最期の海に咲く花―――④
おまけに、文字を書き写すことも苦手だった。どんなに目を凝らしても、頭を使っても。黒板の文字と同じ向きに書き写せない。漢字・ひらがな・カタカナ、数字、時には英語も。すべて鏡映しのようにさかさまに書き殴っていた。
テストの解答用紙は、同級生の目に止まる場所に置かないように気を付けていた。いじめられるから。バカにされるから。誰も遊びに誘ってくれなくなるから。……もっともっと、ひとりぼっちになるから。周囲の子から疎外感を感じていたのは、そういった背景も影響しているかもしれない。
ある出来事をきっかけに不安は姿を見せはじめた。突然初夏の風が吹き抜け、テスト用紙が廊下側にひらりと落ちた。クラスのリーダー格の女の子が、力の籠った指先で拾い上げる。
「真鈴ちゃんのテストの回答、全部さかさまでおかしい」
「なのに、先生は丸してるって変だよね」
「……やめて……」
「あたしたちはどんなに難しい問題でも、理解しようと頑張っているのに。真鈴ちゃんだけこんなにひどい回答なのに丸がついてるっておかしいよね」
言葉を用いた攻撃に、胸が押しつぶされた。小学校の高学年に上がった頃から、担任の先生にあたしが持つ”特性”を理解してもらった。田舎の小さな中には、特別学級というものはなく、さまざまな学力や運動能力がある子達が散らばり、共同生活を送っている。
「ごめんなさい」
―――日々勉強を頑張っている子から見たら、出来が悪いのにも関わらず、ずるい存在だったのだろう。……まだら模様のように、パパとママと暮らしていた時の記憶が蘇ってくる。生きているだけで申し訳なくて、息を続けている意味がわからなくなる。
「どうして泣きそうな顔をしているの? あたしは当然のことを言っただけど」
「話したくない」
あたしは音を立てずに椅子から立ち上がり、教室から抜け出した。体調が悪いわけではないし、生理はこの前来たばかりだ。原因が分からないまま、こうして胸が締め付けられ、息が苦しくなる瞬間が数えきれないほどあった。休み時間が終わるチャイムの音は聞こえない。
「……あ」
目的地は決まっている。4階の非常階段の前。大きな窓の向こうのまっさらな空が、あたしの壊れそうな心を包みこむ。地平線の真上には、一直線に伸びた飛行機雲。先週、梅雨は明けたみたい。こんなに綺麗な飛行機雲が差し込むのなら、待ち焦がれた季節はもうすぐだ。家に帰ったら、めめばあちゃんと莉緒を迎える準備をはじめよう。
「莉緒……」
あたししか知らない、大切な女の子の名前を囁いた。真昼の太陽が皮膚に差し込む。ちりちりとした感触を残していくけど、不思議と痛くはない。
真夏の日焼けよりも、足先をカニに摘まれることより、『会いたい』という気持ちを抱え続けるほうが、ずっと痛くて、苦しいの。
★★★
やっとの思いで同級生の輪に入り始めたのは中学2年生だった。保育園の頃から一言も口を利かなかった女の子数人が、最近やたらめたらに話しかけてくる。本心はよくわからない、と感じていたとしても、『仲良くしたい』という気持ちになるべく答えてあげたいと、お昼の時間も誰かと一緒に過ごすようになった。
「遊園地ができたみたいだよ!」
「そうなんだ」
「でも、あの方面に出るバスは2時間に1本でしょ?」
「そうしたら5人で行くことになるのかな? 真鈴ちゃんは必ず入れてあげないと。
車を出してもらうにしても、お父さんとお母さんに頼めないよ」
「へえっ!? あたし?」
どうして知らない話にあたしが登場するのだろう。遊園地がオープンした話は新聞のチラシを見て知っていたけど、一緒に行く計画に巻きこまれているとは思いもしなかった。
「えっ、いいよ。あたしは」
