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先生とあたしの恋愛化学方程式  作者: 角 秋也


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C12H22O11

「うん、うん。頑張るね。大丈夫、いっぱい勉強したから。じゃあ、お母さんも応援してね」

 あれから一年と少し。あたしは受験当日を迎えていた。

 お母さんと電話し、受験票の番号に合う席に着き、何度も確認した筆記用具を机に用意し、腕時計も置いた。この腕時計はお父さんの形見で、お母さんが試験直前に預けてくれた。

 模試の結果はA判定。よっぽどのミスをしない限り受かる実力を手に入れた。あとは力を出し切るのみ。試験開始の合図と同時に試験用紙をめくった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


「やったお母さん、受かったよ!」

 自宅のパソコンでお母さんと当落を確認した。結果は合格。とても嬉しかった。先生に、伝えたいな。

「やったわね! でも、獣医学科は大変よ。これからも頑張りなさい」

「はーい。それじゃあ、学校行ってくる!」

 先生に伝えられない。それだけがささくれのように心に引っ掛かったままあたしは家を後にした。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


──プルルル……

「やっぱり、駄目かぁ……」

 先生に謝りたくて、一言お祝いの言葉が欲しくて、何度か電話をかけた。しかし応答はなく、あたしの中で諦めの雰囲気が高まっていた。

『今までごめんなさい、さようなら』

 先生との思い出は、一生あたしの中からは消えないだろう。でも、いくらなんでも甘え過ぎた。職場を辞めざるを得ない状況にも追い込んでしまって、迷惑もかけた。独り立ちをするいい機会かもしれない。そう思い、最後の別れを決意してメッセージを送り、相馬さんの連絡先を消した。

「はああ。山野君には悪いことしちゃったな」

 ベッドに飛び込んで天井を見つめた。でも、本気で好きじゃないのに付き合うのも誠実じゃないし、断ったのは間違いじゃなかった……と思う。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


──ピンポーンピンポーン

「ううん、何……?」

 インターフォンの連打で目が覚めた。いつの間にやら寝てしまっていたらしい。

 それにしてもこんなに連打するなんて誰だろう。無作法な人もいたものだ。

 眠気の残った目で玄関のチェーンをかけて扉を開いた。するとそこにいたのは、

「せ、先生!?」

 思ってもいない来客に変な声を出してしまった。

「はあ……インターフォン程度で起きるって事は、変な物飲んじゃあいなさそうだな」

 安心した顔の相馬さん。状況がよく分からない。

「えっと、どうしてウチに?」

 疑問を素直に口に出すと、

「そりゃあ、お前のことを心配してだよ。自殺でもしかねないメッセージの後音信不通になられちゃ、いくらなんでも心配する」

 乱れた息を整えながら先生は言った。

「先生、メッセージ見てたんだ」

 嬉しい。

「……たまたまさ。お前が無事ならそれでいい。んじゃあ俺はこれで」

「待って!」

 Uターンして帰ろうとする先生を慌てて呼び止めた。

「……なんだよ」

 不機嫌そうに答える先生。

「その、さ。今までの事、ちゃんと謝りたいから。お話、させてくれない?」

 いざ先生を前にすると少し言い辛かったが、最後のお願いをした。

「むう……」

 先生は腕を組んでしばらく悩んでから、

「分かった。中、入れてくれ。汗が冷えて寒い」

 不服そうに言った。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


「えっと、どうぞ」

 居間に先生を通してお茶を差し出した。

「ありがとう。……で、謝るってのは、何をだ?」

 相変わらず不機嫌そうな先生。

「えっと、色々。まずは、あたしをちゃんとした道に引き戻してくれてありがとう。それと、職場辞めさせちゃってごめんなさい。それと──」

 あたしが話していると、

「本題はそこじゃねえんじゃねえのか?」

 眉間に皺を寄せて先生は言った。

「……うん。その、どこから話そうかな」

「今日は予定はない。ゆっくり話せ」

 お茶を置いて先生は腕を組んだ。

「あの日の電話の後しばらくしてさ。その、告白されて」

 好きな人の前でこんな話題は言い辛いが、一生懸命口にした。

「……ふむ」

 少し眉を動かして先生は言った。

「それで、好きな所について聞いたんだ。そしたら、亡くなった妹さんに似てるからって。あたし、すごく嫌な気分になってさ。その場で断って。で、気付いたんだ。あたしも同じことしちゃってたってこと。だから、それを謝りたくて」

 あたしが頭を下げると、

「……そうだな。それで?」

 先生は続きを促した。

「そ、それでって?」

 続きなんて無いのに。

「……俺だってな。夏浦のことが大切だ。それこそ、あんなメッセージ一つで冬に汗かいてまで駆けつけてしまうくらいには。自分でも驚いたさ。こんなにも俺の中でお前の存在が大きいことに」

