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 警察庁は、中央合同庁舎第二号館にある。警視庁とは隣同士だが、これまで高瀬が足を踏み入れたことはない。

 さて、まずどこへ向かうべきか。庁舎内に入った高瀬は、森村刑事部長からその点について聞いていないことを思い出し、段々重く感じてきた箱を手に立ち尽くしていた。忙しそうに歩いているここの職員であろう人々が、時々ちらちらと自分を見ているのを感じたが、誰も声はかけてくれない。当然だろう。

 行き先を聞いて来なかった、間抜けな自分に腹が立つ。

 と、ふと、警察の制服を着た女性と目が合った。

 その女性は、無表情でこちらへ近づいてくる。

「高瀬巡査部長ですね」

 ふわりと暖かい印象を抱かせるその声が、この無表情な女性から発せられたものだと気付くのに数秒かかった。

「は、はい」

 敬礼をしようとし、段ボール箱をその場に降ろそうとすると、

「あ、それはわたしがお預かりしまーす」

 いつの間に現れたのか、制服を着た女性がもう一人増えていた。こちらは小柄で、可愛らしいイメージだ。お団子頭のせいか、どこか少女のような雰囲気を纏っている。この制服を着ているからには警察官なのだろうが、とてもそうは見えない。

「お運びします」

 にっこりした笑顔に逆らえず、差し出された手に、どうも、と言いながら箱を渡した。

 両手が自由になったので、改めて目の前の、無表情の女性に敬礼する。

「警視庁刑事部捜査一課から参りました、高瀬藍一郎巡査部長です」

「私は刑事局参事官の十六夜(いざよい)です。着いて来て下さい、観月(みづき)審議官がお待ちです」

 にこりともせず、しかし陽だまりを思わせる声で言うと、十六夜参事官はエレベーターに向かって歩き始めた。高瀬は慌てて後を追おうとし、ふと荷物の行き場を気にして振り返る。

「心配ないですよ、運びますから」

「よ、よろしくお願いします。すみません、重いですよね」

「大丈夫でーす」

 明るい声に見送られ、今度こそ高瀬は十六夜を追いかけた。今日はやたらと上層部の人間を待たせているらしいことに、少しだけ胃痛を覚えた。

 エレベーターに乗り込んだのは、十六夜と高瀬の二人だけだった。十六夜は手慣れた様子で『20』のボタンを押し、扉を閉めた。独特の浮遊感に包まれる。

「……あの、十六夜参事官」

 ほっそりした後ろ姿に向けて、高瀬は恐る恐る口を開いた。

「何でしょう」

「その……観月審議官、と言うと……あの観月審議官でしょうか」

 頭の中には、いくつかのウワサが渦巻いていた。

「あの、も何も、警察庁に観月審議官と言えば、お一人しかいらっしゃいません」

「はあ……」

 ではやはり、『常勝の女帝』の異名を持つ、あの観月審議官か。高瀬が手にしたウワサによると、警察社会の実権を掌握しているとかいう人物である。

 それにしても、まだまだ男性社会だとばかり思っていた警察にも、女性の登用が進んでいるようだった。少なくともこの庁舎に入ってきてから、女性警察官にしか会っていない。怜香が聞いたら喜ぶかもしれない、とふと思った。

 上昇が止まり、ふわん、と一瞬だけ落下しそうな感覚に囚われる。高瀬はこの感覚があまり好きではない。恥ずかしくて人に言ったことはないが、そもそもエレベーターというものを、高瀬は不気味に感じることがよくある。閉所恐怖症気味なのかもしれない。もし閉じ込められたら、と考えるとぞっとする。

 エレベーターを降りると、十六夜は高瀬を振り返りもせず歩き出した。

「こちらです」

 態度は少々冷たいが、声だけは陽だまりのようである。

 廊下を進み、やや奥まった場所に、観月審議官の部屋はあった。

「審議官、高瀬巡査部長をお連れしました」

 ノックをしてから言って、十六夜がドアを開ける。

 デスクで書類に目を通していた観月審議官が顔を上げた。思わず目を疑うほどの美人だったので、高瀬は軽く息を呑んだ。女帝の異名に相応しいオーラを身に纏っている。

 肩書きからして間違いなく幹部であるが、想像していた以上に若手だ。下手をすると三十代だろう。奇跡的な出世である。

 思わず審議官に見惚れていた高瀬は、はっと我に返る。

「けっ、警視庁捜査一課から参りました、高瀬藍一郎巡査部長です!」

 声が裏返ってしまった。観月は微かに笑みを浮かべた、ような気がした。

「ご苦労様。刑事局審議官、観月よ。急な話で悪かったわね。こちらにも余裕が無かったものだから」

 凛とした、芯の強さを感じさせる話し方だった。

「いえ! 自分をご指名下さったとのこと、光栄です、が、その……」

「理由?」

 観月に問われ、高瀬は素直に頷いて良いものか迷った。上からの指示には従うのが、警察官だ。そうでなくては成り立たない組織だと、彼は思っている。

 しかしそのわずかな沈黙を、肯定と受け取ったらしい観月は、気を悪くする様子もなく、

「口が堅いこと、勤務態度が真面目なこと、忍耐強いこと、そんなところかしら」

 異論は? とでも言うように、微かに首を傾げる。

 それらは常日頃、高瀬が心掛けていることと一致していた。

「は、そうありたいと努力しているつもりです」

「よろしい。報告リストに間違いはないようね。さすがに早乙女もそろそろ焦ったかしら……では高瀬巡査部長、これからあなたに、極秘の任務を与えたいのだけど」

 極秘の任務? 今度は高瀬が首を傾げた。この自分に、極秘の任務……?

