2Mg+O2
「はぁ……」
日曜日の早朝。結局、駅まで来てしまった。そして、ここまで来て尚尻込みしているあたしがいる。だって、木村が悪いとはいえ、あたしが原因であることに違いはない。そんなあたしがへらへらと学校で会うなんて……それはできない。そんな事を考えつつ駅までは来てしまったのだから、未練たらたらもいいとこだ。ため息だって出る。それにしても本当に、
「どうしようかなぁ……」
先生には会いたい。これは、本当。自分の気持ちに嘘はつけない。でも、だからといって学校で会うなんて図々しい真似はできない。これも、本当。会いたいけれど会うことはできない、というのが今の状況だ。でもこれは、積極的に会うことはできないというだけ。偶然。そう、偶然なら許されたりはしないかな。
言い訳がましく色々考える。そして出た結論はというと、
「来るわけないけど……」
いつかの喫煙所。もしかしたら、来るかもしれない。来なかったならば、仕方ない。そんな心持ちで待ち始めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「……」
ぽつりぽつりと、たまに煙草を吸う人が現れては消えていく。暗いガード下の喫煙所に制服を着ているあたしはどう見ても場違いで。ジロジロ見られたりもした。正直、とても居づらかったけど。先生と会えるかもしれない。その一心で耐え続けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「はぁ……」
夕方まで待って。結局、先生は来なかった。そろそろ日も落ちてきたし、帰らなくちゃ……
なんて考えていたら、小太りのおじさんがやってきた。
「……君さ、昼もここいたよね?」
煙草を取り出しながらおじさんが声をかけてきた。
「ッ!? え、えと……そう、ですね……」
突然知らないおじさんに声をかけられて、慌てて答えた。
「お金、無いの?」
おじさんはあたしの体を無遠慮にジロジロ眺めながら囁くように言った。
「え? 別に、そんなには……」
突然なんでお金の話?と、クエスチョンマークを浮かべながら答えた。
「嘘つかないでもいいよ。いくら?」
あたしにジリジリと近づきつつおじさんは言う。
「え、えっと……」
今更、理解した。遅すぎる理解。これは、本当に先生の言っていた通りの事が起こってしまったかもしれない。
「今更怖気づかないでさあ。制服で立ってる辺りからして、慣れてるんでしょ? 君、可愛いし。それなりに払えるよ? 俺」
尚もジリジリと近づきながらおじさんは言う。
あたしにとってこのおじさんは完全に恐怖の対象に変化していた。怖い。怖い。怖い。
そのまま後ずさっていると壁に背中がくっついた。おじさんはそのままゆっくりと近づきあたしの胸に手を伸ばし
「こ、来ないで……あたし、そういうんじゃないですから……」
涙目であたしがか細く呟いた時、
「あー、悪いな。そいつは俺と待ち合わせしててよ」
懐かしい、渇望していた声が。振り返ると、そこには五十嵐先生がいた。
「せ──」
先生、と言おうとすると、煙草臭い指で口を塞がれた。
「おうおう。行くぞ山田」
謎の名前で呼ばれてそのまま半ば無理矢理に連れていかれた。
ズルズルと引きずられて表通りまで連れてこられて。
「せ、先生?」
ようやく手が外れて言葉を話せるようになって、疑問を込めて先生を呼ぶ。
「……もう少し歩くぞ」
先生はとても怒った表情と声色で言った。
「う、うん」
先生の迫力に気圧されて、それ以降口を開けぬまま先生に付いて行った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
表通りをしばらく歩いて、少し外れた人通りの少ないところで先生は止まった。
「おんッ前……! なあ!」
先生は今まで見たことがない程の表情で怒っていた。
「えっと……ご、ごめん、なさい……」
半分泣きべそをかきながらとりあえず謝った。
「お前、なんで怒られてるか分かるか?」
先生は怒りの表情を若干緩めてあたしを問いただした。
「えっと……その……あ、危ない場所にいた、から……?」
思い当たる原因をとりあえず口に出した。
「そうだ。あの道、通るなって、言ったよな? 俺な?」
緩まったとはいえ相変わらず眉間に深く皺を寄せたまま先生は尚もあたしを問いただした。
「う、うん……」
先生の圧に怯んだままあたしは答えた。
「……まあ、あそこにいた理由は察した。どうせ、俺が来ればいいとか考えてたんだろ? 山本先生と佐久間先生から俺が今日学校に来る事を知っちまった背の低い女生徒がいた、って話は聞いた」
全部、バレているらしい。
「う、うん……先生が木村に脅されて辞めたっていうのも、聞いた……あたしの、あたしのせいで……ごめんなさい」
観念して全部話した。そして、一番謝りたかった事も謝った。でも、それが余計先生の怒りを誘ったらしい。
「ンな事ァどうでもいい! 今はあんな場所にいたことを叱ってんだ!」
