N2-2
「おう、来たな」
次の日も、私は化学室に行った。ちょっと面倒くさかったけれど、先生の匂いを嗅いだらその気持ちも晴れた。懐かしい煙草の匂いと、新しい薬品の香り。昨日の授業の後に漫画の話をした時は、楽しかった。人と話すのって、久しぶりな気がした。先生は、大人だけどちょっと子どもっぽい。怒られるのが嫌なところとか、漫画が好きなところとか。先生や大人というもののイメージがちょっと変わった。こういう変な大人は、ちょっと好きかもしれない。
「うん。化学やる」
ゲイルウィンドは昨日帰りに読んだし、今日は何もない。
「その意気だ。教科書、持ってきたか?」
「一応。でも、先生のがいい」
機械の字は、読む気にならない。
「仕方ねえなあ。昨日言った通り、補習中くらいは貸してやる。その代わり、夏浦の教科書見せてくれ。教科書の内容はある程度把握してるが、一応な」
「……先生って、もしかしてすごい?」
一つ、すごいかもしれないことに、気付いた。
「というと?」
「昨日は、教科書見ないで授業したんでしょ? それって、すごい」
どれだけ努力したら、教科書が頭にスッポリ入るんだろう。きっと、それは大変だ。
「あー……まあ、一応これでも教師だからな。補習授業くらいなら教科書なしでもそれなりにこなせるさ。だが、少しばかり不親切な授業になっちまう。できれば、教科書確認しながらやりたい」
先生は私の教科書を受け取るために手を差し出して言った。
「分かった。はい、教科書」
親切な授業の方が、私にとってもいいはず。
「サンキュー。ほれ、俺のだ」
先生は昨日と同じように教科書を渡してくれた。
「その通り。んじゃ、授業始めるぜ」
腕まくりをして先生は授業を始めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「先生、これありがと。見辛いけど、普通の教科書見るより分かる」
授業が終わって、先生と教科書を交換した。
「夏浦も、教科書をノートにする勉強法が合ってるのかもしれねえな」
「教科書って、文字書いてもいいの?」
落書きして怒られてからは、あまり教科書に書き込んだことはない。
「関係ない落書きはどうかと思うが、関係ある事を書き込む分にはむしろ褒められることだと思うぜ。事実、教師である俺がしてるんだ。生徒に同じことをするな、なんつーのは言えないだろ」
確かに、先生がやってることの真似をして怒られるのは、おかしいかも。
「なるほど。じゃあ、私もやる。先生、もっかい教科書貸して」
「ん? 別に構わんが……」
差し出された教科書を開いて、自分の教科書も開く。今日習った範囲のページに先生のメモを書き写した。
「先生、これってどういう意味?」
途中で、分からないメモについて聞いた。
「これか? この式はだな──」
授業は終わったのに、先生は丁寧に教えてくれた。この人はきっと、いい人だ。他のヒトとは違う。
「っつーワケだ。理解できたか?」
先生は、手についたチョークの粉を払って言った。
「うん。じゃあ、こっちは?」
「あー、そうだな。明日教える」
「……面倒くさくなった?」
先生は窓の外を眺めて言った。やっぱり、私なんかの相手は、嫌だったのかな。
「いや、そういうワケじゃねーんだが、時間が遅えからな。あまり遅くなると親御さんにも心配かける。今日のところは帰った方がいいと思っただけだよ」
「……別に、お母さんは仕事で帰ってこないし、大丈夫」
家に帰っても、誰もいない。
「家の事情は分かったが、それでも夜道を歩かすワケにもいかんしな。今日は帰れ。明日たっぷり教えてやる」
先生は少し笑って言った。
「分かった。楽しみにしてる」
「楽しみ? 勉強、嫌いじゃなかったのか」
先生は意外、という顔をした。
「勉強は嫌いだけど、先生の補習は好きかも。手で書いた文字ならたくさんあっても読めるし」
それに、授業も丁寧だ。
「……なるほど。ま、生徒が自分の授業を好きっつってくれるのはありがてえこった。こっちもやった甲斐がある」
今度は分かりやすく笑う先生。
「先生は、なんで私に補習しようと思ったの? テキトー教師、なんでしょ?」
わざわざ私なんかのために、補習を開くなんていうのは、面倒くさそうだけど。
「んー、そうだな。正直に言えば、最初は仕方なくだよな。自分の受け持つ生徒が赤点取ると、教師っつーのは怒られるんだよ。後はまあ、夏浦とはこないだ話をしたしな。興味があった。そんなトコだ」
悪びれもせず先生は言った。こういう裏表がないところ、好きかも。
「ふうん。興味、あったんだ……」
すごく、意外。私に興味があるなんて、珍しい。
「おう。さーて帰るぞ。夏浦も電車だったよな?」
「うん。も、ってことは先生も?」
「ああ。今日はもう特にやることもねえし、俺も帰る。一緒に行くか?」
「うん。行く」
頷いて、荷物をまとめた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「先生、変わってるよね」
学校からの帰り道。なんとなく口を開いた。
「そうか?」
「うん。大人なのに子供みたいなこと言うし、私なんかに構うし」
とても変。
「そう見えるか。ま、ガキっぽいっつーのは否定できん。そういう言動をした。だが……夏浦に構うのが変、っつーのはどういうこった?」
「だって……皆あんまり私に興味ないみたいだし。皆がそうなのに先生だけ構うんだと、それは変って言うんじゃないの?」
