N2-1
「ふう……」
HRが終わった。今はテスト返しの季節。だけどそれは重要じゃない。今日はシャンプが出る曜日。ちょっと鼻歌でも歌いたくなる。
「よう、ご機嫌じゃねえか」
椅子に座って、足をぶらぶらさせていると、五十嵐先生が手を上げて挨拶をしてきた。
「あ、五十嵐先生。何の用?」
「夏浦、お前テスト赤点だったろ?」
「まあ。単位もらえない?」
化学はバッチリ赤点だった。授業を全く聞いていないのだから、当然。まあ、聞いたところでできる気もしないし、だから聞いてないんだけど。もし単位が出ないんだったら……まあいいか。
「危機感がねえなあ。そうだ、このままじゃ落単必至。進級できねえぞ。そうなったら留年か退学。いいのか?」
先生は、少し脅すような口ぶりで言った。あんまり怖くないけど。
「そしたらフリーターする」
高校通わなくていい理由ができるのなら、願ったりかなったりだ。勉強なんてものからは早く解放されたい。
「ホントに危機感0かよ……ま、とりあえず補習っつーことだ。今日から一週間。化学室に来い」
「……勉強しろって言うヒト、嫌い」
嫌な気分。結構いい人かと思ったけど、違ったかな。
「あー……そうだな。夏浦、ラクは好きか?」
先生は、急に話題を変えた。
なんの話だろう。
「それは好き」
ラクできるに越したことは無い。
「じゃあ金は欲しいか?」
またしても話題を変える先生。変なヒトだ。
「漫画いっぱい買いたい。美味しいものも食べたい」
お母さんの料理も嫌いじゃないけど、レンジでチンするのはなんだか飽きてしまったし。小さい頃みたいにレストランとか行ってみたい。
「欲しいんだな。んじゃあ、そこそこラクして金稼ぎたいか?」
「うん。一番いい」
ラクでお金がもらえるなら最高だ。誰だってそう思うはず。
「それなら勉強は得だ」
「……得?」
勉強はしなきゃいけないもの。やって当たり前。そう言われてきたけど……得なんて表現は初めて。
「おう。中卒フリーターっつーのは苦労する。安い給料でこき使われるからな。一方で、大卒の人間っつーのはまあ……そいつらを使う側だったりするわけだ。指示する側で、肉体的な疲労は少ない。給料は圧倒的にいい。どっちにもなれるんなら、どっちがいい?」
「んー。そりゃあ、お給料良くて疲れない方がいい、です」
当たり前のことを答えた。
「だろ? んで、そこに就けるかどうかっつーのは、ここから数年の努力で大体決まるわけだ。どーせどっかで努力するのが人生。それなら努力するとお得な期間に努力する方が賢いとは思わねえか?」
先生は不思議な言い回しをした。
「どこかで努力はしなきゃダメ?」
できれば、したくない。
「そうだな。どっかしらで頑張るだろうよ」
先生は、頷いて言った。
「後で努力するのは損?」
私が聞くと、
「ああ損だ。大損もいいとこ。今やるのはお得。どっちでやる?」
先生は、こう答えた。そうなんだ。それなら……
「じゃあ、今やる」
立ち上がって、言った。お得っていうのはいい言葉だ。パパも好きだったし。
「よく言った。とりあえず、化学室に来い。出席して真面目にやれば単位はなんとかしてやる」
先生はついて来いと手で示して歩き始める。
「ありがと、先生」
テキトーなヒトだと思ってたけど、意外と優しい?
