↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/6

第6話 東の沢と、浄化剤と呼ばれた毒

前回のあらすじ


リンド村の井戸水を調べたレオスは、井戸が黒い杭の汚染を受けている可能性に気づく。

村人のダンは死の森を憎んでいたが、調査を通じて少しずつ事実を見る姿勢を見せ始める。

その直後、東の沢にある黒い杭の周辺で、何者かが作業している気配を森が捉えた。


 東の沢へ向かう道は、さっきの湧き水までの道よりずっと険しかった。


 木々の間隔が狭い。


 地面は湿っていて、苔の下に柔らかい泥が隠れている。


 ところどころ、葉の先が紫色に変色していた。


 黒い杭の影響が近いのだろう。


 森の息苦しさが、足元から伝わってくる。


「ここを村人だけで歩くのは無理だな」


 後ろを歩くダンが、低い声で言った。


 山刀を腰に差し、肩には縄と水袋。


 村の猟師らしく足取りはしっかりしているが、それでも慎重だった。


 昨日までの彼なら、森の中でここまで警戒しながら歩いただろうか。


 たぶん、歩かなかった。


 魔物が出たら斬る。


 邪魔な枝は払う。


 そういう進み方をしたはずだ。


 今は違う。


 俺が足を止めると、ダンも止まる。


 俺が草を避けると、ダンも避ける。


 文句は多いが、指示は守っている。


 それだけでかなり助かる。


「右の紫の花には触らないでください。茎から刺激のある汁が出ます」


「分かってる」


「その先の灰色の苔も滑ります」


「分かってる」


「足元の白い根は踏まないで。まだ生きてる根です」


「……分かってる」


 ダンは少し苛立ったように言った。


「お前、細かいな」


「森では細かい方が生き残ります」


「それは昨日から何度も聞いた」


「大事なので」


 肩のポルが、ぷるんと震えた。


 同意してくれているらしい。


 俺は少しだけ笑った。


 森の感覚は、東へ進むほど重くなる。


 黒い杭。


 毒。


 沢。


 木箱。


 人間。


 断片的な情報が、森を通じて流れ込んでくる。


 まだ距離はあるが、相手の人数はおおよそ分かった。


「作業している人間は六人。武装は軽い。兵士というより、人夫か作業員に近いです」


「人夫?」


「はい。ただ、一人だけ魔術師っぽい反応がある。そいつが指揮役かもしれません」


「どうする。先に捕まえるか」


「まず見る」


 俺は即答した。


「何をしているか確認してからです。知らずに作業させられている人間もいるかもしれない」


「甘いな」


「かもしれません」


 俺は素直に認めた。


「でも、事情を知らない人を先に殴ると、後で話がややこしくなる」


「殴る前提なのは俺だけか」


「ダンさんが山刀を握り直したので」


 ダンは無言で山刀から手を離した。


 分かりやすい人だ。


 悪い人ではないのだろう。


 森に弟を奪われた怒りが強いだけで、村を守りたい気持ちは本物だ。


 だからこそ、ここで黒い杭の正体を自分の目で見てもらう意味がある。


 俺がいくら説明しても、最後は村の人間が見なければ信じきれない。


 村と森の間に立つには、俺一人だけが納得していても意味がない。


 沢の音が聞こえ始めた。


 ちょろちょろと流れる水の音。


 本来なら、森の中では安心する音のはずだ。


 だが、そこに混じって嫌な臭いがする。


 鉄。


 薬品。


 腐敗。


 リンド村の井戸で感じた臭いより、ずっと濃い。


 ダンも気づいたらしい。


 顔をしかめる。


「なんだ、この臭い」


「黒い杭と同じです」


「……これが沢に?」


「可能性は高い」


