見られる――影響下にある中でのエフェクトによる出血は、確か、無かったことにはならないはずである。
「……羽佐間さん、大丈夫ですか?」
まだ拳を握っている場合ではなかった、と気付いた高瀬の問いに、螺旋は短くええ、と頷いた。その息はやや上がっている。この人に大丈夫かどうかという問い方をしてもあまり意味はなさないことを、高瀬は思い出す――大丈夫とは呼べないだろう。
「――とにかくこれで、ヴェパールはもうこちらへは出てこられませんね」
音叉の構えを解いた智歩が言い終わったところへ、密度が下がっていたはずの空気が不穏にゆらめいた。
「……!?」
これまでにないほどの嫌な寒気に襲われ、高瀬はその源と思われる方向を見やる。最初にヴェパールが立っていた場所だ。全員がそちらに目を向けているのが、高瀬にも判った。
「あはははっ!」
不自然なまでに無垢な哄笑が、屋上に響く。
中世ヨーロッパを思わせる青いドレスを身に纏った、プラチナ色の髪をした少年が立っていた。その顔の右側は、長い前髪で隠れている。
螺旋の静かな目が、それを捉えた。
「――見つけた」
その言葉は、少年の口から発せられると同時に、螺旋の口からも放たれた。
「羽佐間さん、あれが――」
高瀬の言葉に答えたのは、しかし螺旋ではなく漆だった。
「ふふっ、ついに悪神のお出ましね」
智歩が素早く再び音叉を構える。
「っ」
夕鷹も苦い表情を浮かべ、再度結界を張る動作を繰り返し、つづりや華火、二階堂が潜んでいる場所への結界を強化した。
「随分大きくなったね、お嬢ちゃん」
そう言って少年は、微かな笑みを浮かべた。
「――あなたは随分若返ったようですね」
どうにか呼吸を整えた螺旋の冷たい声に、少年の笑みが深まる。
「今は〈テオドール〉と名乗っているんだ」
「……悪趣味なのは相変わらずですね」
螺旋の言葉を受け、テオドールと名乗った少年はにいっと笑う。そして、背後に底知れなさを予感させる、黒と紫の渦を発現させた。
「ここじゃ、僕には不利みたいだから」
テオドールはその渦の向こうへと螺旋をおびき寄せるように、後ずさる。
「――逃がしません」
螺旋はおびき寄せられると呼ぶよりも自ら踏み込むように、テオドールを追った。
「夕鷹さん、こちらを――高瀬さんたちを、頼みます」
「羽佐間さんっ!?」
駆け出そうとした高瀬の腕を夕鷹が掴んで止める。思いがけずその力は強かった。
「……高瀬くん、きみは――だめ」
「ちょっ、離して下さい咲坂さん! ほら、渦が閉じ――」
「今は咲坂じゃない。深森夕鷹」
螺旋に似た、温度を持たない声で、夕鷹は言い放った。
「あたしは識見の魔術師として、こっち側を守らなきゃいけない――高瀬くん、きみも含めて」
「っ――」
螺旋とテオドールを呑み込んだ禍々しい黒と紫の渦が、彼らの視界から消えた。
「ちょっ、あれ危険な奴でしょう!? 羽佐間さん一人で――」
「もちろん羽佐間さんお一人には背負わせませんよ」
力強い声は智歩から放たれた。
「ふふふっ、そのために――私たちも来たわけだし」
漆が楽しそうに言い、ぱちんと指を鳴らした。それまで姿を見せなかった二匹の猫が出現する。
「クロエ、シャルロット、こっちをお願いね」
黒猫と白猫は、にゃあ、と答えた。そして、二階堂やつづり、華火のいる方へ音もなく駆けていく。
「二階堂さん、そっちお願いしますね!」
「判ってる、大丈夫だよー」
智歩の呼びかけに二階堂が反応した。
「――じゃあ識見の魔術師、こちら側との境界管理は任せるわよぉ」
「了解」
夕鷹が頷く。まだその片手は、力強く高瀬を掴んで止めている。
「……それじゃ黒野さん、行きますよ」
「ふふっ。ええ」
智歩が大きく音叉を振った。それによって時間軸に干渉が起き、先ほど消え去ったはずのあの禍々しい黒と紫の渦が、再び同じ場所に現れる。
「…………」
高瀬はもう、夕鷹に抵抗することを諦めていた。それを理解したように、夕鷹は高瀬の腕を放した。
「二人とも」
夕鷹は漆と智歩に向けて口を開いた。
「螺旋を死なせないで」
「もちろんです」
「ふふっ、均衡は守らなくちゃいけないもの、私の混沌に相応しいのは――魔術師しかいないわ」
「じゃあまずは、この渦を時空座標に固定して――」
智歩が音叉を振るう。
「ふふっ。行ってくるわ」
そんな言葉を残し、智歩と漆は渦の中に飛び込んだ。
高瀬は無言でその場に立ち尽くしたまま、螺旋とテオドール、そして漆と智歩を呑み込んだ渦を見ていた。




