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それは突如として、混沌から湧き出た。
湧き出た場所は、深い闇の中だった。時間の流れもない、音もない、ただ真っ暗な場所だ。どの次元にも属さず、どの世界にも属さない。それが混沌という闇だった。
湧き出たそれは、姿すら持っていなかった。形もなく、当然のように鼓動もなく、意志もなく、ただ湧き出てきただけの――
否。
――欲シイ。
姿を持たないそれは――存在していると呼べるのかどうかも怪しいそれは、しかしその欲望だけは確実に持っていた。言葉を意味として知っているわけではない、扱えるわけでもない。しかし、
――欲シイ。欲シイ。欲シイ。
湧き出たばかりのそれは、その欲望から来る衝動に突き動かされるように、形のないまま暴れ始めた。
そこへ、また同じように混沌から何かが湧き出た。
混沌から湧き出るモノは、魔である。
それも、そして今しがた湧き出たモノも、同じような魔であった。はずだった。
――欲シイ!
湧き出たばかりの魔に、それは襲いかかった。そしてあっという間に、湧き出たばかりの魔を呑み込んだ。生まれてすぐに喰われた魔は、それの力を少しばかり増幅した。
――モット。モット、欲シイ!
魔を喰ったそれは、しかし少しも満たされることなく、更なる獲物を求めて彷徨い始めた。
形も命も持たないはずのそれが、この後長い時間をかけて悪神へと変貌していくことなど、どの次元のどの世界の誰も、まだ知るよしなどなかった。
* * *
のちに中世ヨーロッパと区分される時代。
ペストの流行で社会がパニックに陥るのを、それは愉快そうに眺めていた。
姿を持たなかったそれは、ここに辿り着くまでに多くの魔を喰らい、もやもやとした黒い影のような外見を手に入れていた。だが何を喰っても満たされることなどなかった。
それはまだ名を持たない。
名が欲しいとは思わなかった――否、それはまだ知らなかったのだ。名を持つことがそのまま更なる力に繋がるという事実を。
人々の恐怖が、自分の中に取り込まれていく。満たされることはないが、愉快だった。
――欲シイ。
人々の恐怖を、そして病魔によって失われた命を喰うごとに、それの影は濃くなった。
そのことが愉快で、それは病魔をまき散らし続けた。
悪魔。
どうやら自分はそう呼ばれるものらしい、と、それは何となく理解していた。自分が喰ってきた、同じように混沌から湧き出たモノと同じように。だが――それでは満足などできなかった。
力を得る度に、欲望から来る衝動は強さを増すばかりだ。
――モット! モット! 欲シイ!
病魔を操る愉悦に浸りながら、しかし決して満ちることのないであろう器を抱え、それは滞在している街を気の向くままに彷徨い続けた。
「待て」
それは唐突に、そう呼び止められた。
呼び止めたのは青く長いローブを羽織り、魔導杖を携えた男だった――そして男はこの時代を生きる偉大なる魔術師であった。
「お前は悪魔だな」
冷ややかな声で、魔術師はそう断言した。
それは何も答えず、黒い影として魔術師を見据えた。
青いローブの魔術師は杖を掲げて詠唱を始めた。言葉が紡がれる度に、周囲に莫大な力が満ちてくるのがそれにも解った。
その力――魔力は、それがこれまで感じたこともないほど強力な力だった。
――欲シイ!!
本来であれば、青いローブの魔術師が、その程度の――影としての姿しか持たない存在の魔を封じることはたやすいことであるはずだった。
しかし、
「――ぐぁっ!?」
魔術師の詠唱は途中で止まり、そんな悲鳴を残し――
――ソレ、欲シイ!