 俺は身を低くし、草むらの隙間から前方を覗いた。


 東の沢は、細い水路のように森の中を流れていた。


 水そのものは透明に見える。


 だが、沢の石には紫色の膜がこびりつき、周囲の草はところどころ黒く溶けている。


 その沢の脇に、黒い杭が刺さっていた。


 昨日抜いたものと同じ形。


 ただし、こちらの方が大きい。


 杭の上部には、金属製の輪が三つ取り付けられ、そこへ管のようなものがつながっている。


 管の先には、木箱。


 いや、木箱に偽装した金属容器だ。


 その周りで、男たちが作業していた。


 粗末な作業服。


 手袋。


 顔布。


 兵士の鎧ではない。


 だが、一人だけ明らかに違う男がいる。


 青い魔術師服。


 腰に細い杖。


 鼻にかけた声。


 その男が作業員たちへ指示を飛ばしていた。


「急げ。境界杭の一本が停止した。今日中に東の杭の出力を上げろとの命令だ」


「ですが、先生。この浄化剤、昨日の量でも沢の周りが枯れてますぜ」


「瘴気を中和している証拠だ。素人が口を挟むな」


「でも、手袋に穴が開いた奴が腕を腫らして……」


「扱いが悪いからだ」


 魔術師服の男は不機嫌そうに言った。


「これは北部辺境管理局が認可した浄化剤だ。死の森の瘴気を抑えるための重要資材だぞ。余計なことを考えずに運べ」


 ダンの肩が震えた。


 怒りだ。


 俺は手で制する。


 まだだ。


 もう少し聞く。


「浄化剤、だと」


 ダンが歯を食いしばる。


「村の井戸を汚してるかもしれない毒を、あいつらは浄化剤って呼んでるのか」


「作業員は本当にそう聞かされているようですね」


「じゃあ、あの魔術師は?」


「少なくとも、危険性は知っていそうです」


 沢のそばで、作業員の一人が金属容器の栓を開けようとしていた。


 中身は紫色の液体。


 黒い杭の根元から出ていたものと、ほぼ同じ気配がする。


 あれを杭に接続するつもりか。


 つまり、この杭は単に毒を排出しているだけではない。


 外から毒を足している。


 そして、その毒を「浄化剤」と呼ばせている。


 胸の奥に、冷たい怒りが広がった。


 分かりやすい嘘だ。


 死の森は危険だ。


 だから強い薬を使う。


 薬で周囲が枯れるのは、瘴気が中和されている証拠だ。


 そう説明されれば、現場の作業員は信じるしかない。


 だが、実際には森と沢を汚し、その下流の村まで巻き込んでいる。


「レオス」


 ダンが低く言う。


「止めるぞ」


「止めます」


 俺は頷いた。


「ただし、作業員はできるだけ傷つけない。あの魔術師を押さえる。毒の容器は倒させない。沢に流れたらまずい」


「難しいこと言うな」


「難しいので、役割を分けます」


 俺は地面に簡単な図を描いた。


「ダンさんは左側から回って、作業員たちの退路を塞いでください。攻撃はしない。大声で『容器から離れろ』と警告するだけ」


「俺が警告役か」


「村の人間の声の方が効きます。俺が言うと怪しい森の男ですから」


「自覚はあるんだな」


「かなりあります」


 ポルが肩の上でぷるんと震える。


「ポルは俺と一緒。森、管の周囲の根を動かせるか? 容器が倒れそうになったら支えてほしい」


 森から、苦しげだがはっきりした同意が返ってきた。


 この周辺の森はかなり弱っている。


 大きな動きは難しい。


 なら、細かく使う。


「虫たちは作業員の足元へ。噛まなくていい。驚かせて容器から離すだけ。鳥は魔術師の視界を遮る。毒草は動かさない。誰かが毒を踏むと危ない」


 ダンが俺をじっと見た。


「なんだ?」


「いや。お前、戦い方が本当に変だな」


「褒めてます?」


