4 異変、そして
その事件が起こったのは、その数日後の夜のことであった。
「!」
夕鷹と螺旋は、二人がそう望んだため今も同じ部屋で寝起きしていたが――螺旋がまともに眠ることは少ないのであるが――その気配を感じた螺旋は、勉強机で向かっていた書物からはっと顔を上げた。夕鷹は数時間前に床に就き、静かな寝息を立てていた。
「……ラセン?」
傍らのラインハルトが不思議そうに首を傾げる。
「……ラインハルト、ヒトの姿を取って下さい。夕鷹さん、起きて下さい」
ラインハルトに命じた後、螺旋はベッドで眠る夕鷹を軽く揺すった。
「……んー、何? ……何!?」
眠りから起こされた夕鷹は一瞬むにゃむにゃと目元をこすったが、すぐにその異様な気配を感じ取って覚醒する。ラインハルトも命じられた通り、鴉から執事のような人間の姿へと変わる。螺旋の底の見えない魔力により、ラインハルトにはそれが可能だった。
「……師匠、師匠は!?」
飛び起きた夕鷹を、
「様子がおかしいです、行きましょう」
螺旋が促して部屋を出る。
「……何、この空気……」
暁音の寝室へと続く廊下を、足音を立てないように歩きながら、夕鷹は顔をしかめた。魔力を持つ者ならば――魔力を持つ者だからこそ解る、底知れぬ不快さを含んだ空気が満ちていた。
「ラセン、ユタカ、これは――」
先頭を歩いていたラインハルトが、片手でその先を制するように立ち止まる。
「この先は――」
「……行きます。叔母様に何か起きています」
「しかし――ミネルヴァが、来るな、と――」
「……行きます」
「ラセン……」
ラインハルトはしばし困惑していたが、
「我が主、仰せのままに」
使い魔であるその身を弁えたかのように、再び歩きはじめた。二人の魔術師を守るようにも見えた。
暁音の寝室のドアは僅かに開いていた。部屋の光が漏れている。
そこから風が流れ出てくるので、窓が開いているものと思われた。しかしその風は――異様に生ぬるい。
「螺旋、これ……」
「…………」
少し手前で立ち止まり、夕鷹と螺旋は顔を見合わせる。
そして意を決したようにドアノブに手を掛けたとき、
「二人とも、来てはだめ! すぐに逃げなさい!」
中から暁音の鋭く叫ぶような声が聞こえた。いつも穏やかな彼女からは想像できない声だった。どんなに厳しい修行の最中も、夕鷹と螺旋が言い争いになりそうなのを止めるときも、こんな声は出さなかった。彼女の声には、常にたおやかな高貴さが宿っていたはずだった。
夕鷹は弾かれたように、だが言いつけは守らずに大きくドアを開ける。
螺旋も瞬時に、魔術の式を組み込んだ目の発動の準備を整えた。
「!」
部屋の奥の窓のすぐ側に、男が立っていた。中世ヨーロッパの貴族風装束に身を包んだ、白金色の髪の男だった。それに向き合うように、夕鷹たちが開けたドアのすぐ前で、魔法円を展開させた暁音が立っている。
ミネルヴァの姿はなかった。
――ミネルヴァの気配が、もうそこにはなかった。
「何、これ――」
夕鷹の声が震える。
起きてはいけない何かが起こったことは、火を見るより明らかだった。
「ラインハルト、すぐに二人を連れて逃げて! 早く!」
夕鷹と螺旋に背を向けたまま、暁音がラインハルトに鋭く命じる。
「叔母様!」
魔眼を発動させようとした螺旋に、
「螺旋、だめ! 今それを使ってはだめよ!」
暁音の聞いたことのないような厳しい声が飛び、螺旋は思わず怯んだ。
「おやおや、小さな魔術師たちもいたんだね。これは愉しい夜食になりそうだ」
男――サミュエルは、背筋の凍るような笑みを浮かべる。
「させないわ――ラインハルト、二人をお願いね」
後半で初めて少し柔らかさを戻して告げると、再び鋭い空気を纏わせた暁音がサミュエルに対峙する。
ラインハルトは螺旋と夕鷹を部屋から引き剥がすように抱える。主である螺旋の魔力の強さゆえに――二人は軽々とラインハルトに抱えられた。
「おやおや、逃げるのかな――まあ、その小さな魔術師たちとは比べものにならない獲物は逃げられないようだから――その二人は後でいいか。あの梟もそれなりに美味かったし」
サミュエルは暁音に狙いを定める。
「…………」
暁音の双眸に怒りが滲む。ほとんど負の感情を表出させない暁音にとって、そして暁音のそんな姿ばかりを見てきた螺旋と夕鷹にとって、それは希有な姿だった。
「――私は夜明けの魔術師です。夜を――終わらせます」
言い終えると、暁音から信じられないほど膨大な魔力の光が放出され始めた。
宵宮暁音は、この時代を象徴する偉大な魔術師の一人であり――至宝とも呼ばれる存在であった。
押し寄せる光を浴びながら、しかしサミュエルは笑っていた。
普通の悪魔なら、光に触れた途端に封じられるはずである。それなのに――サミュエルは笑っていた。
そして、その頭上から巨大な闇色の手が躍り出て、
螺旋と夕鷹の記憶は、そこで途切れている。
否、断片的には、覚えている。
誰のものなのか定かではない悲鳴と、
雷鳴のような音と、
訪れたあまりにも深い闇と、
高らかな笑い声と、
それから、
それから、
それから――
それから――?