「おう、どういたしまして。あ、今日何か用事はあったりしないよな?」
「んー……あ、シャンプが出る日」
やっぱちょっと帰りたくなってきた。折角楽しみにしてたのに。
「それは漫画雑誌のシャンプの事か?」
「うん」
私が頷くと、
「今の連載だと何が面白いんだ?」
先生なのに変な事を聞いてきた。
「えっと、ゲイルウィンド。風のお話でね」
最近の漫画の中だと、一番面白い。
「じゃあ、補習が終わった後今度は夏浦が俺に教えてくれ」
「先生に……教える?」
変な響きだ。
「おう。最近の漫画には疎くてな。生徒との話題になるなら、教師にとっちゃ勉強の一つさ」
「先生って、なんでも知ってるんだと思ってた」
少なくとも、私に教えて欲しいなんて言う先生は、初めて。やっぱり変なヒト。
「んなワケあるかよ。そんなヤツがいたら人間じゃねえ。人間っつーのは、知らねえもんばっかで、日々いろーんな事を新しく知って生きてんだ。知識をアップデートしなくなったら、そりゃもう化石になりかけだな」
「化石……フォッシルブレイブ?」
連想した単語を、そのまま口にした。
「あー、そいつは知ってるぜ。俺がガキん頃に流行ったヤツだな。むしろ、よく知ってるな」
「パパが好きだったから。私も好きな漫画」
今も、家の本棚にある。ページをめくるとパパの匂いがして、好き。
「アレは面白えよなあ。そのー……ゲイルウィンド?っつーのは、フォッシルブレイブと比べると、どうだ?」
「うーん。50点」
「……低いな」
先生は、低い声で呟いた。
「フォッシルブレイブが、特別なだけ。ゲイルウィンドも、面白い」
「ふむ……まあ不朽の名作、なんて評価の作品だからなあ。真新しい漫画じゃ少々荷が重いか」
「そういうこと」
あの漫画は、特別だ。
「まあ、漫画の話もいいがまずは化学をやらなくちゃな。ここが化学室。俺ァ大体ここにいる」
先生が立ち止まった。化学室って言うだけあって、色んなガラス器具が並んでる部屋だ。
「そうなんだ。先生の部屋?」
「まあ、そうだな。そう言ってもいい。ここが学校じゃ一番安心できる場所さ」
「他の場所だと安心できないの?」
先生は、変な事を言った。
「ああ。他のセンセーがこえーからなあ」
「怖いの? 先生なのに先生が?」
ますます、変な事を言う先生。私の中での変なヒト度が大きく上がった。
「俺は知っての通り適当な教師だからなあ。結構、怒られるんだよ」
「怒られるんだ……やっぱ、先生も嫌なの?」
変なの。なんだか、子どもみたい。
「好きなわけねェだろうよ。いくつになっても人に怒られるなんつーのはできればしたくねえ」
「先生……お得な努力、しなかったの?」
お得な努力を勧める割には、苦労してそうな言い方だ。
「ちょっとサボった。んで、歩く道を間違えた。夏浦は間違えるなよ。間違えると、大損だ」
「それは……嫌だ」
折角努力するなら、一番ラクな道がいい。
「ま、そもそも道を歩くチケットを手に入れるためにひとまず努力しなきゃいけねえっつーワケだ。入んな」
中に入ると、ツンとくる変な匂いがした。なんだろう。先生の匂いに近い。
「先生の匂いがする。何の匂い?」
「ん? そうだな……薬品の匂いだろ。しかし、自分で言うのも何だが、俺の匂いなんつーのは、煙草がメインだと思うんだが……よく分かったな」
「うん。鼻、いいんだ」
子供の頃はお母さんの作ってる料理を匂いだけで当てていた。
「いいじゃねえか。んじゃ、そこ座ってくれ。んでもって教科書とノート、出してくれ」
「教科書は……家にある」
今日はテスト返しだけだし、そもそも化学はない日。鞄の中にはない。
「あー、まあ、こればっかりは急に言った俺の責任か。今日のトコは俺の教科書貸してやる。明日からは持って来いよ?」
先生は鞄から教科書を出して渡してくれた。
「分かった。……おお、ボロボロ。それに、メモでいっぱい」
渡された教科書はすごく使い古された教科書で、開くとちょっと汚い字でよく分からないメモが無数に書き込まれていた。
「悪いな、高校の時に教科書をノートにしろっつわれて以来、教科書に書き込んでんだ。見辛いか?」
「うん、見辛い」
結構元の印刷と重なっている文字も多くて、読みづらい。
「でも……綺麗な教科書見てるより楽しいかも。機械の字って私苦手なんだ。見てるとクラクラする。手で書いた文字の方が好き」
先生の文字で書かれている内容は、多分教科書の内容をかみ砕いたもの。そんな内容の手で書かれた文字を見ていると、書いてあることが少し伝わってくる。機械の字がいっぱいあると、そもそも読む気にならない。
「……そうか。そっちのがいいなら、補習中くらいは貸してやるよ。んじゃあ、補習授業始めるぞ」
先生は、腕をまくると、チョークを手に取って黒板の前に立った。
ちゃんと五十嵐先生の授業を聞いたのは初めてだったけど、手書きの教科書を見て受けたのもあって、思ってたより分かりやすかった。