「半分くらいは」


「なら受け取っておきます」


 俺は息を整えた。


 眠い。


 疲れている。


 だが、頭は動いている。


 目の前の作業を止める。


 毒を流さない。


 人は殺さない。


 魔術師から情報を取る。


 やることは多いが、一つずつだ。


「行きます」


 俺は草むらから立ち上がった。


「その容器から離れてください」


 俺が声をかけると、作業員たちが一斉にこちらを見た。


 驚き。


 警戒。


 困惑。


 そして、魔術師服の男だけが、露骨に顔を歪めた。


「誰だ、貴様」


「レオス。テイマーです」


「テイマー?」


 男の視線が俺の肩のポルに向く。


 鼻で笑った。


「スライム連れのテイマーが、何の用だ」


「その浄化剤と呼んでいる液体は、森と沢を汚しています。リンド村の井戸にも影響している可能性がある。作業を止めてください」


 作業員たちがざわつく。


「リンド村?」


「井戸って、あの下流の?」


「まさか、そんな話は聞いてないぞ」


「黙れ!」


 魔術師が杖を地面に打ちつけた。


「死の森の瘴気に触れた者の妄言だ。作業を続けろ」


 男がそう命じた瞬間、左側の茂みからダンが飛び出した。


「容器から離れろ!」


 村人の怒声が森に響いた。


 作業員たちは反射的に手を止める。


 その足元へ、虫たちが一斉に這い出した。


「うわっ!?」


「虫だ!」


「足元に!」


 噛まない。


 刺さない。


 ただ、ぞわぞわと靴の周りを動くだけ。


 それで十分だった。


 作業員たちは容器から離れる。


 倒れかけた金属容器を、森の根が下から支えた。


「よし」


 第一段階成功。


 だが、魔術師は動揺していなかった。


「森を操る魔術か。貴様、魔族の手先だな」


「それ、昨日も言われました」


「ならば話は早い」


 魔術師が杖を振る。


 赤い火球が生まれた。


 火。


 森の中で最悪の選択だ。


「やめろ!」


 俺が叫ぶより早く、魔術師は火球を放った。


 狙いは俺ではない。


 足元の草。


 森そのもの。


 火で脅して主導権を取るつもりだ。


 だが、ここは死の森だ。


 いや、俺の新しい職場だ。


 勝手に火をつけられて黙っているほど、森は大人しくない。


「森、水!」


 沢の水が跳ねた。


 細い水の筋が、蛇のように宙を走る。


 火球にぶつかり、じゅっと白い蒸気が上がった。


 完全には消えない。


 だが、勢いは落ちる。


 次の瞬間、ポルが俺の肩から跳び、空中で薄く広がった。


 水を含んだ体が火球を包み込む。


「ポル!」


 火が消えた。


 同時にポルが地面へ落ちる。


 体の一部が少し赤くなっている。


 俺の頭に血が上りかけた。


 だが、怒りで突っ込めば負ける。


「ポル、下がってろ」


 ポルはぷるぷる震えながらも、俺の足元へ戻ってきた。


 熱かったはずだ。


 怖かったはずだ。


 それでも、俺と森を守ってくれた。


 魔術師は舌打ちした。


「小賢しい」


「今の火、森に向けて撃ちましたね」


「死の森だ。燃えた方が人間のためだろう」


 その言葉で、周囲の空気が変わった。


 森が沈黙する。


 ただの静けさではない。


 怒りが深すぎて、音が消えた。


 作業員たちも、その異変に気づいたらしい。


 青ざめた顔で周囲を見る。


 ダンが山刀を握り直した。


 今度は止めなかった。


 俺も、これ以上この男を交渉相手として扱う気はない。


「森」


 俺は静かに言った。


「殺さずに、杖を落とさせてくれ」


 次の瞬間、魔術師の足元の根が跳ねた。


