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最期の海に咲く花  作者: みつき
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最期の海に咲く花―――⑤

あたしたちは海岸のはずれの小さな宿に前泊した。10年を超えた時間を経過しても、この街の夜は静かで、海岸線をタイヤが切りつける音すら聞こえない。夏を控えた鈴虫がちりちりと鳴く声だけが響いている。うだるような熱さやわずらわしい湿気もなく、肌を撫でる夜風が心地よい。あたしが望んでいた世界で、かたきなき不安が波打ち続けた。


「真鈴……」

約束の女の子の名前を呟く。記憶の中でも返事はなく、声が聞こえるはずがない。その代わりに、海の上にはおぼろげな月明りが揺れていた。

『また、この夏に戻ってくる』―――幼い日の約束を果たすだけなのに。

どんな姿に姿を変えても。どんな最期であろうとも。あたしを忘れていたとしても。

捜査をはじめた当初に懸念していた『あたしが死ぬ』ことよりも、恐れていることがある。


もし、真鈴があの海に眠っていたら。そう考えるだけで、生ぬるい海水はあたしの情緒と手先を乱し続けた。使い慣れない道具を使い、深海の磯巾着や岩を切りつけていく。

透き通るような白い肌と、さらさらと指から解ける綺麗な髪を、青空のような澄んだ瞳を、同じ時間を刻んだ心臓を、壊してしまう可能性をゼロにできない。


「……」

東京から出発する前に、60分間のカウンセリングを受けたにもかかわらず、深海で溺れているかのような息苦しさがみぞおちを覆う。過換気の発作が出ることも想定の範疇だった。錯乱したような手つきでリュックから頓服を取り出して、せいせいと息を乱しながら内服する。


―――『会いたい病』の治療に携わってから2年。真鈴と母親の喪失を無下にしないよう。心に刻んでいたから、一度たりとも事故は起こさなかった。でも、自分たちの最初のバツが真鈴になったら。この先、あたしは生きることができるのだろうか。


「ころしてほしい……」

生きることに意味を見いだせない人間が、誰かを救い続けた。矛盾に逆らいながら、浅く息を吸い込み続ける。真鈴と手をつなぐことがもう二度と叶わないのなら、もういい加減終わらせてもいいだろうか。


無機質な天井を眺めていると、スマートフォンから着信音がけたたましく鳴り響く。

ベッドからふらふらと立ち上がり、残された力で手に取った。鈍く輝く画面には”親父”と、表示されている。業務連絡だろうか。微かな指先の力で、通話ボタンをタップする。


「ちょっと外の空気を吸いに行こうとしていたんだ。一緒に来ないか?」

「……行く」

母親が亡くなる前から親父の教育方針はわりと自由で大雑把だったが、『いなくなってしまう』ことが怖かったから。勉強も、手伝いも、仕事も。何事も二つ返事で会話をしていた。

あたしの体調が悪そうなことに気が付いたのか、親父は『無理をしなくていい』と伝えてくれたけれど、返事が面倒だったから、電話を切って部屋から出た。


★★★


「汐見ヶ丘の風は、こんなに心地いいんだな」

「そうだね。あの、ずっと親父に聞きたいことがあった」

「……うん。折角ふたりで話せる機会だから、何でも答えてやるぞ」

「どうして、あたしをめめばあちゃんと真鈴の家に連れてきたの?」

あたしの人生において、これほど大切に思った記憶は他にない。この街の思い出に、支えられている。だけど、幼いころから心の片隅にひっそりとした気がかりがあった。

―――若き刑事として勤める親父にとって、幼いあたしが邪魔だったのではないかと。


「置き去りにされた、と思っていたら申し訳ない。甲斐性がないせいで……」

「いや、違う。ちょっと気になっただけ」

「それほど真鈴との記憶は、あたしにとって宝物であり、鎖のようなものなんだ。だから、もし事故を起こしたら。……殺してくれないか。生きていてもしょうがないから」

とっくのとうに感情が死んだはずのあたしが、得体の知れない情緒に支配される。海岸のアスファルトに、ぱたぱたと涙が零れ落ちる。予期せぬ嘆きを浴びた親父の指先が震えていた。


「……ごめん、親父。」

「莉緒。はじめて私に弱さを見せてくれたね」

電灯に照らされた海岸線の上で、ふたつの影がゆらりと揺れた。父親の恰幅のいい身体が、あたしに近寄ってきた。母親といい、父親といい。あたしの親は子どもの頃から何かと距離が近くて、何かにつけてぎゅうと抱き着いてきた。それに近い情動を、肌で感じる。