「日にちはいつがいい? 夏期講習をずらせば大丈夫だよ!」
「真鈴ちゃんがいないと、あんな遠くまで遊びに行く意味がないんだからね?」
あたしの向かい側の席に座った女の子ふたりが、鼻と鼻がぶつかるぐらいの勢いで乗り出してくる。さっきから何の話をしているのだろう。……きっと目に見えないもくろみがある。そんな予想は頭の悪いあたしでも簡単に想像できた。
「真鈴ちゃんと廣瀬をくっつけるチャンスを作らないと!」
「きっと高校に言ったらモテそうだからって、焦っているんじゃない?」
―――あたしを見る目が変わった理由は、容姿がそれなりに優れていることだったみたい。睫毛は白く、目は丸く透き通っている。鼻筋は外国人のようだと言われたこともあるし、胸も余計なほど膨らんで、廊下や町中で見知らぬ誰かからの視線を感じることもあった。おませな子たちからは、見た目のいい存在同士が”カップル”として成立させやすいだろうという計画が透けていた。
「……遊園地とか、よくわからないし……」
「そういうおとなしいところが男子に好かれるんだよ! 素直についてきな?」
「でも、だけど……」
今日、莉緒が家に帰ってくる。莉緒との楽しい時間を、一分一秒たりとも無駄にしたくない。どんな理由であっても、誘ってくれたことはうれしい。だけど、莉緒との限られた夏の時間を消してしまうようで、あたしの心が荒れた海のようにざわめきはじめた。
「今日から、友達がうちに遊びに来るの……」
「なんだ! じゃあその子も一緒に誘えばいいじゃん!」
その提案は悪くない。だけど、莉緒のいる前で廣瀬君と仲良くしなきゃ。莉緒は、あたしの姿を見る度にきっとやきもちを焼いて。ポニーテールの髪をよだたせて怒るだろう。この夏の約束は、ふたりだけのものなのに。他の誰かに分けてあげる必要はあるの?
”身近にいる男の子を好きになることが当たり前”。テレビドラマでも、漫画でも、難しい小説でも取り上げられているのは、子どもを残すための理理ばかり。……うまく言葉にできない疑問と対面して、机の下でぎゅっと拳を握りしめた。
「ごめん、いつ時間が空くか、まだわからなくて」
「絶対電話してね! うちの電話番号教えるから!」
あたしは黙ったまま、同級生がロッカーに連絡網を取りに行く姿を眺めていた。ふと頬杖をつくと、埃がかぶったままの席が目に飛び込んできた。
紫陽花が咲き始めた時、『あの子』は学校に来なくなった。
―――高校生の恋人の赤ちゃんを身ごもったらしい。担任の先生は本当の理由を話さなかったけど、ミニチュアのように小さなこの街では派手な噂はあっという間に広まる。めめばあちゃんも、瞼の瞳をまん丸くして驚いていた。
「真鈴もそんな相手がいるのか?」
「ううん。そんなわけないじゃん。よくわからないし。あたしはまだまだ子供だよ。これからもずっとめめばあちゃんと一緒に過ごすの」
「真鈴に『大切なひと』ができたら、応援するけど、もしも怖い目にあったりしたらすぐ話すんだよ。パパやママはそばにいないけど、ばあちゃんはずっと真鈴を守ってやるからな」
泥の匂いがする両手が、あたしの頬の体温を確かめるように触れた。このあたたかさに包まれるたびに、他に居場所を作らなくていい、という安心感を与えられる。それに、あたしにとって『大切なひと』は、絶対怖いことや、痛いことはしないから……。
めめばあちゃんと共に暮らす。莉緒が会いに来る。さびしがりやのあたしだけど、このふたつだけがあればいい。他の誰かを受け入れ、子どもを残すなんてもってのほか。
