HNO3+3HCl-1
「──これにて始業式を終了します。担任の指示に従って教室に戻ってください」
教頭先生の声で始業式が終了した。あれから少し。あたしは相変わらず毎日化学室に通っていた。そして二学期が始まって。登校するのはやっぱり気は進まなかったけど、もう一回頑張るって決めたから。勇気を出して朝学校に来た。
幸い、アレはもうあたしに絡んでこなかった。少しは強くなったつもりだけど、厄介ごとが来ないに越したことは無い。
今日は始業式とHRが終われば授業は無い。お弁当もあるし、化学室に行こうかな。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「起立、気を付け、礼」
HRも無事終わった。さてと、荷物をまとめて化学室に行こう。ああ、その前にお弁当食べなきゃ。どこで食べようかな……
「玲奈、昼一緒にどう?」
お弁当を鞄から出していると、久しく聞いていなかった声が耳に届いた。
「え? ……何で突然?」
顔を上げるとそこには木村の姿があった。同じ学校に進学するとなっても大して話はしなかった仲なのに、何で今更。
「隣のクラスだから、たまにはね」
二コリと笑って言った木村。今気が付いたけど、クラスの女子からの視線が痛い。隠そうともしない嫉妬の視線。あたしとしてはナルシスト気味の人間はあまり好きではないのだけれど。確かに顔はいいけれど、それだけ。これの何がいいのか、あたしには今のところ分からない。きっとこの視線を送っている女子達もこれの本性を知れば幻滅するはず。やっぱり、理解できないな。
「分かった。で、木村はあたしに何の用?」
いきなりの話だ、疑問も湧く。あたし自身特に目立つ生徒ではないし、そういう意味でも話しかける理由が見当たらない。
「その話はまた後でする。で、一緒に食べない?」
笑顔を絶やさず話す木村君。気は進まないけど、断れる明確な理由もない。それに、周りからの視線が更に強くなっている。適当に断ったりなんかしたら、目を付けられるのは間違いなさそう。まあ、誘いに乗ったところでいい顔はされなさそうだけれど。
「……うん。どこで食べよっか?」
そんな打算的な判断で誘いに乗った。
「そうだなあ。ベタだけど、屋上とかどう?」
彼は返答を待たずにあたしの手を持って連れ出した。こういう強引なところもあまり好感が持てない。だけど手を振り払うわけにもいかず、渋々お弁当を持ってついて行った。
◇◆◇◆◇◆◇◆
午前で終わる日のお昼の屋上。人気がなくて二人きりというのが強調される場所だ。先生と一緒なら、嬉しいんだけどなあ。
「そろそろ、要件を聞いてもいい?」
食事を一緒にとる、なんていうのが人気のないところに誘導するための方便だ、ということはもう透けていた。早いところ用件を聞いて化学室に行きたい。
「結論を急ぐなあ。まあいいや。用件は」
木村はここまで言うと声を潜め、
「俺の中学での話、してねえだろうな?」
あたしの耳元で囁いた。
ああ、そういうことか。あたし経由で奥村から木村に連絡がいったのだ。木村としては気が気でないのかもしれない。
「うん、してないよ。する必要も無いしね」
あたしがサラリと言うと、
「オッケー。じゃあこれからも秘密でヨロシク。用件はそれだけだから。それじゃ」
こちらを振り返りもせずに木村は屋上を後にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「先生、来たよー」
気を取り直して化学室へ来た。けれど先生の姿が見えない。ドアに鍵はかかってなかったし、どこかにいるとは思うんだけど。
先生を探して部屋を眺める。隠れてるんでも無ければ見れば分かるはずだけど、いない。と、部屋の奥にある扉で目が止まる。そういえば、あまり入ったことがない。前に聞いたところ、散らかってるから入るな、と言われたんだっけ。でもまあ……先生を探すためだし、いいよね?