 あたしの目を見据えて先生は言った。

「そ、そうなんだ……ありがと……」

「俺もあの時は大人げなかった。悪かったと思う。だが、あの関係のままというのはあまりに不健全だったと思うし、一旦別れたことに後悔はねえ」

「大人げなくてもいいよ。むしろ、その方が嬉しい。大人ぶって距離を置かれるのなんて、すっごく嫌。……というか、一旦?」

 先生の言葉の端ににじんで出た隠された意図に気付いて心が上向いた。

「……なんだ、嫌か」

 不機嫌そうに先生はまたそっぽを向いた。

「うん。そうだね、嫌」

「そうだろ、だから……って、え?」

 拍子抜けした先生の声。

「ちゃんと言葉にして言ってくれなきゃ、嫌。先生の方から」

 あたしが言うと、先生は照れくさそうに頭を掻きながら口を開いた。

「あー、その、なんだ。夏浦、付き合ってくれ。お前の事がその……好きだ」

「うん! あたしも、先生の事、だーい好き!」

 言葉と共に先生に抱き着くと、

「参ったな……もう、俺に父親の影を見ちゃいないってことでいいんだよな?」

 拒絶せずにあたしにされるがまま先生は言った。

 この温もりがもう遠くへ行かないことが分かって、とても嬉しい。

「もちろん! 好きな所いっぱい言えるよ! いつもは仏頂面なのに時折見せる笑顔とか──」

「あーあー! やめてくれ照れくさい! おっさんにその話題は糖度が高すぎる! あー、そんなことよりだな」

 何かを払うように手を振って目を瞑ってから少し真剣そうな顔で先生は言った。

「一つ変えよう。俺の名前は五十嵐 相馬っつーんだ。言いたいことは分かるな?」

 含みを持たせた言い方で先生、相馬さんは言った。

「ええと……よ、よろしく、相馬さん!」

 あたしが勇気を出して言うと、

「おう。よろしく玲奈」

 相馬さんに初めて呼んでもらった下の名前はとても嬉しいものだった。

「そっか。でも、大好きだよ、相馬さん。あたし、相馬さんになら何されたって構わないし、なんでもする!」

 あたしが思いを告げると、

「お前なあ、自分で何言ってるか分かってんのか?」

 真面目な顔になって相馬さんは言った。

「……うん」

 顔が熱い。でも、これは本心だから。

「あー……そうだな、目ェ瞑れ」

 相馬は意を決したように言った。

「わ、分かった」

 目を瞑って、しやすいように気持ち上を向いた。しばらくして、少しかさついた唇の感触を鼻に感じた。

「……意気地なし」

 ここは、唇にする場面でしょ。

「うるせえ。ハタチにもなってない小娘に手なんか出せるか!」

 またしても顔を反らして言う相馬さん。

「やっぱり子ども扱い。先生、あたしの事好きじゃないんだ」

 もちろん、本気の言葉じゃない。半分は冗談だ。

 すると相馬さんはあたしの言葉に、

「好きだから手ェ出さねんだろ! 大事だし、好きだ! だからこそ待ってんだよ!」

 と言った。

「……そっか」

 あたしが幸福感に包まれている中沈黙がしばらく場を支配した。

 しばらく幸せな沈黙が続いた後、ドアがノックされた。

「ぬあっ!?」

 絵にかいたような慌て方をする相馬。

「落ち着いてよ。多分お母さんだけど、寛容な人だから」

 あたしがお帰りと言うと、お母さんがゆっくりと入ってきた。そしてすぐに、

「五十嵐先生、でしたっけ? 娘の事、ありがとうございます」

 深々とお辞儀をして言った。

 それに対して相馬は立ち上がり

「礼を言われるほどの事は」

 と言った。

「いえ。玲奈が立ち直ったのも、無事に大学に受かったのも、全ては先生のお陰です。先生がいらっしゃなかったらこうはなってないですから」

 にこやかに告げるお母さん。

「まあ……否定はしません。そこを否定するのは違いますし。それでその……一応、玲奈さんとお付き合いすることになったのですけれど……親御さんとしては、あまりいい気分ではないのでは? こんな、冴えない30過ぎの男です。それが、こんなに若い玲奈さんとというのは」

 困った顔で相馬は言った。

「まあ、そうですね。歳だけ見れば、素直に頷けないかもしれないです。でも、そんな安易な関係じゃないでしょう? 大事だし、好きなんでしょう? それなら、私は文句は言いませんよ」

 にこりと笑って言うお母さん。

「……聞いてたんですか」

「ごめんなさい、盗み聞きするつもりではなかったんですけれどね。聞こえてきてしまって。これからも玲奈の事を、よろしくお願いします」

 頭を下げてお母さんは部屋を出て行った。

 相馬さんの顔は不機嫌そうで、真っ赤になっていた。

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