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「……怪しい」

 高瀬藍一郎(たかせあいいちろう)は出勤途中、そう呟いて足を止めた。

 彼の職場の出入り口付近をうろついている女性が目についたからだ。

 白いVネックのセーターに、ほのかにピンクがかった紫のロングスカート。服装は至って普通なのだが、正に『うろついている』としか表現できないその行動が問題だった。忙しそうに行き交う通勤途中の人々の中で、明らかに浮いている。

 高瀬の職業は刑事だ。そして職場は、警視庁。

 つまりその女性は、警視庁の前を行ったり来たり、きょろきょろしたりと、挙動不審極まりないのである。しかもどうやら、警視庁に用があるわけでもなさそうだ。建物の方ではなく、常に往来に視線が向いているからだ。庁舎内に入りたいのに何か理由があって逡巡している、という様子では、ない。

 高瀬は背広をしゃんと引っ張ると、表情を引き締めてその女性に歩み寄った。

「あの、失礼ですが」

「ふぇ? な、何でしょうかー」

 声をかけると、女性は驚いたように、大きな瞳を更に見開いて高瀬を見た。やや語尾を伸ばす癖があるらしい。

「先ほどから、この辺りをうろうろしていらっしゃるようですが、どうかされましたか?」

 ストレートな問いかけに、女性は困ったように小首を傾げながら、

「あー、それはですねー、うーんと、うーんと……難しいですねー。えーっと……」

「…………」

 返答に窮する様子に、益々疑わしさを募らせる。

「自分はこういう者です。何なら、お話をお伺いしますが?」

 警察手帳を取り出して開いて見せると、女性はしげしげとそれを見つめる。

「ふむー? 高瀬、藍一郎、巡査部長……? あー! あなたが、そうだったんですねー!」

 ゆっくりと読み上げた女性は、どういうわけかそんなことを言って、嬉しそうに笑みを浮かべた。

「良かったですー。一目見ておこうと思ったんですがー、よく考えるとですねー、お顔を確認するのをー、忘れてしまっていたのですー。アイイチローさんの方から声をかけて頂けるとはー、幸運でしたねー」

 うふふふ、と笑う女性の言葉に、高瀬の心の中で危険信号が点滅する。この女性は何者だ。どうして自分のことを知っている様子なのだ。それとも、今自分が開いている警察手帳に、何か余計な個人情報でも書かれているのか……?