 男の体勢が崩れる。


 それでも魔術師は杖を構えようとした。


 だが、頭上から黒い鳥が一羽、顔すれすれを飛ぶ。


「ぐっ!」


 視線が逸れる。


 その隙に、沢の水が男の手首を打った。


 杖が指から離れる。


 ダンが走った。


「おらっ!」


 山刀の柄で、杖を遠くへ弾き飛ばす。


 同時に、森の蔓が魔術師の足と腕を絡め取った。


 男は地面に倒れ込む。


「貴様ら! 北部辺境管理局に逆らってただで済むと思うな!」


「それは後で考えます」


 俺は男のそばへ近づいた。


「今は、その浄化剤とやらの正体を聞きます」


「浄化剤は浄化剤だ!」


「では、なぜ沢の周囲が枯れているんですか」


「瘴気と反応した結果だ」


「なぜ作業員の腕が腫れたんですか」


「扱いが悪い」


「なぜリンド村の井戸に同じ臭いが出ているんですか」


「村など知るか!」


 その一言に、ダンが動いた。


 魔術師の胸ぐらを掴む。


「村など、だと?」


「ダンさん」


「止めるな」


「殺すと情報が取れません」


 ダンの腕が止まった。


 ぎりぎりで理性が勝ったらしい。


 彼は魔術師を地面に突き返した。


「……続けろ」


「ありがとうございます」


 俺は作業員たちを見た。


「皆さんは、この液体が何か説明を受けていますか?」


 一人の作業員が、おそるおそる答えた。


「死の森の瘴気を中和する薬だと……俺たちは、管理局の仕事を請けただけだ」


「作業中に体調が悪くなった人は?」


「三人いる。腕が腫れた奴と、咳が止まらなくなった奴と、昨日から目が見えにくいって言ってる奴が」


 かなり危ない。


 浄化剤どころではない。


 ただの毒性物質だ。


「その人たちは今どこに?」


「北の作業小屋だ。休ませてる」


「ダンさん」


「ああ。後で確認する」


 ダンの声は硬い。


 怒りを押し殺している。


「この容器の納品書や指示書はありますか?」


 作業員たちは顔を見合わせた。


 一人が木箱の中から油紙に包まれた書類を取り出す。


「これだ」


 俺は受け取り、中を開いた。


 魔法文字と王国文字が混じった指示書。


 全部は読めない。


 だが、重要な部分は分かった。


【東部境界杭:出力補正】


【浄化剤投入量:通常の二倍】


【勇者一行の北上予定に伴い、森内瘴気反応を外縁部へ誘導】


【リンド水脈方面への圧抜きを許可】


 俺は思わず、紙を握りつぶしかけた。


 リンド水脈方面への圧抜き。


 つまり、村の井戸へ流れる可能性を知っていた。


 知った上で許可した。


 勇者一行。


 アランたちの通行予定に合わせて、森の瘴気を別方向へ逃がしたのか。


 その逃げ先が、リンド村の水脈。


「……そういうことか」


 俺は低く呟いた。


 勇者パーティーが通る道を安全に見せるために、森の汚れを村側へ流した。


 それなら、最近になって井戸の異変が悪化したことも説明できる。


 昨日、アランたちは死の森に入った。


 その前後で、管理局は杭の出力を上げていた。


 俺が抜いた一本も、その一部だったのだろう。


「何が書いてある」


 ダンが聞いた。


 俺は指示書を渡した。


 ダンは字が読めるらしい。


 読み進めるうちに、彼の顔が赤くなっていく。


 怒りで。


「リンド水脈方面への圧抜き……だと?」


 作業員たちも凍りついた。


「おい、それって」


「村の方へ流すってことか?」


「そんな説明、聞いてないぞ」


 魔術師が顔を歪める。


「必要な措置だ。勇者一行の進路確保は王国の最優先事項。辺境の村一つと魔王討伐、どちらが重要か考えるまでもない」


