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先生とあたしの恋愛化学方程式  作者: 角 秋也


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9/20

Au-4

 夏休みも終わりが見えてきた時期。相変わらずあたしは化学室に通っていた。

「せーんせ! おはよ!」

「おーう」

 眠たげな目で先生は答えた。今日はまだカフェインのチャージがまだらしい。おもむろに コーヒーのボトルを取り出して、ゴクゴクと飲む先生。少しシャッキリとした。

「相変わらずアルカロイド中毒?」

 化学オタク見習いらしく、習った化学用語を使ってみたり。

「まあな。長い事こんな風だから、今更抜け出せん」

「先生、それだけ切り取ると結構危ないよ」

 アルカロイドっていうと、むしろそういうのが先に来るらしいし。

「よく知ってるな。切り取るなよ?」

 先生は苦い顔をして言った。でも、口元は笑っていた。化学オタクの会話を楽しんでるみたいだ。

「そういえば、先生」

 伝えなければならないことを言うために、声をかけた。

「うん?」

 先生は楽し気に答える。

「教科書さ、そろそろ全部写し終えるよ」

「知ってるぜ。大分後半の範囲も説明したからな。良かったじゃねえか。教科書完成だ」

「そうだけど……」

 いい事と良くない事が、並列にある。

「心配すんな。教科書が完成しても、学ぶことは色々ある。化学マスターへの道はまだまだ遠いぞ?」

 先生は悪戯っぽい表情で笑って言った。最近の先生は、特に子どもっぽい表情を見せる。これは心を許してくれたってことなのかな。もしそうならとても嬉しい。

「じゃあこれからも教えてね、先生」

 あたしも嬉しくて笑って言った。

「そしたら、総復習の模擬テストでもしてみるか? 用意はあるぞ」

「テスト、テストかあ……うん、やる!」

 テストという単語には未だに抵抗があるけど、化学は自信がある。

「いい返事だ。模擬テストだからな。一応、時間を計るぞ。一時間だ」

「えっ? う、うん」

 先生のところでそんなにテストらしいテストは初めてだ。ちょっと緊張する。

「用紙はこいつだ」

 先生は裏返しにした紙を何枚かあたしの前に置いて言った。

「んじゃ、準備はいいか?」

「だ、大丈夫」

 緊張感が増す。でも大丈夫。先生に沢山教えてもらったから。

「よし、スタート」

 先生は腕時計を見ながら合図をした。緊張を抱えながら紙をめくった。紙には『大学入学共通テスト』の文字が。

「せ、先生? これって……」

 大学入試の問題……?

「夏浦ならそこそこいい点が取れるはずだ。ま、やってみろ」

 先生はニッ、と子どもっぽい笑みを浮かべて言った。

「わ、分かった……」

 恐る恐る紙を見てみる。これは……間違いなく4番。次は……多分1番。一応計算しようかな。選択式の問題は少し慣れないけど、意外と解けた。こっちは……4だ。意外とスイスイ解ける。大学入試の問題ってかなり難しいんだろうなと思ってたけど、想像よりは簡単みたいだ。

 大量の問題に対して頭の引き出しから知識を取り出してはしまいをくり返し、結構悩んで解いていると、先生の声がかかった。

「タイムアップ。最後までは解けなかったみたいだな」

「……先生の意地悪」

 あと10分くらいあれば、最後まで解けたのに。悔しい。

「早く解くのもテクニックの一つだ。まだ教えてないがな。そこの重要さを教えるために、今回これを持ってきた」

「あたしは単に、化学を知るのが好きだからやってるのに。受験みたいなのは……嫌い」

「まあそう言うな。特別に採点してやる。結果次第だが、いい結果が出れば嬉しいんじゃないか?」

「それはー……そうだけど」

 あたしの実力が受験生並みって言ってもらえるんなら、そりゃ嬉しい。

「だろう? じゃ、採点するぜ。えーと、解答番号1が──」

 先生はあたしの答案に赤ペンを入れ始めた。丸。丸。丸。バツ。丸……丸が多くて嬉しい気持ちもあるけど、それ以上にバツが悔しい。

「ふむ……えー、配点がこれか。3、4、3……」

 先生は紙を見ながら点数をメモしていった。

「よし、点数出たぞ」

「ちょ、ちょっと待って! ……よし。教えて」

 緊張をほぐすために深呼吸して、先生の方に向き直った。

 先生は片方の眉を吊り上げて、口角を少し上げた。

「67点。平均は55点くらいだから、勉強した時間と今の時期を考えれば十分すぎる点数だな。時間さえあればもっと点数が伸びたっつーのも、とてもいい。難関大はアバウトに言うと、全体で8割が目標だから、これからも勉強を続ければ問題なく届くだろう。むしろ、9割、10割を狙えるレベルと見る。実際、解いた範囲の正答率は8割近い。ま、つまりは滅茶苦茶いい成績だ。よく頑張った」

 先生はいつかのあの笑顔で褒めてくれた。顔をくしゃっとした、少し不器用な笑顔。救われた気がした。

「う、うん……先生のおかげだよ。ありがとう、先生。これからも教えてね?」

 少し照れてしまって目線を逸らしてから、やっぱり正面を見て答えた。

「もちろんだ。化学マスター、目指すぞ」

 先生は笑顔のまま答えた。

「しかし、なんでこんなに化学向きなのに、最初はああだったんだ?」

 そのまま先生は少し難しい顔をして聞いてきた。少し話したくない話題だ。

「それは……」

 少し言い淀む。でもまあ、先生になら。

「あたしさ。高校受験、本当はもっと難しいところ目指してて」

「……おう」

 あたしの真剣なトーンに、先生の表情は真面目に変わった。

「前に、お母さんが獣医だって話したでしょ? 元々パパとお母さんは二人で動物病院経営しててさ。その頃は良かったんだ。パパが大体の患畜は診て、お母さんは忙しい時に手伝うくらいで。パパがたまにしか帰ってこないのは寂しかったけど、お母さんがいつも一緒にいてさ」