先生は緩めた勢いを再び強めてあたしに怒鳴った。
「うぇぁっ……ご、ごめんなさい……」
今度は完全に泣きべそをかきながらかろうじて謝った。
「何かあってからじゃ遅いつったよな!? 何かないと反省できねえのか!? 頭ン中お花畑なのか!?」
すごい剣幕で先生は叱った。
「ご、ごめんなさい……先生、そんな、そんなに怒鳴んないでよ……」
愛しい先生が今はとても怖い。
「……ううん。悪かった。つい、な。言葉も悪かった。すまねえ。……だがな」
先生は眉間の皺はそのままに咳ばらいを一つして、怒りの表情を難しい表情に変えて言った。
「本当に、あんな所にいたのは看過できん。事実、酷え目に遭う寸前だった。頼むから、もうあんな所に近寄らないって、誓ってくれ」
先生は、深刻そうな──いや、多分本当に深刻に考えている顔で言った。
「……うん、ごめんなさい。もう、近寄らない」
身に染みた。あんな目には、二度と遭いたくない。
「……よし。俺も、あんまり同じことばっかり言いたかねェ。この話はこれで終いだ」
先生は深く頷いて言った。その時、先生の顎から汗が垂れた。
今日は確かに暑いけれど、汗が垂れる程じゃないはず……
「……うん。あの、先生、暑いの? ハンカチ、いる?」
ポケットからハンカチを取り出しながら聞いた。
「──ン当に反省してんだか。汗はな、走ったからだよ」
先生は眉を怒らせて何か呟いた後、袖で汗を拭いながら言った。
「走ったって、ええと、会う前……? て事はもしかして、あたしがあそこにいたこと知って……?」
あたしが推測を呟くと、
「……さっきも言った通り、理科教員の連中から夏浦らしき生徒が俺が来ることを知ったらしいことを聞いたからよ。まさかと思って、走ったんだよ。悪いか」
先生は不機嫌そうに目を逸らして言った。
「……本当、先生って優しいね」
届かない存在なのが途方もなく悲しい。そう思うくらいに、先生の優しさを感じた。
「あのな、今はそんな話はしてねえぞ」
呆れたような口調で言う先生。ヘビースモーカーのおっさんを走らすな、なんてぼやいている。
「あの、あのね? 先生」
あたしは懇願するように言った。
「……なあ。俺の退職の理由知ってんなら、その先は言えねえはずだろ」
あたしの言葉の先を察したのか、不機嫌そうに眉を吊り上げて先生は言った。
「そう……そう、だよね……でも、だって……嫌なんだ、もん……」
先生を好きな気持ちと、それが成就しない事実が心に重くのしかかって、自然と涙が出てしまった。
「……泣かないでくれ。まるで俺が悪いみたいじゃねえか」
困ったように先生は言った。
「ごめん……でも……本当に、悲しくて、さ……ごめん、ごめん、なさい……頑張って、涙、止めるから……」
こうは言ったものの、溢れる涙は止められなくて。
「参ったな……」
先生はおろおろした様子で周りを見たりあたしを見たり、困ったように忙しなく目線を動かし始めた。
また、好きな人を困らせてる。悪いことをしてるな、って自覚はある。でも、今先生の頭の中はあたしだけ、なんて考えると少し嬉しい気持ちもあって。それ自体に後ろめたさもあって。
「その、ごめん、先生。あたしもう、帰るね。あの、大丈夫だから」
涙の枯れる気配のない顔を見られないように背けて、急いで立ち去ろうとした。すると、
「……待て」
先生があたしの腕を掴んだ。
先生の顔は見れないけど、多分、先生はきっと渋い顔をしている。責任感に染まった顔だ。優しいから。
「先生、あたし、ヤだ。先生と、離れたくない。別に、恋人とかじゃなくてもいいから。たださ、その、傍にいて、欲しいんだ。これは、ダメ、なのかな……」
先生の感触に、つい我儘を言ってしまった。こんなの、断られるだけなのに。もっと悲しくなる、だけなのに。
「……そうだなあ。確かに、恋人にはなれねェ。当然だ。立場も当然あるし、トシだって大きく違う。だがまあ、なんだ。連絡とるくらいなら、構わねえよ」
先生の言葉。この言葉を、信じられなかった。想像とあまりに違う反応に、思わず耳を疑った。
「え……ほ、本当……に?」
あたしは震える声で聞き返した。
「ああ。もう高校教師じゃねーしな。連絡くらいとっても、文句は言われんだろうさ」
またも、不機嫌そうに言う先生。
「あ、え……あ、ありが……とう……」
さっきまでとは違う種類の涙が次々と溢れ出てくる。
「お、おいおい……いい加減泣き止んでくれよ……」
先生が困ったように言った。
「ごめん、ごめんね……その、すごく嬉しくて……」
必死に涙を拭って言った。
「……ゆっくり待つから、自分のペースで感情を整えてくれ」
先生はあたしの頭を撫でながら言った。
「うん、うん……ありがとう、先生!」
やっと自分のものになった先生の手のひらの感触を噛みしめながらはっきりと言葉を口にした。
「こんなのは、コイツのためにならねェんだがなあ……」
先生が何か呟いたが、上手く聞き取れなかった。