 ダンが今度こそ殴りかかろうとした。


 俺はその腕を掴んだ。


「ダンさん」


「離せ!」


「殴るのは後でもできます。今は証拠が先です」


「こいつは村を……!」


「分かってます」


 俺はダンの目を見た。


「だからこそ、感情で台無しにしない。村を守るなら、こいつの言葉と書類を持ち帰る必要がある」


 ダンは荒い息を吐いた。


 長い数秒の後、腕から力が抜ける。


「……くそっ」


「ありがとうございます」


 俺も怒っている。


 でも、怒りは使い道を間違えると、相手の得になる。


 この魔術師を殴って終われば、管理局は作業員の暴走で片づけるかもしれない。


 必要なのは、杭と指示書と証言。


 それから、今すぐ沢への毒を止めることだ。


「容器を外します」


 俺は金属容器を見た。


「ただし、中身をこぼさないように。森、容器を支えて。ダンさん、縄で固定を。作業員の方、栓の構造を教えてください」


 作業員たちは戸惑いながらも動き始めた。


 さっきまで自分たちが設置していたものを、今度は止める側として扱う。


 複雑な気持ちだろう。


 だが、手を動かせるなら問題ない。


 魔術師は蔓で拘束したまま、少し離れた場所に転がしておいた。


 もちろん、杖は回収済みだ。


「この栓を閉めれば、液は止まるはずだ」


 作業員の一人が説明する。


「でも、圧がかかってるから急に外すと吹き出す」


「圧抜きが必要ですね」


「できるのか?」


「昨日一本抜きました。同じ要領でやります」


 俺は杭の魔法文字を確認した。


 昨日より複雑だ。


 出力補正が入っている分、下手に削ると危ない。


 だが、森から流れてくる感覚と、薬草帳の地形、昨日の経験を合わせれば、やるべきことは見える。


「まず沢への流れを一時的に止める。代わりに、死んだ根の方へ逃がす。ただし昨日より毒が強い。受け止める根を三か所に分けます」


「根に毒を流していいのか?」


 ダンが聞く。


「生きている水脈へ流すよりはましです。森も了承しています」


「森が?」


「はい」


 ダンは一瞬、森を見た。


 黒く傷ついた木々。


 紫に変色した葉。


 その中で、いくつかの枯れた根がゆっくりと持ち上がる。


 まるで、自分から傷を引き受けるように。


 ダンの顔が歪んだ。


「……くそ。なんでそこまで」


「森も村を完全に見捨ててはいないんだと思います」


 俺は言った。


「もちろん、人間に怒ってもいます。でも、それだけじゃない」


 ダンは答えなかった。


 だが、さっきまでより少しだけ、森を見る目が変わっていた。


「ポル、今度は近づきすぎるな。水膜だけでいい」


 ポルがぷるんと震える。


 少し焦げた体はもう戻りつつある。


 スライムの回復力はすごい。


 でも、無理はさせない。


「作業員の皆さんは、容器を倒さないよう支えてください。危なくなったらすぐ手を離す。命優先です」


 俺が言うと、一人の作業員が悔しそうに口を開いた。


「俺たち、本当に毒を流してたのか」


「少なくとも、この液体は安全ではありません」


「俺たちは、森を抑える仕事だって……村を守る仕事だって聞いてたんだ」


「なら、今から本当に村を守る仕事をしましょう」


 作業員は目を見開いた。


 それから、強く頷いた。


「分かった」


 現場の空気が変わる。


 敵味方が完全に入れ替わったわけではない。


 だが、少なくとも今この瞬間、目的は同じだ。


 毒を止める。


 沢を守る。


 村への汚染を増やさない。


 それで十分だった。


「始めます」


 俺は杭の下部に短剣の先を当てた。


 深く息を吸う。


 削るのは一画だけ。