一瞬にして、貪欲な影に呑み込まれた。
そこに魔術師が確かに存在していたことを示す物は、魔導杖も含めて何も残らなかった――その偉大なる魔術師の、魂すらも。
そして次の瞬間、それまで黒い影だったそれは、痩せこけた老人の姿を得た。
実体を持たなかった魔にそこまでの姿を与えられるほど――魔術師は偉大な魔力の持ち主だったのだ。
――オオ、オ――
老人の姿を得たそれは、これまでにないほどの力が己の中に取り込まれたことを理解した。それでも満たされはしなかったが、とても愉快だった。
たった今喰った魔術師の力は、病魔を操って取り込んできた力とは比べものにならなかった。ほぼ言葉を持たないながらも、それは理解した。
ただ見境なくヒトや魔を喰らうよりも、魔術師を喰った方が効率が良い、ということを。
痩せこけた老人は、その顔に残忍な笑みを浮かべた。
* * *
フランス革命が終結し、ナポレオン戦争の時代に入った頃。
それは愉しそうに戦乱の世を眺めていた。
恐怖、怒り、悲嘆、混乱――人間の感情を喰いながら、混沌から湧き出る魔を喰いながら、そして――魔術師を喰いながら、彼はどんどん力を取り込んでいた。
今、彼の姿は引き締まった初老の男にまで若返っていた。
最初に喰った魔術師のような力を持つ存在は、それほどいなかった。ゆえにあの魔術師の力量は――魔力量は、かなりのものだったのだと思われる。
「もっと欲しいなぁ」
彼は流暢な人語を話すようになっていた。
「まだ足りない。全然足りない。もっと欲しい……」
残忍な笑みを浮かべ、戦火に包まれる街を歩く。この街の住民は避難を余儀なくされている。あちこちで火の手が上がっていた。
「――待ちなさい」
「……?」
彼を呼び止める声に振り向くと、モスリンのドレスを着た三十代くらいの女が立っていた。この街を歩いてきたにしては、ドレスは少しも汚れも破れもしていない。
「ほう……お前は魔術師か」
「お前、ただの悪魔じゃないわね」
女――魔術師は周囲に結界を張りながら呟く。
彼女もまた、強力な魔力を秘めた魔術師であった。
「……まったく、とんでもないモノに当たってしまったものだわ……」
魔術師は結界をより強固なものに張り直しながら独りごちる。
「――その力、欲しい」
彼は笑みを深めながら冷たい声で言った。
「っ――〈縛れ〉!」
ただならぬ気配を嗅ぎ取った魔術師は素早く詠唱する。
それに応じるように空から巨大な五芒星を象った光の筋が降ってきて、その中に彼を封じ込めようとした。
「ほう――」
彼の口の端が持ち上がる。
五芒星の光は彼の頭のすぐ上まで迫ったが、その瞬間に彼の頭上から真っ黒な、五芒星よりも更に巨大な手のようなものが躍り出て光を握りつぶすように動き、そのまま彼の中に戻った。
「なっ――」
魔術師は一瞬怯む。
「ふむ。悪くない」
五芒星を喰った彼は、ぺろりと舌なめずりをした。
「その力――」
これ以上ない残忍な笑みとともに、彼は言う。
「――頂こう」
目にも留まらぬ速さで魔術師を喰った後、そこには何も残らなかった。
その偉大な魔術師の、霊魂すらも。
* * *
名のある魔術師を喰い続けながら、彼はその度に若返り、力を強めていった。
しかし彼と対峙した魔術師はことごとくその存在を喰われるため、彼についての詳細が世に知られることはなかった。
痕跡すら残さず、魂すら残さず、各時代の各地で偉大な魔術師たちが喰われていった。
本来ならあり得ないことであった。
魔術師は魔を統べるとされる存在である。しかも喰われた魔術師たちは皆、その時代を象徴すると言っても過言ではない実力の持ち主ばかりであった。
それでも彼が満たされることはなかった。
今や彼は、多くの悪魔を使役する存在となっていた。
そして――サミュエルという名を名乗っていた。
名乗るということは、力を得るに当たり、また力を行使するに当たり、とても意味のある行為だと、既に彼は覚えていた。
あれはいつ喰った魔術師だったか――そんなことは忘れてしまったが、ひどく歪んだ顔で冒涜だと言っていたか。なかなかに気に入っている名なのに、失礼な人間であった。けれどその魔術師を喰ったことで二歳は若返ったから、まあ非礼は忘れてやっても良いだろう。
最初の年老いた姿から若返りを重ねる度に、若い姿に近づけば近づくほど、それ以上若返るためにはより強力な魔力が必要だとサミュエルは理解していた。
そして、思うように若さを手に入れられるほどの力を持つ魔術師の存在は、稀であることも知っていた。それを理解するのに充分な既に長い長い時間を、サミュエルは生きていたのだ。
「ヴェパール」
白金色の髪を持つ壮年の姿を手にしたサミュエルは、お気に入りの悪魔に話しかける。
「強い魔術師を探し出してよ。まだ足りないんだ、力が」
かつての自分のように影のような姿しか持たないヴェパールは、その指示を受けてどこかに消えていった。ヴェパールに任せておけば、ある程度有力な情報は得られるだろう。
サミュエルはにやりと笑い、始まったばかりの夜の街へと繰り出した。




