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その瞬間、何が起きたのか、すぐには解らなかった。
高瀬の肩を、ぐっと渾身の力で床の方へ押さえつけた螺旋。その螺旋の腕を覆っていたスーツの袖が、なくなっていた。
それがどうやら、この悪魔――レラージュとやらの配下の悪魔が放った矢で切り裂かれたためらしい、ということを、ようやく飲み込む。螺旋に伏せさせられなければ、自分に直撃していたことが、容易に想像できた。人体に危害を加えることはできない、と聞いたばかりだが、やはり、未知のモノから攻撃を受けるのは、怖かった。
しかし、露になった螺旋の右腕を見た高瀬は、再び息を呑まざるを得なかった。
その右腕には、大きな古傷があったのだ。
「羽佐間さん……その傷は……」
「……今は関係ありません。それよりも、悪魔が上に逃げています。行きますよ、このまま屋上へ追い詰めるのです」
「はいっ」
二人はまた走り出す。頻繁に飛んでくる光の矢を避けながら、しかし確実に上へ、屋上へと近付いていた。
第二小学校の北校舎は四階建てである。階段を駆け上がり切ると、さすがに二人とも肩で息をしていた。
目の前には、屋上に通じる扉。
螺旋は呼吸を整え、高瀬に目配せをすると、インカムに向けて言った。
「予定通り、悪魔を屋上へ追い詰めました。これから逮捕します」
そして両目を閉じたかと思うと、いきなり眼鏡を外し、投げ捨てる。
「ちょっ、羽佐間さん、眼鏡が壊れるじゃないですか! 何で投げるんすか!」
思わず敬語が崩れた。螺旋は目を閉じたまま、
「邪魔だからですが」
「投げて壊れたらどうすんですか!」
「壊れても経費で落ちますよ」
「血税を何だと思ってるんだ! 無駄遣いしないで下さい!」
「うるさいですね、行きますよ」
そのまま屋上のドアを開けた。
それから、左目だけを開く。その瞳は緑色に輝いていた。
その瞬間、屋上の隅々までに、五芒星や、高瀬には判読できない文字のような模様が浮かび上がる。空気の硬度が増した気がした。魔法円とか魔法陣とかいうやつだな、と、昔遊んだゲームを思い出す。
「…………!」
そんな彼にも、その魔法円の中央に、うごめく何かが見えた気がした。
「こ――これで、その、悪魔は……逃げ場を失ったわけです、か……?」
理解の及ばない世界に追いつくための質問の途中で、魔法円の中心に不穏な動きが感じられる。何となく嫌な風が吹いたようだった。
「まだ動くとは、しつこいですね」
言って、螺旋は右目も開ける。こちらは赤い光を帯びている。悪魔は完全に魔法円に縛り付けられたらしく、動きは感じられなくなった。
その力――魔力、と呼ぶのだろうか――の凄まじさは、高瀬にも理解できてしまうほどだった。華奢な身体に、彼女はこれほどまでの力を秘めているというのか。
高瀬が茫然としていることなど気にする風もなく、螺旋は右手の人差し指と中指を揃えて伸ばし、まっすぐ魔法円の中心に向けた。
「混沌より出でし者、混沌へと還りなさい」
その呪文のようなフレーズをきっかけに、魔法円が外側から段々狭まってゆく。中心付近で一旦その動きを緩めてから、一気に集束した。
最後に残されたのは、円の中に複雑な図形とアルファベットが描かれた、一枚の紙切れのようなものだった。
その紙切れに歩み寄り、拾い上げる螺旋。
「羽佐間さん、それは一体……?」
「レラージュの紋章です。悪魔はこの中へ封じられました」
「なるほど」
その紋章の回収が、悪魔の逮捕ということなのだろう。
そう思っていると、螺旋は右手の人差し指と中指でその紋章を挟み、
「螺旋の狭間へ」
短く唱えた。
「え?」
紋章は、一瞬にして霧散する。
「…………」
回収ではなかったのか! これではまるで――
「逮捕ではなく死刑だ、そう思われていますね?」
そう言って高瀬を見た螺旋の眼の色は、元に戻っていた。
「い――いえ……」
図星を指されて言葉を継げない高瀬に、彼女は構わず続けた。
「よその軸ならば、よその次元ならば、確かにこの方法は不適切です。しかし、ここは――ここは、我々の世界です。彼ら、つまり悪魔に、干渉する権利はないのです。我々は、我々の世界を守らねばなりません」
瞳が、冷たい光を帯びていた。自分とは異なる世界を、彼女は見ている。高瀬はそう思った。
「それに、完全に消滅したわけではありません。この世界と混沌との螺旋の狭間に、閉じ込めただけです――私の術名の由来ですよ」
言い終えた彼女の瞳から、冷たい光は消え、感情のこもらない顔に戻っていた。そして何事もなかったかのうようにインカムに向け、
「終わりました。記操以外の職員は、本部へ引き上げる準備を開始して下さい」
冷静なトーンで指示を下す。