 排出の向きを変える文字。


 昨日の杭と似ているが、強度が違う。


 焦るな。


 小さく。


 少しずつ。


 刃が魔法文字を削る。


 杭が震えた。


「来るぞ!」


 作業員が叫ぶ。


 紫の液体が管の接続部からにじみ出す。


 森の根がそれを受け、三方向へ分ける。


 じゅう、と嫌な音。


 白い煙。


 作業員の一人が咳き込む。


「布で口を覆って! 風上へ!」


 俺が叫ぶと、ダンがすぐに人を動かした。


「おい、こっちだ! 沢に背を向けるな、足元見ろ!」


 頼もしい。


 現場を仕切れる人間がいると、作業は一気に安定する。


 杭の震えが強くなる。


 魔術師が拘束されたまま叫んだ。


「やめろ! その杭を止めれば、森の瘴気が逆流するぞ!」


「嘘か本当か、森に聞きます」


 森から返ってきたのは、苦しみ。


 だが、逆流ではない。


 詰まっていた毒が抜ける痛みだ。


 危険だが、悪化ではない。


「続行!」


 俺は文字を削り切った。


 金属容器の圧が少し下がる。


「今です。栓を閉めて!」


 作業員二人が同時に栓を回す。


 固い。


 動かない。


「ダンさん!」


「任せろ!」


 ダンが加わり、三人で栓を回す。


 ぎぎぎ、と金属音が鳴る。


 栓が閉まった。


 管の中を流れていた紫の液体が止まる。


 杭の震えも弱まった。


【汚染液投入:停止】


【東の沢への追加流入を遮断】


【既存汚染:残留】


【推奨対応:小規模浄化路の形成】


「浄化路……ここで使うのか」


 昨日解放された権限。


 小規模浄化路の形成。


 まだ試していない。


 だが、沢がリンド村の水脈につながっているなら、今やる価値がある。


「森、沢の流れを少しだけ変えられるか?」


 ざわり。


 苦しそうな反応。


 この周辺は弱っている。


 大きく変えるのは無理。


「全部じゃなくていい。汚れが強い部分を、白露苔の水場の方じゃなく、死んだ根の浄化溝へ逃がす」


 森が考えるように沈黙した。


 やがて、足元の根が動く。


 沢の脇に細い溝が生まれた。


 紫の膜が浮いた水だけが、ゆっくりとそちらへ流れ始める。


「ポル、白露苔を少しだけ」


 ポルが薬草帳に挟んでいた白露苔の欠片を押し出す。


 俺はそれを溝の入口に置いた。


 青白い光。


 紫色の濁り。


 ぶつかり合うように揺れ、やがて水の色がほんの少し薄くなる。


【小規模浄化路を形成しました】


【効果範囲:東の沢・上流部の一部】


【持続時間:短】


【必要資材:白露苔、清浄水、森の根系回復】


「持続時間は短い、か」


 つまり応急処置だ。


 井戸をすぐ完全に戻せるわけではない。


 だが、追加汚染は止めた。


 流れの一部も逸らした。


 今日やれることとしては大きい。


「沢の臭いが……少し薄くなった?」


 作業員の一人が呟いた。


 ダンも沢に近づき、顔をしかめながら水面を見る。


「さっきよりはましだ」


「飲めるわけではありません」


 俺は釘を刺した。


「村にはまだ井戸水禁止を続けてもらいます。沢も、しばらくは触らない方がいい」


「分かってる」


 ダンは頷いた。


 素直だ。


 それだけ状況を理解したのだろう。


 作業員たちから、さらに話を聞いた。


 彼らは近隣の町から雇われた人夫だった。


 北部辺境管理局からの仕事で、境界杭に浄化剤を補充している。


 報酬は悪くない。


 危険手当も出る。


 ただし、体調を崩した者は自己責任。


 そういう契約らしい。


「ひどいな」


 俺が言うと、作業員の一人が苦笑した。


