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「最初は少しややこしいかもしれません。こちらです」
総務の区画を何度か折れながら、先を進む螺旋の背中を、高瀬は必死で追いかける。下手をすると見失ってしまいそうな雰囲気に包まれている。
やがて細い廊下に出た。それは微妙に下り坂になっているらしかった。
「……転ばないで下さいね」
「転びませんよ」
しかし、油断をすれば本当に転んでしまうかもしれない、奇妙な傾斜である。おまけに廊下は薄暗い。照明は点いているが、節約のためなのか何なのか、明かりは抑えてあるようだ。
一瞬、目の前にいるはずの螺旋の姿が、消えた。
慌てて足を速めた次の瞬間に、
「あれ?」
周囲の景色と明るさが変わっており、どうやら階段の踊り場である。
「庁舎の二階と三階の間です」
消えたと思った螺旋が、目の前に立っている。
「はあ……」
本当に、つづりが言っていたように、空間を造り出している、らしい。
「……ちなみに申し上げておくと、耐震基準等に問題はありません。二・五階の拡張空間強度は万全です。ああ、それと便宜上、二・五階と呼んでいますが、空間座標的には、この建物の二階と三階の間、というわけではないのです」
螺旋の冷静な声に、しかし高瀬は何も安心できなかった。拡張空間強度って何だ。聞いたこともない言葉である。位置関係もよく解らない。疑わし気な視線に気付いているのかいないのか、
「道は覚えられましたか?」
彼女はペースを崩さない。
「ええ……問題ない、と、思います」
「そうですか」
話しつつ、一階まで降りて来ていた。庁舎の出入り口付近である。
「それでは、もしもいらっしゃるのでしたらまた明日。失礼します」
「お疲れ様でした!」
そして、ほぼ同時に建物を出たところで、
「らーせーん!」
つかつかと歩み寄ってくる女性がいた。螺旋はここで珍しく感情の動きを見せた。逃げ腰だ。高瀬は思わず、興味深く観察した。
「お、お久しぶりですね、伶那さん」
「久しぶり、じゃないわよっ! 大体あんたね、ちゃんと病院に来なさいって何度催促すれば……ん?」
伶那と呼ばれた女性の視線が、高瀬に向けられる。
「誰?」
不躾に指まで刺されるが、嫌とは言えない剣幕だ。
「……部下、です」
興味が自分から逸れたことに安堵したのか、落ち着きを取り戻している螺旋。
「ふーん。珍しいわね、驚いた。部下とかいたんだ、あんた」
なかなかに失礼な女性だった。
「果たして明日も部下なのかは、判りかねますが」
螺旋までそんなことをのたまう。
「……高瀬です」
「高瀬くんね。ふんふん。あたしは咲坂。螺旋とは幼馴染っていうか、まあ腐れ縁ね。今は主治医でもあるんだけど、螺旋ったらちゃんと診察すら受けないのよ。キミも部下なら、ちゃんとウチに来るよう言ってくれると助かるわ」
無茶振りだが、勢いに呑まれた高瀬は頷くしかなかった。
それにしても、幼馴染、と言ったようだが、それでも偽名で呼ぶのだろうか。
頭の片隅に浮かべた疑問に、
「あー。だって、そういう約束っていうか。螺旋が警備局にいた頃は、本名だったっけ?」
的確な答えを返され、さては彼女も何かの能力者か、と身構えた。
「あたしは違うから。ただカンが良いだけだから」
「いや、確実に心読んでますよね!?」
「伶那さん、余計なことを言わないで下さい」
「あ、ごめんごめん……で」
「何ですか……」
じろりと睨まれた螺旋は、一転、再び焦っているようだった。悪いとは思いつつ、その様子が新鮮なので、高瀬はちょっと面白い。
「その顔は……そうね、四日はろくに寝てない。三日以上まともな食事を摂っていない。しかも仕事ばかりしてた。そうね?」
「相変わらず素晴らしい能力ですね」
螺旋の答えに、耳を疑った。それで生きていられるのか、そして警察官の仕事が務まるのか。いや、本人が言うには、魔術師、だったか? しかし確かに、彼女がかなり細いことも事実である。主治医、診察、と言った単語も併せて考えると、それには病的な理由があるのだろうか。確認してみたいものだが、それはあまりに失礼だろう、と思いとどまる。
「カンよ! 職業柄培ってきた、経験則に基づくカンよ! のんきなこと言ってないで寝なさい! 食べなさい! ああもう、今からレストランに連行するわ! 今すぐ!」