* * *
ヒトの住まう世界では、時間は決まった方向に流れる。
誕生した命は、成長とともに年を重ね、老い、そしていつか必ずその役目を終えて眠りに就き、土に還る。それは不可逆である。少なくともこの世界では――それが摂理である。
かつてサミュエルと名乗っていた悪神は今、少年の姿をしていた。
それだけの魔術師を喰い、ヒトの世の摂理に反してその度に若さを手に入れていた。最早それは若さと呼ぶのも似つかわしくないような――少年の姿を手に入れていた。
宵宮暁音が好んだような、中世貴族の少年用のドレスを身に纏い、ヒトの住まう世界とは別の次元軸に作り出した己の空間をより強大なものにし、数多の悪魔を使役しながら――しかしそれでも、足りない、と思っていた。
喰ってきた魔術師は数知れず。しかしその痕跡を塵ほども残さなかったため、彼が喰った魔術師以外にその存在はほぼ知られていない。
だが時代を象徴する偉大な魔術師が不自然にその消息を絶った事実だけは魔術師たちの間で静かに共有され続け、少年は密かに悪神と呼ばれていた。しかしその姿を知っている魔術師はいない。出会えば喰われるからである――霊魂すらも残さずに。
「ねぇ、ヴェパール」
邪悪そのものの笑顔を浮かべた彼は、しかしひどく無垢な声でお気に入りの悪魔を呼ぶ。
「あのとき――僕がヒトの子供の振りをしてそっちにちょっかいをかけたとき」
ヴェパールは答えない。ヒトの言葉を話せないからだ。
だがヴェパールは既に、ヒトの姿は手に入れていた。
かつてサミュエルを名乗った少年が見上げるほどの長身と、金色の髪。その双眸は青い。
「お前が殺した使い魔を使役していた、あの魔術師さぁ」
ヴェパールの返事など端から待っていない少年は、愉しそうに言葉を続ける。
「あのときのお嬢ちゃんだよね?」
「…………」
ヴェパールは答えない。ヒトの言葉を話せないからだ。
「お嬢ちゃんの頃は取り逃がしちゃったけど……ここまで待って正解だったね」
愉悦に浸った少年は、あまりにも無垢な声で続ける。
「欲しいなぁ、あの力。だって、まだまだ全然足りないんだもん」
少年はヴェパールから視線を切って、周囲を歩き回る。
「魔術師は確かに美味しい。けど、たった一瞬なんだ。もっと、もっともっと力が欲しい。全部欲しい。全部僕のものにしたいんだ」
貪欲。
その言葉では既に、少年を――悪神を、形容できない。
何を手に入れても満たされない。
手に入れれば手に入れるほど――その足りなさに虚しくなる。
――貪婪。
より近い言葉を探すならば、それが相応しいだろう。
しかし言葉で表せるものには、ある程度の限界がある。この少年の欲は間違いなく――その限界を超えていた。
混沌から湧き出たとき、それは他と大して変わらない魔にすぎなかった――はずだった。
同じように湧き出た魔を喰い、やがてヒトの心を喰い、そして――魔術師を喰い続け、有り余るはずの力を手に入れたそれは、しかしそれでも止まらなかった。
肉体を得、自然の摂理に逆らって若さを手にし――それを繰り返すうちに、やがて神格を得てしまった。但しそれは他に類を見ない悪としての神格であった。
少年は己の世界から、ヒトの世界を覗く。
その先に、美しく長い黒髪を持つ、華奢な女性の姿があった。
彼女の感情を宿さない顔に、見覚えがある。
彼女の周りには、背の高いスーツの男と、長髪を結んだ白衣の男、制服に身を包んだお団子頭の少女のような女性の姿も見える。
その部屋が彼女の職場らしいことを、観察を続ける中で少年は把握していた。
「やっぱり、あのときのお嬢ちゃんだ」
あまりにも無垢な声音に似つかわしくない台詞を吐き、少年は――悪神は、にいっと残忍な笑みを浮かべた。
「くくっ……行くよ、ヴェパール」
悪神はヴェパールに命じる。ヴェパールは静かに悪神の後に従った。
* * *
羽佐間螺旋と高瀬藍一郎がバシンとともに現れたヴェパールに対峙し、封印したはずのヴェパールの紋章が何者かに――否、悪神に奪われたのは、この少し後のことである。
次回よりいよいよ終章です。
長くなりますがお付き合いいただきますと幸いです。