「でも、仕事がないよりはましだと思ってたんだ。死の森を抑える仕事なら、人の役にも立つって」


「本当にそうならよかったんですが」


「ああ……」


 彼らには、リンド村へ行って証言してもらうことにした。


 全員が素直に従ったわけではない。


 管理局に逆らうのを怖がる者もいた。


 それは当然だ。


 だから無理強いはしない。


 ただ、毒を扱って体調を崩した仲間がいること。


 この指示書にリンド水脈への圧抜きと書かれていること。


 それだけは、村長に伝えてもらう必要がある。


 魔術師については、拘束したまま連れていく。


 本人は抵抗したが、ダンと作業員たちが見張れば問題なさそうだった。


 ただし、森の外へ出た後は注意が必要だ。


 管理局の関係者が取り返しに来るかもしれない。


「レオス」


 ダンが俺のところへ来た。


「何ですか?」


「……その、なんだ」


 彼は言いにくそうに頭を掻いた。


「俺は、森のせいだと思ってた」


「弟さんのことですか」


「ああ」


 ダンは沢を見た。


 紫の膜がまだ残る水面。


 黒い杭。


 枯れた草。


「弟は三年前、森の外縁で魔物に襲われた。あの頃から魔物が妙に凶暴になってた。俺はずっと、死の森が狂ったせいだと思ってた」


「それは、間違いではないかもしれません」


 ダンが俺を見る。


「森が傷ついて、魔物が凶暴化した。そこまでは事実かもしれない。ただ、その原因に黒い杭が関わっているなら、話は変わります」


「……俺は、怒る相手を間違えてたのか」


「全部間違いとは言えません」


 俺は慎重に言った。


「弟さんを襲った魔物は、実際にいた。ダンさんが森を怖がったり憎んだりするのは自然です。でも、これからどうするかは、原因を見て決められる」


 ダンは長く黙った。


 やがて、ぼそりと言う。


「お前、変な慰め方するな」


「下手ですみません」


「いや」


 ダンは首を振った。


「その方がいい。森は悪くない、弟の死も仕方ない、なんて言われたら殴ってた」


「言わなくてよかったです」


「本当にな」


 ダンは少しだけ笑った。


 初めて見た気がする。


 すぐに真顔へ戻ったが。


「俺はまだ森を好きにはなれん」


「それでいいと思います」


「だが、杭を打った奴らは許せん」


「そこは同感です」


 俺たちは、黒い杭を見た。


 昨日のものより大きく、まだ地面に刺さっている。


 今すぐ抜きたい。


 だが、体力も足りないし、構造も複雑だ。


 無理に抜けば沢へ毒が噴き出す可能性がある。


「今日は投入停止と浄化路だけにします。杭を抜くのは準備してから」


「悔しいが、その方がいいんだろうな」


「はい」


 無理に全部やろうとしない。


 これも大事だ。


 問題は山ほどある。


 だからこそ、潰れない順番でやる。


 魔術師と作業員たちを連れ、森の外縁へ戻ることにした。


 金属容器は森の根で固定し、栓を封じた。


 黒い杭本体は残す。


 指示書と、予備の納品書、浄化剤の空き容器を証拠として持ち帰る。


「容器は持っていかないのか?」


 ダンが聞く。


「中身入りは危険すぎます。村へ持ち込む方が危ない」


「確かに」


「代わりに空き容器と書類。あと、作業員の証言です」


 魔術師が吐き捨てるように言った。


「無駄だ。辺境管理局が貴様らの言葉など聞くものか」


「でしょうね」


「なら何をしても同じだ」


「同じではありません」


 俺は男を見た。


「リンド村が知らないまま毒を飲まされるのと、知った上で対策するのは違う。作業員が浄化剤だと信じて扱うのと、毒性を知って扱うのも違う。森が一方的に悪者にされるのと、杭の存在が知られるのも違う」