高瀬までもが飛び退きたくなる勢いで、伶那は捲し立てた。螺旋も飛び退きこそしなかったが、上半身がやや引き気味である。それでもすぐに体勢を立て直し、
「ちょっ、何を勝手なことを……食事も睡眠も魔力で代替可能なので必要ありません。寧ろ非効率です。どこに問題があると言うのですか!」
「…………」
問題だらけですよ、と、口に出しても良いものだろうか。
「うるさいっ! あんたは人間なんだから、何でもかんでも魔力で補ってちゃいけないの! ちゃんと食べるの! 寝るの! いい加減覚えなさいよ! とにかく今日は絶対、何が何でも食べさせるわよ、寝させるわよ!」
「必要ありません、伶那さん」
「必要なのよ! あーもうっ、本当に世話が焼けるわね!」
「…………」
高瀬が呆気に取られている間に、伶那は螺旋を引き摺って行ってしまった。
「……大丈夫か? 色んな意味で」
思わず独りごちる。最早、どこから心配して良いのやら。
「……帰るか」
二人の姿も人混みに紛れて見えなくなってしまうと、高瀬は自宅の方向へ身体を向けた。
そこで、気になる後ろ姿を見つけてしまった。
白いセーターに、ピンクがかった紫のロングスカート。
今朝のあの不思議な女性に他ならない。そんな気がして、彼はそのまま歩を進めた。
声をかけようとしたところで、女性の方から振り向いた。そのあまりのタイミングの良さに、たじろぐ。
「うふふー、またお会いしましたねー」
それを予期していたかのような口振り。もしや一日中、ここで自分を待ち伏せしていたのでは、とすら思わせる。
「あの、あなたは一体……」
尋ねようとしたが、彼女は遮るようにこう言った。
「どうやらー、この様子なら大丈夫そうですねー」
「は……?」
「ではー、アイイチローさんー、お仕事、頑張って下さいねー」
「え?」
笑顔を浮かべるこの女性が、何かを知っているように思えた。追及しようとしたところへ、聞き慣れた声が飛び込んでくる。
「おーいっ、お兄ちゃーん! 迎えにきたよーっ」
後ろから聞こえるその声は、妹の紗雪のものだ。走っているらしく、息を弾ませているのが判る。高瀬は振り返り、
「誰も迎えなんて頼んでないぞ。大体、お前の大学から家までの道に、このコースは入ってないはずだ」
「いいじゃん、可愛い妹がお迎えに来てあげてるんだよ? 感謝されてもいいくらいだね!」
ポニーテールを揺らしながら、紗雪の声は弾んでいる。社会学部の学生である彼女もまた、高瀬と同じように警察官を目指しているのだった。
「自分で言うか、可愛い妹とか自分で言うか!」
「いいじゃん別に! お兄ちゃんのケチ!」
兄妹仲は良い二人である。
そこで高瀬ははたと気付いた。あの女性の存在を、忘れるところだった。
向き直ったつもりが、しかし既に女性の姿は消えている。目につくはずのピンクがかった紫も、今朝と同じようにまた、見つけられなかった。
「……おい、紗雪。お前、さっきまでここに立ってた女の人が、どっちに行ったか見てないか?」
「は? な、何言ってんのお兄ちゃん? お兄ちゃん、一人で歩いてたじゃない」
「はあ?」
そんなはずはない。
「紗雪こそ何言ってるんだ。俺はその人と話をしていて、そこに紗雪の声が聞こえたから振り返って……」
それに間違いないはずだ。
「そんなこと言ったって……」
しかし紗雪の困惑もまた、冗談ではなさそうだった。
「あ、わかった。お兄ちゃん疲れてるんだよ。そうそう、そうに違いない。さ、早く帰ろー! おいしい晩ごはん、作ったげるからね!」
「あっ、おま、幻覚扱いするつもりかっ!」
「疲れてるとそういうこともあるよ多分。うんうん。よしよし、ごはんは任せて!」
「おい!」
「おいしいごはんを食べると疲れも取れるって。うんうん」
「だから幻覚じゃないんだよ!」
「……要らないの? 晩ごはん」
紗雪は腕を組んでじろりと高瀬を見た。
「……すみませんでした、紗雪サン」
「……よろしい。じゃ、帰ろ、お兄ちゃん」
勝ち誇ったような笑顔を浮かべ、紗雪は高瀬の手を取って歩き始める。
「お、おい、そんなに引っ張るな! こら、紗雪!」
こうして家路についた高瀬は、あの不思議な女性のことなど、もうすっかり忘れてしまっていたのだった。