そこで高瀬はふと、変化を感じ取った。空気が変わったような、そんな気がするのだ。具体的に、と問われるとその説明は難しかったが、それでも、肌で感じ取る空気の密度が、下がったような気がする。
「……気のせい、だよな?」
「さて、我々も戻りますよ。あとは記操の仕事です」
「判りました。あ、羽佐間さん、これを……」
「?」
高瀬は、自分の背広を螺旋に掛けてやった。日に日に寒さが増してきているということもあったが、何より、肩から裂けてしまった彼女のスーツが隠していた、大きな傷跡が人目を引くからだ。
「では羽佐間さん、降りましょう」
校舎を出ると、生まれつきなのか、それともカラーコンタクトでもしているのか、左右の眼の色が異なる長身の男性が立っていた。高級そうな三つ揃いのスーツを上手に着崩している。下手をするとただただチャラくなるところを、絶妙なバランスで品良く見せている辺り、かなりの上級者である。
「やあ螺旋ちゃん、ご苦労様」
「いえ。二階堂さん方は、これからが本番ですね。後をよろしくお願いします」
「キミもご苦労だったね、高瀬くん」
「あ、いえ……あの……」
この方はどなたですか、という視線での問いかけを察し、螺旋が説明した。
「記操の室長、二階堂左近警視ですよ」
「お、お疲れ様です!」
室長、警視、という単語に反応して慌てて敬礼をすると、二階堂はひらひらと手を振って、
「それよりさ螺旋ちゃん、今度食事にでも行こうよ」
「お断りします」
「はは、いつもそれだもんなあ。これでも僕は、本気で口説いてるんだぜ?」
職務中に女性を口説いてどうする、何やってんだあんた、と、上の人間に対して口に出せない自分を情けなく思う高瀬だが、螺旋はさらりと躱し、
「日付が変わる頃には完了しますか」
「……ああ。明日の朝にはもう、この学校に蔓延していた怪奇現象関連の記憶は、すっかり消えてしまってるさ。儚いものだね、記憶って」
二階堂は肩を竦めた。その仕草がやけに板についていて、外国の俳優でも眺めているかのようだった。
そして彼は、表情をやや真面目なものにして、しかしどこか飄々とした空気を漂わせながら、校舎の中に入っていった。
「……ありがとうございました」
歩き出しながら、ふいに螺旋に言われ、
「え?」
慌てて後を追いかけながら聞き返す。
「背広、助かりました……あまり――人に見られたくない傷ですから……」
「あ、いえ……」
何かあったのだろうか、と、思う。
過去の事件か何かに、その傷は関係しているのだろうか、と。
だが、それは触れてはいけない疑問に思えたため、高瀬は何も訊くことができなかった。
* * *
次の日。
変わらず出勤した高瀬に対して、螺旋も再びティーカップを割る失態を繰り返さず、この部屋に彼がいることに、黒峰もつづりも慣れてきているようだった。
そこへ、ノックが響いて城戸が顔を出す。
「昨日の事後処理の報告」
それだけ言って、あとはテレパシーで螺旋と話し始めたようだ。時折螺旋が一人で、城戸に向けて小声を発している。
自分はまだまだだ。
高瀬はそんなことを考えていた。
何の能力も持たない自分に、この部署で何ができるのか。それはまだ判らない。それに昨夜だって、螺旋に守られたばかりだ。足を引っ張っているだけなのかもしれない。
だが、ここを辞めたくない。そう思っていた。
魔術師を名乗る螺旋、テレポーテーションで自在に移動し、また移動させるつづり、情報を使いこなす黒峰。この魔力捜査室の人々は、普通ではない人物ばかりだ。城戸や華火の能力も興味深い。この特殊捜査部には、そういう能力を持った人間が、他にもたくさんいるのだろう。その中で自分も、何か少しでも役に立てれば。
そんなことを考えながらコーヒーを注ぐと、注ぎ終えたばかりのカップが手の中から消えた。
「ん?」
「えへへ、コーヒーいただきまーす!」
「あっ、ちょ、何するんですか結崎さん! 今、テレポートさせましたね!?」
「あはは、このくらい日常茶飯事だよ、高瀬くん。最大の防御法を教えてあげよう。マイカップを用意することだよ」
黒峰に言われて肩を落とした高瀬は、今日中にでも、ここに置くためのマイカップを買いに行くことに決めた。余計な出費は避けたいところだが、コーヒーを淹れる度にこんな目に遭っては堪らない。
もう一度自分のためにコーヒーを注ぎながら、それでも、自分はこれからもここにいることを選ぶのだろう、と思っていた。
記憶を消された上で、元いた警視庁捜査一課に戻る? 冗談じゃない。
『辞めなさそうだな、高瀬刑事』
「そうだと良いのですが」
城戸と螺旋の間でそんなやり取りがなされたことは、誰も知らない。
To be continued...
次回より幕間、「混沌迷路の歩き方」を4回に分けて掲載したのち、第二章に入ります。
「混沌迷路の歩き方」は唯一のコメディパートです。その後の落差をお楽しみいただければと思います(?)