「小さな違いだ」


「現場は小さな違いで生き残るんです」


 魔術師は黙った。


 理解したわけではないだろう。


 だが、言い返せなかっただけでも十分だ。


 森の道を戻る途中、作業員たちは終始おとなしかった。


 森が道を開けるたびに、彼らは気まずそうに木々を見る。


 自分たちが何をしていたのか、少しずつ実感しているのかもしれない。


 ダンも、何度か森を見た。


 憎しみだけではない目で。


 まだ遠い。


 でも、村と森の間に細い糸が一本だけ戻ったような気がした。


 森の出口が近づいた時、頭の奥でキョロの気配がした。


 こつん。


 こつん。


 遠く離れた国境標の音が、なぜか聞こえる。


 境界。


 線。


 外。


 内。


 連れてくる。


 危ない。


「キョロ?」


 俺は足を止めた。


 ダンが振り返る。


「どうした」


「国境標が何か言ってる」


「……お前の周り、本当に何でも喋るな」


「俺もそう思います」


 キョロの感覚はまだ曖昧だ。


 だが、意味は伝わった。


 森の外に、別の人間が来ている。


 村の方角。


 王国兵ではない。


 もっと整った気配。


 馬車。


 旗。


 役人。


 俺は嫌な予感がした。


 森を通じて、村の入口の映像が流れ込む。


 リンド村の前に、二台の馬車。


 護衛兵。


 青と銀の紋章。


 そして、豪華な外套を着た細身の男。


 男は村長に向かって、何かを突きつけている。


 書状。


 村長の顔は青ざめていた。


 その横で、ミナが不安そうにトマスさんの家の方を見ている。


 俺は小さく息を吐いた。


「先回りされたか」


「誰だ」


「たぶん、北部辺境管理局の人間です」


 魔術師が拘束されたまま、にやりと笑った。


「グレイン子爵だ」


 その名前に、ダンの顔が険しくなる。


 黒い杭を設置させた北部国境保全官。


 境界杭の管理者。


 リンド水脈への圧抜きを許可した可能性がある人物。


 その本人が、村に来ている。


「ちょうどいい」


 ダンが山刀に手を伸ばす。


「いいわけないでしょう」


 俺は即座に止めた。


「相手は貴族です。村の前で斬りかかったら、村ごと反逆扱いされます」


「じゃあどうする」


「証拠を持って戻る。村人を落ち着かせる。相手の要求を聞く。こちらから先に手は出さない」


「また話しか」


「はい」


 俺は村の方角を見た。


「ただし、今回は証拠があります」


 指示書。


 空き容器。


 作業員の証言。


 拘束した魔術師。


 東の沢で止めた投入作業。


 完全ではない。


 だが、昨日よりずっと材料はある。


「ダンさん」


「何だ」


「村に着いたら、まず村人を下がらせてください。怒って飛び出す人がいると危ない」


「俺も含めてか」


「自覚があるなら助かります」


「……分かったよ」


 ダンは苦々しく頷いた。


 ポルが肩でぷるんと震える。


 森が心配している。


 キョロも、こつんこつんと遠くで鳴っている。


 どうやら、俺の新しい職場は今日も定時で終わらないらしい。


「行きましょう」


 俺は森の出口へ向かって歩き出した。


 黒い杭の毒を止めたと思ったら、今度はそれを命じたかもしれない貴族が村に来ている。


 問題は一つ片づけるたびに、奥から次の問題が出てくる。


 まるで絡まった根のようだ。


 でも、根ならほどける。


 どこから絡んでいるのか見ればいい。


 どこを切ってはいけないのか、森に聞けばいい。


 そして、切るべきところが分かったら。


 その時は、迷わず切る。


 俺は勇者ではない。


 ただのテイマーだ。


 けれど、森と村の水を毒でつなぐような相手に、黙って頭を下げるほど都合のいい人間でもない。


 森の出口の向こう。


 リンド村の上に、朝日が昇り始めていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます!


今回は、東の沢で黒い杭に「浄化剤」と呼ばれる毒が投入されていることが分かる回でした。


作業員たちは森を守る仕事だと思っていた一方で、管理局側はリンド村の水脈に汚染が流れることを知っていた様子です。


レオスは今回も、敵を全員まとめて倒すのではなく、

「知らずに作業している人」

「危険を知りながら命令している人」

「証拠として必要なもの」

を分けながら動いています。


そして、森を憎んでいたダンも、黒い杭の実態を見て少しずつ考えが変わり始めました。


次回は、ついに北部国境保全官グレイン子爵がリンド村へ。

黒い杭をめぐる対立が、森の中だけでは済まなくなっていきます。


続きが気になる、面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけるととても励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。