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そして先刻の言葉通り五分後、青いセダンを駆って伶那が到着した。助手席側のウインドウが開く。
「来たわよ螺旋! とにかく今日こそ診察を……ん? 高瀬くん?」
「お久しぶりです、咲坂さん」
「うん、久し振り……あれ、何で? どういうこと?」
伶那は状況を理解していないらしい。当然だ、先ほどの電話で螺旋はほぼ本題を言わなかった、否、言えなかったはずである。
「……伶那さんに少し急ぎのお話があるのですが、高瀬さんと別行動になるので確かに伶那さんとお会いすることを証明しようとしたのです――先日の件がありますから。ですがご説明する前に伶那さんが通話を切ってしまいましたので……」
「あー、なるほど。ごめんごめん。じゃ、高瀬くん、ここからはあたしが責任持って螺旋引き受けるから、心配しなくて大丈夫よ」
ほぼほぼ保護者のようである。
「あ、いえ、自分もそこまで疑っていたわけでもないんですけど……ではお願いします」
「…………」
螺旋は伶那と高瀬の保護者めいたやり取りに、ほんの少しだけ納得のいかないような表情を浮かべた。
「じゃ、螺旋、乗って」
「……はい」
螺旋は助手席のドアを開けてから、
「高瀬さん、本部に戻っていて下さい。用件が済み次第戻ります」
高瀬に向けて言い、伶那のセダンに乗り込む。
「高瀬くん、その用とやらが済んだら近くまで送り届けるから」
「伶那さん、そこまでして頂かなくても――」
「あんたのためじゃないから、こないだの件もあるから高瀬くん心配するでしょう。部下に余計な心配かけてんじゃないわよ」
「…………」
「……では、お願いします、咲坂さん」
やや苦笑を浮かべつつ、高瀬は応じる。確かに螺旋がまた単独行動の結果、危険な目に遭うのは勘弁して欲しいのは事実だ。
「オッケー、じゃあね。さあ螺旋、まずは何か食べさせるわよ」
「ちょっと、伶那さん――」
「ごちゃごちゃ言わない!」
そして、伶那の車は去って行った。
それを苦笑のままで見送って、
「相変わらずだな」
思わず呟いてから高瀬は庁舎に引き返し始める。
普段と何ら変わりなく、しばらく通りを歩いていた高瀬は、しかし次の瞬間、何の前触れもなく見覚えのない場所に引きずり込まれた。
「っ!?」
反射的に身構える。薄暗く、冬だと言うのにやけにじめじめとした空気が淀んでいた。見慣れた東京の街並みではない。
臨戦態勢を崩さず、高瀬は素早く視線を動かし状況を確認する。
辺りは灰色がかっており、どこか滲んでいるような感じを受ける。霧でも立ちこめているようだ。建物どころか道路も見当たらない。ただ足はしっかりと地面を捉えている感覚がある。立っていることに問題はない。視線を上に走らせる。空がない。当然のように太陽も見えない。同じような灰色がどこまでも広がっている――否、これは――閉じている、のか。湿度の高い匂いが漂っている。はっきりとではないが、どことなく不快だ。そもそも高瀬は、それほど重度ではないがやや閉所恐怖症気味である。この湿った匂いが不快なのか、この場そのものの雰囲気が不快なのか、明確には判別できなかった。
「ここは……」
視線を前に戻すと、何者かの気配がした。先ほどまではなかったものだ。最初は影のようにぼんやりとしていたが、その全容はすぐに明らかになった。
「! お前は……!」
かなりの長身、金色の髪、そしてこの世のものとは思えない、異様に整った顔立ち。過日、螺旋の命が危険に晒された際に関与していたヴェパールとかいう悪魔に他ならない。手を伸ばせば届くような距離である。その長身ゆえか、悪魔という存在だからなのか、あるいは両方か――不必要なまでの圧が感じられる。
「…………」
ヴェパールは冷酷な瞳で高瀬を凝視している。やや見下ろすような角度だ。じめじめとしていた空気が一転、急激に湿度を下げ、それに伴うように体感温度もがくっと下がった。
螺旋に報せるべきだ。しかしこの間合いには隙がない。スマートフォンを取り出している間に逃げられるかもしれなかった。
――と。
音もなく気配が動いた。ヴェパールが右腕を繰り出してくる。
「っ」
高瀬はそれを躱し、ぱしっとその腕を掴んでそのまま捻り上げた――実体は、ある。それが高瀬の補助能力とやらの関係なのか、それとも無関係なのか、今は判らない――その判断は、後でいい。
「――お前、なぜ羽佐間さんを狙っている? 一体何が目的なんだ」
鋭い眼光を宿し、低い声で問うた。ヴェパールは何も答えない。場が膠着する。
「――答えろ」
ヴェパールの腕を掴んだ右手に力を込める。ヴェパールからも逃れようとする力が返ってくる。逃がすわけにはいかない。しかし高瀬には、悪魔を封印する能力などない。この状態では螺旋を呼ぶことも不可能だ。仮に連絡が取れたとしても、この異様な空間に彼女が入って来られるのかどうかも判らない。
――どうする。
高瀬はヴェパールの腕を捻り上げたまま、必死で思考を巡らせる――と。
ヴェパールが蹴りを入れてきた。鈍い衝撃が高瀬を襲う。一瞬だけ思考の方に気を取られすぎた。不覚だった。
「っ!」
即座に体勢を立て直し、高瀬はそのままヴェパールをねじ伏せる。
「答えろ、なぜ羽佐間さんを狙っている!」
高瀬からヴェパールの表情は窺えない。しかし抵抗する力は感じられなくなった。
「――――」
押さえつけているヴェパールの力がふっと緩む。笑った、のだろうか。
「お前――」
低い声で高瀬が発した次の瞬間、空間がぐにゃりと歪んだ。
そして、
「……は?」
元いた東京の街に戻っていた。ヴェパールの姿はどこにも見当たらない。そもそも高瀬自身も、灰色の空間に引きずり込まれる直前までの歩いていた体勢に戻っている。ややたたらを踏んだものの、すぐさま立て直す。
改めて素早く周囲を見渡すが、灰色の空間の気配はもうない。いつもと何ら変わらない、高瀬のよく知る街並みである。腕時計を確認すると、灰色の空間に引きずり込まれてから二十分ほど経過しているらしかった。
「…………」
背筋を悪寒が走る。あれは――あの空間は、何だったのだろうか。
高瀬が所属する警察庁刑事局特殊捜査部は、二・五階と呼ばれる拡張空間にフロアを構えている。未だにその技術的なことは理解していないが、何らかの力でフロア全体の空間を作り出している、らしい。そのフロアに入るためにはキーアイテムと呼ばれる特殊なIDカード、もしくはそれを所持している人物と一緒にいるという条件が必要である。
先ほどの空間も、そういった――拡張空間、の類なのだろうか。それとも――もっと別の何かなのか。
とにかく螺旋に報せる必要がある。高瀬はスマートフォンを取り出した。
数回のコール音の後、螺旋が電話に出る。
「すみません羽佐間さん、高瀬です。あの、今……おかしなことが……」
ことのあらましを説明すると、電話の向こうで螺旋が静かに短く息を吐いた。そして、
「――判りました。高瀬さん、お怪我は」
「いえ、ありません。ヴェパールは取り逃がしました、すみません」
「高瀬さんが謝ることではありません、物理的に捕獲することはほぼ不可能です。できるだけ早く戻ります、高瀬さんもお気を付けて戻っていて下さい」
「はい」
通話を終え、高瀬は足早に庁舎を目指した。