「本日付けで、刑事局特殊捜査部、魔力捜査室への異動を命じる。以上」

「まりょく……そうさしつ……です、か?」

 聞いたことのない部署だった。そもそも警察庁は、捜査機関ではないはずである。

「そう。ああ、心配しなくていいわ。言ったでしょ、極秘の任務よ。特殊捜査部は、公には存在しないことになっている部署なの。魔捜(マソウ)についてはその名の通り、魔力、主に悪魔に関する犯罪を捜査する部署で――」

 紡がれ始めた観月の言葉に、高瀬は素っ頓狂な声を上げざるを得なかった。

「ま、魔力? 悪魔ぁ?」

 それはどう考えても、ファンタジーの世界にしか縁のない言葉である。そういう映画や小説を楽しまないわけではないが、ここは警察庁、現実世界のはずだ。そのくらいの分別は持ち合わせているつもりである。

 それなのに、そんな単語をこの観月審議官がすらすらと口にしている、というのは、一体どういうことなのだろう。とても冗談を言うような人物には見えないし、彼女に関してそういうウワサを聞いたこともない。

「……ま、最初は信じられなくて当然ね。羽佐間(はざま)……あなたの上司に当たる人物だけど、彼女のやり方を直接見なさい、としか、残念ながら私には言えないわ。そうね、十六夜」

 女帝の傍に控える侍従長のように立っている十六夜に、観月は後を委ねた。

「はい、残念ながら。こちらからご説明できるのは、現在この社会では、科学で説明のつかない事件が急増している、ということです。それはれっきとした事実です。そうした事案に対応するために、特殊捜査部が組織されました。表向きには、警察や法律がそうしたものを認めてはいけませんから、伏せられているというわけです」

 相変わらずの無表情で、原稿でも読み上げているかのように淀みなく、侍従長、十六夜は言う。どうすればその表情のままで、陽だまりのような暖かい声が出せるのだろう。表情と声音には、ある程度関連性があると思っていたのに。

 高瀬は様々な混乱を覚えつつ、

「あ、あの……質問をしてもよろしいでしょうか」

 どうにかそう発した。

「答えられる範囲で答えるわ」

「その……何故、自分なのでしょう。自分は、そのようなことを、その、信じられませんし……」

「それはさっき言った通りよ。条件に当てはまるのがあなただったから。そうでなければ、あの部署での仕事は任せられないもの。私に言えるのはここまでね」

 そう言ってから、観月審議官は目を細めた。

「ただし……どうしても魔捜――魔力捜査室での仕事ができなければ、最終的には元通り、警視庁刑事部の元の部署に戻されるわ。ただ、重ねて言うけどこれは極秘任務だから、ある処置が施されることになる……ということは、伝えておこうかしら」

 その凄みのある視線に、高瀬は無意識に後ずさる。絶対零度を体感した気すらした。

「それでは早速っ、特殊捜査部にごあんなーいっ! しちゃっていいですよね、観月審議官」

 突然、場にそぐわないほどの明るい声が聞こえた。後ろからだ。

 高瀬は目を見開いて振り返る。この部屋には、今まさに対面している観月審議官と十六夜参事官、そして自分の三人しかいないはずだ。ドアを開閉する音もしなかったので、誰かが入ってきた様子もない。それなのに……?

「あ、あなたは……」

 振り返った高瀬が目にしたのは、先ほど段ボール箱を任せた、少女のような女性の姿だった。

「ああ、結崎(ゆいざき)。そうね、ただその前に、高瀬の返事を聞きたいわ」

 観月は特に驚く様子も見せず、そのお団子頭――結崎、というらしい――に応えた。

「どうする、高瀬? この任務、受けられるかしら?」

 女帝は嫣然と言う。高瀬は瞬間、考えた。そして頭の中でその答えを導くよりも先に、声が出た。

「は! 高瀬藍一郎巡査部長、謹んで拝命致します!」

 警察官は、上からの指示に従わねばならない。だが恐らく、そういう理由でその言葉が出たわけではなかったのだろう、と、後に振り返って彼は思う。

 自分はそのとき既に、その俄かには信じられないような世界に、多かれ少なかれ興味を持っていたのだろう、と。

「……だそうよ、結崎」

「はいっ。えっと、わたしは特殊捜査部、情報管理室の結崎つづりです。あ、魔力捜査室付きです。よろしく!」

 そう名乗った彼女は右手を差し出した。握手を求めているらしい。

「自分は高瀬――藍一郎、です。よろしくお願いします」

 フルネームで名乗られたからには、自分もフルネームで応じるべきか、と考えつつ右手を差し出し、握手を交わす。そうしながら、にっこり笑っていたつづりの左目が開かれ、チカッと光ったように思った。次の瞬間、

「認識!」

 つづりの声が聞こえ、高瀬は何か巨大な物に吸い込まれていくような感覚に陥った。その驚きに、え、と声を出す暇もなく、彼女に手を握られたまま、その巨大な何かに飲み込まれていった。


 同時に、観月審議官の執務室からは、高瀬とつづりの姿が消えていた。

「……そもそも私は、新人に対するあの演出がマズい、と以前から思っているわ」

「ええ。結崎も懲りませんね」

 残された女帝と侍従長は、深い溜息をついた。

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