「先生、いる?」
そっと扉を開けて、部屋の中を見渡した。確かに散らかっている。実験器具に、薬品の箱? それと、大量の資料。それらが天井まである棚を埋めていて、棚の向こうは全く見えない。
「ん? 入るなつったろ。ちょっと待ってくれ、飯食ってるんだ」
見えない部屋の奥から先生の声が聞こえてきた。
「先生、何食べてるの?」
棚を回り込んで、先生がいるであろうスペースまで向かった。
「いつも通りさ。今日は生姜焼き弁当だな」
ほら、とプラスチックの弁当を見せる先生。
「先生、いつもコンビニだよね」
あんまり体に良くはなさそう。
「まあな。独り身の男なんかそんなもんさ。毎日だと飽きるが、料理は面倒でな」
学生の時は自炊してた時期もあったんだが、料理しなくなってずいぶん経つ、なんて先生は言った。
「ふうん……あ、それより新しい問題集欲しくてさ。今の奴全部解いちゃったから。何かオススメある?」
一通り問題は解いたから、別のをやってみたい。
「オススメか。いくつかあるが、まだ買わんでもいいと思うぞ。問題集っつーのは、何周もしてこそだからな。新しいの買うのは、どこ開いたらどんな問題があるか想像つくレベルになってからだ」
先生はコンビニ弁当を食べながら楽し気に言った。
「そんなに!?」
何周すればいいのやら……
「ああ。ま、想像してるよりはかからんさ。真剣にやってりゃ数周でそのくらいにはなる。夏休みで基礎的な部分は完璧になったろうから、今度は問題を見ただけで必要な知識が脳内でピックアップされるように訓練するフェーズさ」
先生は空になったコンビニ弁当のゴミを片付けて言った。
「それができるようになれば、試験時間が足りないどころかむしろ余るようになる。そうすっと計算も丁寧にできるし、検算の時間も大きくとれる。見直しとかもできるな。そのレベルまで来れば、敵はケアレスミスのみ。そこを綿密に潰す時間ができれば満点だって夢じゃない」
先生はにこやかに続けた。
「夏浦は、そこまで行ける。確信してるんだぜ、俺は」
先生はニヤリと笑って言った。
……ズルい。そんな風に言われたら、頑張るしかない。あたしは小さく頷いた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「先生って、週末何してるの?」
あれから。相変わらず化学室に通っていたあたしは先生に聞いた。
「そうだな……授業のための資料作ったり、試験問題作ったり、とかか。後は体力回復のために寝たり。あんまり、趣味の時間みたいなのはねえなあ。まあそもそも趣味なんて大してねえが」
先生は顎に手を当てて答えた。
「えっ、大変……」
週末も働いてるんだ。
「俺なんかは適当教師で、役職と言えば名ばかりの副担任、副顧問だからなあ。しっかり担任業務やら部活の顧問やらやってる先生はもっと忙しいはずだよ」
だから俺は暇な方さ、と疲れたように笑う先生。
それでも忙しいのには変わりなさそう。自炊なんてする時間はないのかもしれない。
「なんか……ごめん。忙しいのに、色々教わって」
あたしの世話だけで、どれだけの時間を使ったのやら。申し訳なくなる。
「その言葉は違うなあ。礼を言われる筋合いはあるにせよ、謝られる筋合いはねえ。俺は勉強を教えるためにここにいるし、夏浦は学ぶために高校に通ってる。熱心な生徒を迷惑だなんて言う奴は、そもそも教師にゃならねえよ。大体、前も言ったろ? 俺も色々見つめなおせた。夏浦には感謝してるんだ。もしも引け目があるなら、立派になってくれ。それが一番嬉しい」
先生は笑って言った。
「じゃあ、うん。ごめんじゃなくて、ありがとう、だね。ありがと、先生! もっと頑張るね! だから、これからもよろしくね!」
「……おう」
先生は、少し寂し気に笑った。