「私のもとに生まれてしまったから、こんな運命に遭わせてしまった」

「違う、そういうわけじゃない」

「ひとりの父親として、莉緒にかけがえのないプレゼントを渡してあげられないかなと思ったんだ。だから、ばあちゃんと真鈴ちゃんが住む家に連れてきた」

親父の思いを勢いよく踏みにじったことに気が付き、口を塞いだ。

自分の気持ちを伝えることが苦手なあたしと、いつもあたたかい言葉をさまざまな人物に差し出す親父。同じ血を交えた他者が、たったひとつの海辺で佇んでいた。


「どんなにお願いされても、莉緒を殺さない。」

「黒い箱か、白い箱か。わからないけど。この空の遠い星になって、穏やかな凪となり、涼しい風になって……。今はとても痛くて、怖いかもしれないけど。きっと、莉緒が真鈴ちゃんを助けに行く様子をママが見守ってくれているはずだ」

親父から発された台詞は、あまりにも情緒的で独善的。科学・化学・技術がスピリチュアルを越えられるはずがないのに、ささくれ続けた心には優しすぎた。自分でも聞いたこともない泣き声を出しながら、あたしは親父の胸にもたれかる。からっぽの身体を抱きしめながら、親父は母親への想いをぽつぽつと語り出した。


「私も、ママとは名もなき関係からはじまった。」

「しっかり者の姉のようで、ドジな妹のようで。ほほ笑みは母のようで。私たちは『結婚』というかたちで結ばれることができたし、莉緒という記憶を残すことができた」

「それでも、花林を失った痛みは、日常の中に付きまとい続けた。でもね、莉緒の姿を見て『私たちの関係に名前をつけることが全てじゃない』と思った」

「……それは?」

「お空の上にいても、この海の最果てにいても。ヤシの木の裏に隠れていても。私と一緒に莉緒を抱きしめていたとしても、花林は花林なんだって」

あたしはギトギトとした親父の汗の匂いをあおぎながら、そっと五感を澄ます。鼻の奥に、柔軟剤のにおい。耳には、けらけら笑う明るい声。眼下には、ふたりぶんの影がかすんで見える。乾いた舌先で、一緒に食べたメロン味のアイスの味を思い出す。そして、傷を負った左手には、消えたはずのぬくもりがよみがえる。


「莉緒は、真鈴ちゃんとずっと一緒だったでしょ?」

「東京と汐見ケ丘。そして、おばあちゃんの家からいなくなってしまっても」

「子どもが嫌いなくせに、優しくしてあげたり。時々ふたりの写真を眺めていたり。今回は忙しい中、汐見ケ丘に通っていたでしょう」

「どこかを傷付けてしまったとしても。ひとりぼっちの真鈴ちゃんを莉緒が連れ出してあげたことは変わらないでしょ?」

「ああ……」

親父は口元に皺を寄せながら穏やかな笑みを浮かべる。子どもの頃から抱えていた孤独が剥がれ落ちていく。ふたりになってから10年少し。部下となって2年。あたしたちはほぼ毎日顔を合わせてきたが、こんな顔をして向きあうなんて。照れくさくなり、笑い合った。


海辺に咲いた青い花たちは、音を立てずに夜風を受けて揺れ続ける。今夜は絶対によく寝られないと思っていたのに、薬の副作用もあってか眠気が襲ってきた。涙は潮風に混じりながら乾き、あたしの瞳に跡を残していく。視界が曇ってきたので、ごしごしと拭った。


「さあッ! 真鈴ちゃんが待っているぞ。だから、今日はよく泣いてよく眠りなさい」

「ありがとう。親父」

親父とこうして腹を割って話したのは、はじめてかもしれない。小さなころから抱えていたさびしさが星空の彼方に消えていった気がした。本当はもっと、親父にしっかり気持ちを届けたかったのだけど。明日を目指してから、伝えることにする。


「おやすみ。明日は11時だよな」

「そうだ! おやすみなさい、莉緒」

あたしはふわわ、とあくびをしながら、小さく手を振った。あたしが宿の中に入っても、親父は海岸に残っている。スーパーはもう閉店しているだろうし、隣町のコンビニにでも行くのだろうか。少し心配になりながら、強烈な眠気と戦いながら階段を登った。


『これでよかったんだよな、花林……』

同じ血を分け合う、別々の人間。それでも、あたしたちは同じ道を進んできた。今日のような星が明るい夜には、母親を思い出すのだろう。父親がぽつりと話していた『名もなき関係』は、あたしが父に教えたのだろうか。わからないことだらけだけど、嫌な気分はしない。


真鈴と巡り合わせてくれた父親へ、心からの感謝を捧げるために。

明日へと向かう船をしずかに漕いだ。

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