「幸せだったんだな」

 先生は過去形を使った。前に昔は、と言ったのを覚えてくれてたんだろう。

「うん。でも、小学六年生に上がるタイミングでパパ、病気になっちゃって。肝臓がん……だったかな。そのまま、夏休みが終わる前に死んじゃって」

「……そうか」

 先生は、目を細めて言った。

「でも……お母さんは動物病院、潰したくなかったみたいで。頑張って働いて、なんとか維持してて。でも、大体病院に行ってるから、前みたいに一緒にいられなくてさ。なんか、お母さんまでいなくなっちゃったみたいで。寂しくて」

 先生の顔を見つめながら話を続けた。

「それで中学生になって、塾に入りなさい、って。今思えば、獣医になって欲しかったんだと思う。そして継いで欲しかったんだろうね。でも、その時はなんで入れられたのかもよく分かんなくてさ。で、その塾厳しくて。失敗したらすごく怒られるし、笑われるし。正直、ずっと行きたくなかった」

 話すだけで、なんだか辛い気持ちになってくる。

「でもさ、勉強頑張ったらお母さんも褒めてくれるかなって思って。結構、頑張ったんだよね。でもお母さん、勉強の話題は一切しないし。一応通い続けたけど、ただただ辛かった」

 すこし視界が滲むけど、先生を正面から見続けて続ける。

「できないと怒られるし、怒られるともっとできないし。本当は辞めたかったけど、お母さん忙しそうだったし、中々言えなくてさ。気付いたらもう三年生で。今更辞めるわけにもいかなくて。でも、志望校も決めて頑張ろうって思い直したんだ。でも、結局ダメでさ。滑り止めでここは受かったんだけど、ショックは強くて。あんなに頑張ったのにって」

 先生は難しい表情をしていた。きっと、なんて声をかければ、なんて慰めればいいか、悩んでるんだろう。その表情だけで、優しいなって思う。

「本当はね、お母さんに一緒にいて欲しかったんだけど、患畜の入院で忙しかったみたいで。お母さん、全然帰ってこなくて。帰ってきても深夜とかでさ。話す時間、無くて」

 いよいよ涙も堪えきれなくなってきた。

「でも高校では頑張ろうって、思ったんだけど。ようやくお母さんと話せた時、『塾やめる?』って。お母さん、あたしを獣医にするの諦めたみたいで。悲しくて。それで家、飛び出して」

 涙を零しながらあたしは言葉を絞り出すように続けた。

「でも、お母さんは結局あたしのこと追いかけてこなくてさ。少し頭が冷えて家に戻ったら、冷たいご飯だけテーブルにあって。見放されたんだなって。だから、勉強するの、怖くてさ。もうする必要もないと思ったから、ああいう感じだった。ごめんね、先生」

 先生は、あたしの言葉を聞いて、深く目を閉じた。その後、ゆっくり目を開いて言った。

「……そうだな。不真面目なのは良くないことだし、そういう事情なら、なんて簡単に済ませるワケにもいかん。だけど、今は。今は結構やれてるじゃねえか。俺の話も真剣に聞くし、実際に難しい問題も難なく解けてる。獣医、なりたいか?」

「なりたい。……なれるかなあ」

 共通テストの過去問で化学の自信はついたけれど。他の教科だってあるし、そっちは自信がない。

「前も言ったが、まだ諦めるには早い時期だ。十分巻き返しは効く。夏浦がその気になれば、なんでもできる。勉強はまだ、怖いか?」

 先生は優しい声であたしに聞いた。

「怖い。……けど、前よりは怖くない。少しはやってみようかなって気には、なったかな」

「おう。しかし、獣医学科か……受験教科は、普通の大学準拠でいいのか……? ちょっと待ってろ。確か、準備室に受験案内の古いやつがあったはずだ。少し調べてみる」

 そう言うと、先生は足早に奥の扉に入って行った。少しして、分厚い本を持って先生は戻ってきた。そして本を広げて、先生は口を開いた。

「獣医学科……そうだな、例えばこの大学。私立になるが、受験教科は英語と数学。プラスで理科を何か1科目。良かった、化学も使えるな。化学は夏浦の武器だ、存分に使え。ちなみに、化学は赤点だったが、英語と数学はどうだった?」

「えっと……数学は赤点ギリギリ。英語は後藤先生がうるさくて起きてたから、平均よりちょっと下くらいかな」

 英語は元々得意だったのもあって、今のところはなんとかなってる。数学は習ってない範囲はさっぱり。分かる問題だけ解いて、ギリギリってところだ。

「なるほど。化学ベースの話になるが、夏浦の途中式を見る限り、数学もやればできるんじゃないかと思う。授業を聞いてるだけで平均点に近い点数を取れた辺り、英語も問題なさそうだ。ポテンシャルはある。……やるか?」

 先生は真剣で、それでいて少し心配そうな顔であたしを見つめた。

「うーん……頑張ってみよう、かな」

 あのテストのおかげで。もっと言えば先生のおかげで自信がついた。確かに教室には行きたくないけど、踏ん張る気になれた。

「その意気だ。何か問題があればまた言えよ。なるべく力にはなる」

「うん。あたし、もう一回やってみる」

 なんだか頭のもやが晴れた気がする。先生と一緒ならなんだってやれる。そんな気分だ。

「んじゃ、一応さっきの問題の時間が足りなかった部分を解いて、解説読んで、分からないことがあれば聞いてくれ」

「うん!」

 色々な悩みやしがらみが解けて、とても充実した時間だった。

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