HNO3+3HCl-2
朝登校すると、奥村がすぐにあたしの近くに寄ってきた。
「ねえ、巡クンが中学の頃遊びまくってたって、本当!?」
本当、都合のいい。あんなことをしたのにもかかわらず、気になることがあれば悪びれもせず聞いてくる。まあ、放っておくと更に面倒になりそうだし適当に答えるか。
「……どうなんだろうね。あたし、あまり関りなかったから」
一応秘密と言われた手前、はぐらかしておいた。
奥村に正直に情報を与えるのがしゃくだった、というのもあるけれど。
「嘘つかないで! 有名な話って聞いたわよ! 校外の子とも何股もかけてたって話だし! 実際あたしの友達が付き合ってらしいもの!」
なるほど、もうネタは上がっていると。それなら仕方がない。
「そうだね、有名だったよ。それより、そろそろHR始まるし、座れば?」
あたしが促すと、
「ホンット、最悪。今まであんなのにときめいてたなんて……」
額に手を当てながら奥村は自分の席に向かって行った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
今日は外部の試験を使った到達度テストだった。まあ、平たく言えば模試のようなもの。相変わらず他の教科は微妙な手ごたえだったけど、化学はバッチリ。見直しする時間が無かったのが改善点かな、って程度。他の教科も、これからは頑張る。立派になって、恩返しをする。そう決めたから。
それはそうと、今朝はいつもより二時間早く起きた。理由は先生にお弁当を作るため。料理はそこまで得意じゃないけど、一生懸命作った。きっと、コンビニ弁当よりかは美味しいはず。先生がコンビニ弁当を食べる前に届けなければと、急ぎ足で化学室に向かった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
あたしの教室から化学室へ向かう最短距離には、職員室がある。鞄を持って廊下を歩いていると、五十嵐先生が教頭先生と一緒に歩いていた。珍しい組み合わせだ。何やら真剣な顔で話している。
「廊下で話す内容じゃないので、職員室でいいですか?」
五十嵐先生が真剣そうな顔で言った。盗み聞きがいいものとは思っていないけれど、少し気になって耳をそばだててしまった。
「はあ。珍しいですね、五十嵐先生が私に話とは」
教頭先生がそう答えた辺りで、二人は職員室に入った。
盗み聞きもここまでかな。流石に職員室の扉に耳をつけるわけにいかないし、廊下で話さないってことは生徒には聞かれたくないんだろう。化学室に行っても鍵は開いてないだろうし、先生が出てくるまで暇だなあ。というか、先生がついでにご飯食べちゃったらどうしよう。そんなことを考えていると、
「学校を辞める!? まだ年度の途中ですよ! 教師がそんな急に!」
教頭先生の大きな声が聞こえた。
……え? 教頭先生が話していたのは、五十嵐先生だったけど……どういうこと? なんで? 嫌だ。もっと色々教えて欲しいのに。先生がいなくなったら、あたしは何を支えに頑張ればいいんだろう。
頭が理解を拒んでいる。そうだ。別に、先生が辞めると決まったわけじゃない。先生との話はすぐに終わって、別の先生が言ったのかも。そう。きっとそう。そうじゃなきゃ、あたしは耐えられない。
これが、現実逃避だというのは分かっていたんだろう。確認するのを怖がって、この日はそのまま帰った。お弁当は、渡せなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
あれから一週間。化学室には行けないでいた。なるべく先生との接触を避けて、化学室や職員室には近づけなかった。知るのが、怖かった。
でも、今日は化学の授業がある。学校に行くかどうかすらを悩みもしたけど、あれが本当なら先生との時間はもう僅か。それならせめて、今だけは精一杯一緒にいようと、思い直した。
「うーす、授業始めんぞ」
先生はいつもより早く現れた。前は時間ギリギリだったのが、5分前に現れた。そして時間が来ると授業を始めた。前までの授業は寝ていたけれど、それでも前から変わったと分かる丁寧な授業。事務的に教科書の内容を読んでいたのが、あたしに教えるみたいに勉強としては直接必要ない話を挟みつつ、分かりやすい説明をしていた。
少し、幻想を抱いた。こんなにやる気を出したのに、辞めるはずがない。でもその幻想は段々と色褪せてしまった。先生は、チラリともこちらを見ない。不自然なほど。段々と、先生は本当に辞めてしまうのだと、分からされた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
放課後。しばらく机に突っ伏して悩んでから、化学室に行くことに決めた。恐らく先生との時間はもう僅かしかない。その間、精一杯一緒にいると決めたばかりだった。それを思い出して、椅子から立ち上がった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
そうっと、化学室の扉を開けた。先生は相変わらずそこにいた。変わらない顔、変わらない匂い。いなくなるなんて、そんなことありもしないような印象を、あたしに与える。でも、やっぱり違うらしい。あたしに気付いた先生はすぐに申し訳なさそうに口を開いた。
「知っちゃったか。どうやって知った?」
「……教頭先生と話してるのを見て。職員室に入った後、大きな声が聞こえて知っちゃった。本当に、学校辞めるの?」
少し泣きそうになりながらあたしは先生に聞いた。
「ああ。夏浦には申し訳ないがな」
先生は寂しげな笑みを浮かべた。その笑みが、辛くて。
「なんで!? あたし、これからもよろしくって、言ったじゃん! 先生、あたしが立派になるの、見てくれるんじゃなかったの!? 嫌だよ、先生と離れるの! なんのために学校頑張って来てるのか、分かんなくなっちゃうよ!」
先生に、感情をぶつけた。多分、先生は悪くない。相応の事情が無きゃ、辞める人じゃない。それは分かっているのだけれど、溢れる感情と涙は、もうコントロール不能で。
「……すまねえなあ」
先生は静かにあたしの背中に手を置いて謝った。
「謝らないで理由教えてよ! 先生、なんで辞めちゃうのさ!」
泣きながら先生に言った。本当はこんなことしたくないのに。残り短いからこそ、先生と笑って過ごしたいのに。それができない未熟な自分が恥ずかしい。
「本当に、すまん」
先生は泣きじゃくるあたしの背中を撫でながら、静かに言った。この大きな手が遠くに行ってしまうと考えると、涙が止まらない。手のぬくもりが喪失感をより感じさせた。感情が、ぐちゃぐちゃだ。伝えたいことはいっぱいあるのに、全然まとまらない。ただひたすらに、泣いた。しばらく泣いて、ようやく落ち着いてきたころ、やっと言葉を口に出した。
「……理由は、言えないの?」
言えるならとうに言っているはず。それは分かっているけれど、聞いてしまう。
「すまねえな」
先生はただ謝った。言えない事さえ言い辛いんだろう。そういう先生だ。それはきっと、あたしのため。それがよく分かる一言だった。
「だがよ」
先生は優しい声色で言った。
「俺は夏浦はできるって信じてる。だからよ、これは俺の我儘だが、俺がいなくても立派になってくれよ。そうなれば、俺は救われる」
「……できないよ、先生ナシじゃ」
先生がいたからここまでできただけ。先生がいなきゃ、何もできない。
「できるさ。俺がそう信じてるんだ。俺が間違えたこと言ったことあるか?」
「……ないけど」
この言い方はズルい。先生が間違っているとは流石に言えない。
「そういうこった。こういう形になっちまったのは、本当に申し訳ない。だがまあ、影ながら応援してるからよ。これからも、頑張ってくれ」
「……うん」
結局、この日はなんだかきまずくて少し話をして帰った。