 そんな考えに達し、一瞬だけ手帳を自分の方に向けた。

 いつもと変わりのない、ごく普通の警察手帳であることを確認し、再び視線を女性に向ける。と。

 そこに女性の姿はなかった。

「!?」

 焦って周囲を見渡すが、ピンクがかった紫のスカートは見つけられない。

「な……何だったんだ……?」

 しばし呆気に取られていたが、いつまでもここに立ち尽くしているわけにもいかない。時間も迫っている。

 高瀬は気を取り直すと、警視庁の中へと入っていった。所属は刑事部捜査一課、庁舎の六階だ。ほぼ満員に近い低層用のエレベーターに駆け込んで、六階を目指した。


「おはようございます」

 挨拶をしながら刑事部屋に入り、自分のデスクに向かう。強行犯捜査五係が、彼の所属する部署だった。

「あ、高瀬くん、おはよう」

 デスクに辿り着くと、一足先に到着していた先輩刑事の雨野怜香(あまのれいか)が、にこやかに挨拶をしてくれた。

「おはようございます、雨野先輩」

 怜香は五係の、もっと言えば両隣の島を入れても、紅一点である。

 圧倒的に男性が多いこの職場で、そこだけ花が咲いているようだ、と評されるのは、単に外見だけでなく、その明るく優しい性格をも含んでのことだった。

「そうそう、高瀬くん」

 怜香が小声で話しかけてきたので、釣られて高瀬も小声で、

「何ですか?」

「なんか、課長が探してたよ」

原木(はらき)課長が?」

「ついさっき。ちょっと急いでたみたい」

 言われて課長のデスクの方を見やる。今は席を外しているようだった。

「……了解です。ありがとうございます」

 礼を言い、とりあえず課長のデスクへ向かうことにした。原木課長に雷を落とされては堪らない。早めに行動するのに越したことはない。

『捜査一課長 原木正義』というプレートが置かれたデスクに行き着く頃、ちょうど刑事部屋に原木課長が戻ってきた。

「課長、おはようございます。自分をお探しとのことですが……」

 どういったご用でしょうか、と続けようとすると、

「高瀬! お前、何やらかした!」

 ボリュームもトーンも落とし、それなのに充分すぎる迫力を伴った、押し殺したような声が高瀬に届く。

「はぁ……あの、何をでしょう……?」

 日頃から真面目な勤務態度を心掛けている高瀬に、とりあえず今のところ、そんな迫力で責められる理由は思い当たらない。

「刑事部長がお前をお呼びだぞ」

「今度は刑事部長!?」

「まさかお前……ベッパンに飛ばされるようなヘマ、してないよな」

 念を押すように睨まれ、高瀬は刑事部屋の奥へ目をやった。刑事部屋の奥の奥、その突き当りにある小部屋に、ベッパン、と呼ばれる部署がある、らしい。確かにそこには小部屋があり、入り口には手書きで『特別班』と書かれた、もう茶色く変色してしまったコピー用紙が貼られているが、高瀬はその部署について多くを知らない。なんでも、変わり者の班長が率いる窓際部署、らしいのだが。

 一度そこに配属されてしまえば、もう通常の部署に戻ることはできないことから、警視庁の迷宮、と呼ばれているとは、どの筋から聞いたウワサだったか。

「そんな……」

 高瀬は必死で、これまでの勤務態度を思い出す。目立った手柄を上げた覚えは特にないが、真面目に地道な努力を重ねてきたつもりだ。少なくとも、窓際部署に飛ばされる覚えはなかった。しかしそれはあくまで自己評価である。上はそうは見ていないということかもしれない。

 心の中で暗く重い雲が広がっていく高瀬に追い打ちをかけるように、彼の肩に原木課長がぽん、と手を乗せた。


*    *     *


 高瀬は刑事部長室にいた。

 重厚そうなデスクに軽く組んだ腕を乗せ、柔和そうな表情を浮かべたロマンスグレー、森村(もりむら)刑事部長の口から、どんな言葉が飛び出てくるのか。内心冷や汗を浮かべながら、直立不動の姿勢をとっていた。

「まあまあ、そんなに緊張することはない、高瀬くん」

 森村刑事部長は、真意の読めない微笑を浮かべたまま、言う。

 穏やかそうではあるが、しかし警視庁刑事部の頂点に君臨する人物、一筋縄ではいかないタイプに違いない。実際、その微笑みの下に本当は何を隠しているのか、高瀬にはうっすらと察することすらできない。

 とても、不安だ。

「……うん、そう言っても緊張は解けないだろうね。いや、実はね高瀬くん。早い話が、異動だ」

「……」

 一瞬、世界から、音が消えた。

 ぐにゃりと世界が歪んだ気がした。本当に世界が歪んだのか、高瀬がめまいを感じただけなのか、自分ではどちらか判断できなかった。

 特別班、の三文字が、高瀬の脳内を駆け巡った。何をした。自分は何をした。何をしてしまったのだ。必死で思いを巡らせていると、

「何か勘違いをしているね? 異動先は、警察庁だよ」

「……はい……は!?」

「いわゆる人事交流というやつだね。いや、向こうがね、君をご指名なんだ。君はまだキャリアも浅いし、正直なところね、うちとしては他に推薦したい人材がいるんだけどねえ……是非とも君に来てほしいそうだ」

 森村刑事部長の微笑を、高瀬は疑わしげに見やる。

 何かの冗談としか思えない。新人刑事の自分が、まさか警察庁へ異動だなんて。

「そういうわけだ。実はもう話は通っていてね。今すぐに荷物をまとめて、警察庁に行きなさい。いいね、今すぐ、だ」

 しかし刑事部長は微笑んだまま、いとも簡単に、ややスタッカート気味に『今すぐ』を言ってのけ、退室するようジェスチャーで示した。

「わ、わかり、ました……失礼します」

 実のところ何も解ってなどいなかったが、最敬礼をしてから刑事部長の部屋を後にした高瀬は、狐につままれたような思いで自分のデスク――だった場所――まで引き返した。

 何故か、荷物を入れるための段ボール箱を既に用意した怜香が待っていたが、今の高瀬にそれを疑問に思う余裕はなく、どうにか必要な荷物をまとめ始める。

 これは、いわゆる栄転、なのだろうか? それとも、実は特別班以上にとんでもない窓際部署への左遷、だったりするのだろうか。

 この話をどう捉えて良いのか、頭の中は混乱している。そんな状態なので、きちんと荷物をまとめられているのか、大切な物はしっかり箱に入れたのかも定かではなく、心中の不安は増していく一方だった。

 しかしとりあえず、話は通っている、という刑事部長の言葉に嘘はなかったらしい。係長や怜香たちに挨拶を済ませると、彼らからも一通りの別れと激励の言葉を受け取り、高瀬は心ここにあらず、といった様子で段ボール箱を一つ抱え、少し背中を丸めて警視庁を去ることとなった。

 そんな彼を、どこか気の毒そうな微苦笑を浮かべた怜香が見送っていた。

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