変っていうのは、他のヒトとか違う、って意味のはず。
「それなら、他の奴らが変だ。夏浦と話したりするのが変とは決して思わねえぞ、俺は。一人の人間に興味持つのが変なんつー話は違う」
「……そうなんだ。じゃあ、皆本当は私に興味あるの?」
そうは、見えないんだけど。
「多い少ないの差はあると思うが……全くない、ってヤツはそういねえんじゃねえかと思うぞ。人間、大抵は他の人間に少しは興味あるってモンだ」
「私無いよ」
そうなると、私が変なのかな。
「本当に?」
「うん」
ヒトに興味は無い。
「俺にはあるんじゃねえのか?」
「……確かに、ある。でも、それは先生がちょっと特別なだけ」
先生は人だから。
「ふーむ。まあ、一部の人間にだけ興味を持つヤツもいるか。だが、夏浦も他人への興味が0じゃねえってワケだ。0とちょっとでもあるっつーのは大きく違う」
「そうなんだ」
「ああ。んじゃ、今日はお疲れさん。じゃあな」
先生は改札に定期をかざして駅の奥へ消えていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「うし、来たな。今日で補習はラストだ」
放課後。化学室に入ると、先生は既に準備をしていた。
「……そっか」
結構先生のこと、気に入ってきたんだけどな。
「んな悲しそうな顔すんな。別に、補習が無いときちゃいかんってワケでもねえ。来たけりゃこれからも来ていい」
先生は、少し笑って言った。いつも仏頂面の先生だけど、一週間毎日放課後教わったら、細かい表情の変化も分かるようになった。
「ホント!?」
すっごく嬉しい。
「ああ。とりあえずは授業だ。今日はラジオアイソトープについて解説する。質量数と原子番号についてはもうやったよな?」
「うん。原子の重さとどの原子か、っていう番号」
最初の方にやった。
「その通り。んで、大体の場合コイツらは変わらないんだが、勝手に変わるヤツがいる」
「勝手に?」
変な原子もあるものだ。
「ああ。時間経過で質量数が減ったりする。これが、ラジオアイソトープ。んで、これの性質が面白いんだ」
「面白い性質」
面白い性質ってなんだろう。ちょっと、興味が湧く。
「コイツらは基本的に外の環境に関わらず、一定の時間で一定割合変化する。ラジオアイソトープが減る、とも言えるな」
「それのどこが面白いの?」
どうでもいい気がする。
「結論から言うとだな、木製のものがいつ頃作られたものなのか分かったりする」
「え、なんで?」
今までの話と繋がりが見えない。
「空気中には質量数14の炭素が常に一定割合存在する。コイツはラジオアイソトープだ」
「うん」
「んでもって、植物は二酸化炭素を吸収する。すると、生きてる植物の中には継続的に14の炭素が入ってくるわけだ。ここで問題。その植物が死んだとき、14の炭素は入ってくるか?」
「死んだら二酸化炭素は入ってこないし……炭素も入ってこない」
死んだら、空気と何かやりとりはしないはず。
「その通り。んで、ラジオアイソトープは勝手に減る。じゃあ、植物の中の14炭素は?」
「……減る?」
「そしてその減り方はどんな状況でも一定。となると?」
「えーと……あ。どのくらい減ったかでその植物がいつ死んだか分かっちゃう」
「ご名答。優秀じゃねえか。当然、歴史的な時間の見方だと、棺に使われる木なんてのは使われる直前に死ぬワケだ。つまりは木の中の14炭素を調べて計算するだけで、その棺がいつ頃作られたか分かるっつーワケ。な? 結構おもしれーだろ?」
優秀。私に似合わない言葉を先生は使った。
「うん。すごい便利」
頷いて、答えた。
「というのがラジオアイソトープ。少なくとも概念は理解できたはずだ」
「化学って、役に立ってるんだね」
なんのためにあるのか、よく分かってなかった。
「そらそうだ。何も学生の頭の良さを計るためだけのモンじゃねえ。高校生に化学を教えるのは未来の化学研究者を育てる意味もある。単純に化学知識が仕事に必要な職種もあるしな」
先生は人差し指を立てて言った。
「例えばどんな?」
化学が仕事で必要になることなんて、あるんだ。
「そうだな……身近なトコだと、薬剤師とかだろ。薬は化学でできてるからな」
「ふーん。お母さんも、化学勉強したのかな」
それと、パパも。
「何の仕事してるんだ?」
「獣医」
獣医はお薬を自分で処方するんだ、って昔パパも言ってた。
「そいつはすげえな。それならしてるだろうよ」
先生は、頷いて言った。そうなんだ。やっぱり、パパとお母さんは、すごいなあ。私とは大違い。
「へえ。……ねえ、先生?」
ふと疑問が湧いてきて、聞いてみる。
「なんだ?」
不思議そうな顔で先生は聞き返した。
「私って、獣医になれるかな?」
本当は、なった方がいいんだろうけど。そもそもなれないのなら諦めもつくし。
「うーん……やってやれねえことは無いと思うぞ。今の成績は散々だが、まだ高校一年の一学期だ。巻き返しはきく。それに、夏浦は勉強すれば結構スジがいい。だからまあ、頑張り次第だが、全然いけると思うぞ」
先生は笑って言った。
「……そっか」
嬉しいような嬉しくないような。なんだか複雑な気持ち。
「じゃ、先生。これからも化学教えて」
とりあえず、化学は結構面白い。お得を掴もう。
「おう、任せとけ」
先生は、はっきりと分かる笑みを浮かべた。




