C2H5OH
「ああそうだ。今日から毎週水曜に数学の特講を行うので、参加希望の生徒は403教室に来るように。偏差値の高い大学を狙うんなら必須と思ってくれて構わない。それでは今日の授業はこれで」
新年度になった数学の授業終わり、金山先生がアナウンスをして立ち去った。数学か。今のところ使う教科の中では一番の苦手教科だし、受けてみようかな。
◇◆◇◆◇◆◇◆
放課後、指定の教室に向かおうとすると、山野君が話しかけてきた。
「なあ、夏浦さんも特講受けるのか?」
「うん。山野君も?」
あたしが聞き返すと、
「ああ。数学科、目指してるんだ」
山野君はゆっくりと頷いた。
「へえ、すごい。部活は大丈夫なの?」
確か柔道部だったはず。
「週に一回なら抜けても大丈夫。許可も取った」
「ならよかった。一緒に頑張ろうね!」
「ああ」
山野君は再び深く頷いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「いやー、授業で扱う内容よりよっぽど難しかったね!」
特講が終わり、帰り道が同じという事で山野君と一緒に駅へ向かっていた。
「そうだな、ためになる」
深く頷く山野君。
「でも、やっぱり数学科目指すだけあって理解が早かったね! あたしが悩んでいるうちにスラスラ解いてたもん」
「数学は、まあ」
また静かに頷く山野君。
「それじゃあまた明日! じゃあね!」
あたしはそれに手を振りながら電車に乗り込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「今日ね、数学の特講を金山先生が開いてくれてさ」
今日は月に一度の電話の日。先生と電話していた。
「あー、あの人、真面目だからなあ。どうだった?」
「難しかったなあ。でもまあ、ついていけない程じゃないし、大丈夫! 金山先生、教えるの上手いし」
あたしが率直な感想を述べると、
「そりゃあ良かった。あー、ところでなんだが」
先生は若干言い辛そうに話を切り出した。
「どうしたの?」
「いや、なんだ。その、なんで俺なのか、っていう事だよ。夏浦がよく懐いてくれていること自体は悪い気しねえが、別に俺じゃなくてもいいだろうよ。教師限定でも、俺より若い教員はいるし、生徒ならもっと数がいる。その中でなんで俺なんか、って話だ」
不思議な質問を先生は投げかけてきた。
「そりゃあ、あたしを独りの世界から救い出してくれたからだよ! それに、パパの事を思い出すし、それに──」
「それだよ」
先生は少し険悪な声で言った。
「それがお前と付き合うのをためらう一番の理由の一つだ。俺はお前のパパじゃねえ。そんな気持ちでいられるんじゃ気分が悪い。もうこういうことはできねえ。それじゃあな」
それだけ告げると先生は一方的に電話を切った。
「先生……」
あたしは、泣きそうだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「……おはよ、山野君」
あれから結局、昨日はほとんど眠れなかった。好きな人に別の好きな人の影を見るというのは、そんなに駄目なことなのだろうか。
それはそれとして、校門前でたまたま会った山野君に挨拶をした。
「おはよう。……目、腫れてるぞ」
泣きながら夜を過ごしたせいだろうか。目ざとく山野君はそれを指摘した。
「え、き、気のせいじゃないかな……」
我ながら程度の低い誤魔化し方だと思う。それでも隠したい意図は伝わったようで。
「……そうかもな」
山野君は相変わらず静かに答え自分の教室へ向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「ありがとうございましたー」
特講の後、先生に礼をして教室を後にしようとすると、山野君に呼び止められた。
「なあ、その……」
「な、何?」
泣いていたのがバレていた手前、なんだか気恥ずかしく、声が上ずってしまった。
「夏浦さんさえよければなんだが……どこかで特講の復習、しないか?」
「あ、うん、いいよ! どこ行こっか?」
内心泣いていたことを追及されなかったことにホッとしつつOKを出した。
「じゃあ、行こうぜ」
◇◆◇◆◇◆◇◆
あれから数ヶ月。2学期も終盤。山野君との特講後の復習は習慣化して、毎週水曜日は山野君と過ごす時間が長くなっていた。
「じゃあ、行くか」
「うん!」
今日もまた、いつもの空き教室に向かった。山野君はいつもと違いこちらを見てはそっぽを向いたり、なんだか挙動不審。席についてからもそれは変わらず、教科書も開かないでキョロキョロしている。
「ねえ、どうかした?」
痺れをきらしてあたしが聞くと、
「夏浦さん!」
山野君は普段の物静かなイメージとは異なる大きな声を突然出した。
「えっ!? はい!」
思わず身構えると、
「いや、すまん。大事なことを、伝えたくて」
今度は一転ボソボソと言う山野君。
「大事なこと?」
なんだろう。思い当たる節がないあたしが思案していると、
「その、好きだ! 付き合ってくれ!」
大きく頭を下げて山野君は言った。
「は、ふぇっ!? す、好きって、あたしのことが!?」
告白されたのなんて、初めてだ。驚きで頭が真っ白になった。
「……それ以外いないだろ。それでその……どうだ、答えは?」
山野君の言葉で意識を目の前に戻した。
今も先生の事は大好きだけれど、あれから連絡は取ってないし、もう縁が切れちゃった、ってコトだよね……
「……山野君は、あたしなんかのどこを?」
気になった点を聞いてみた。すると、
「そうだな……俺、妹がいたんだけど、俺が高校上がる少し前に交通事故で亡くなって、さ。そしたら夏浦さんがそっくりで。驚いた。それで──」
ああ、こういうことだったんだ。
「それなら、ごめんなさい。山野君とは付き合えない。あたし、好きな人がいるんだ。で、同じようにもういない人の影を見てて。それで突き放されちゃって。でも、ようやくその気持ちが分かった」
先生も、同じ気持ちだったんだろう。
「自分を通して別の人を愛されるなんてのは、すごくその……不快でさ。だから、ごめんなさい。でも山野君、いい人だからそのうちいい相手が見つかるよ。それじゃあ今日はこれで」
教科書を閉じて教室を後にした。
山野君の顔は、見られなかった。