ずっと子どものままでいたいのに、身体はひとりでに大人になっていく。『あの子』と同じように、子どもを残すための理に従いなさい、といわんばかりに。同級生から一方的に向けられる、身勝手な考え方や好奇の視線。すべてがあたしの息苦しさに繋がっていた。
「ごめん、じゃあね。」
彼女たちに残す言葉はひとつもなかった。次に会うのはきっと、夏が過ぎ去ってから。あたしは小学生の頃と同じように、野良猫のように教室を抜け出した。いつもより1本早いフェリーに乗りたい。昇降口でそそくさと上履きを履き替えて、ぱたぱたと音を立てながら、一番乗りで校門まで駆け抜ける。
「莉緒、まっててね」
校庭の木陰には、知らない生徒たちが数名たむろしている。開け放った教室の窓からも、大騒ぎする声が聞こえた。……その輪の中にあたしはいない。ひとりぼっちなのに、寂しさは入道雲と一緒に消えちゃった。夏の約束はふたりだけのものだから。莉緒がいる場所に向かって駆け抜けるだけ。
「はあっ、ふうっ……へえっ」
小さな肺ではすぐ息が上がるのに、ひ弱な両足は簡単に止まらない。もっと早く、ずっと長く。莉緒のきれいな瞳に会いたい。この手を繋いでほしい。きめの細かい肌で、きゅうと抱きしめてほしい。今年の夏も、いつまでも終わりなく、どこまでも遊びに行こう。
「あつい……くるしい……でも!」
ちらっと、腕時計を見る。乗りたい便の出発まであと3分。船橋の板を踏むと、2匹のかもめが寄り添っていた。聞き慣れているはずの鳴き声は、ラブソングのように聞こえる。中学校に上がってから、船に乗って通学をするのは当たり前で、何も特別なことはない。いつも通りの光景を、この胸のときめきはドラマティックにさせていくんだ。
「お願いします!」
セーラー服に滲むほどのたくさんの汗をかいて、やっとの思いで入口に辿り着く。深呼吸をしている間に出発の汽笛が鳴り、足元は大きく揺れ動く。あわわ、と思わず声を上げながら、ゆっくりと座席に座ると、一度深呼吸をしてみた。
―――ふわりと吹き抜ける風。鼻先にこびりついたはずの汐の匂いが、いつもよりさわやかに感じる。目の前の波間を抜けて、莉緒はこの街に辿り着いた。その事実だけで、水面が宝石のようにきらきらと輝いて見える。……どうしてだろう。心がくすっぐったいよ。
……あと少しで、やっと会えるね。莉緒。まぶしい太陽をあおいで、群青の空を眺めた。鮮やかな色が、身体中のほてりを覚ましていく。この空の下で、楽しいことをたくさん探して、新しいことを教えてもらう。それだけでよかったはずなのに、少しだけ物足りない気がしてきた。
「莉緒に大好きって、たくさん伝えよう」
ちょっとでも勇気が出せるように、わざとらしく口に出してみた。誰も聞いてない、あたしの心に生まれたかすかな期待。思いを抱えながら、下着の向こう側の赤い跡はじりじりと痛みだす。抑えるように、我慢するように。この痛みを、大好きが救ってくれるようにと、おまじないをかけるように右手でさすり続けた。
―――ごめんね。もっともっとそばにいてあげたかった。あたしを探して、涙を流す莉緒を抱きしめてあげたかった。だけど、時間は残されていなかった。この身体が消えてしまうほど、会いたかったんだよ。巡る季節を、その笑顔を。ずっと待っていたんだよ……。
どうかこの街を訪れた時には、あたしのことを思い出してほしい。素敵な女性になっていたとしても。大切なひとと一緒に訪れたとしても。かわいい子どもを連れてきたとしても。いつの間に、おばあちゃんになっていたとしても。
この声や、身体や、記憶。あたしの破片がばらばらになって、最期の海に融けていく。そばにいたいというわがままは、叶わなかった。だからこそ、莉緒の心の中で一番素敵な記憶にかたちを変えて、ずっとずっと残り続けてくれますように――……。




