最期の海に咲く花―――⑥
一生分の情熱を捧げるには、あたしの心はまだ冷たい。親父とカレンからも相談してくれとあれほど言われていたが、喉元まで出かかった言葉をなかなか吐きだせない。定刻を過ぎても、カレンとともに船の上に揺られ続けている。
『莉緒。準備はできたか?』
「ああ」
『いつも返事ははい、なのに。もう少し待とうか』
「うん」
無線機の向こう側の声が、もう少し休息を挟んでから開始しようと提案した。
真鈴とまだ出会って間もない頃。海がなぜ青いのか、という話をしたら、大きな瞳をこぼれ落ちそうにして驚いていた姿を思い出す。重症症例に大がかりな処置を施すだけ、と、何度も自分に言い聞かせても、そこらじゅうに散らばった思い出が心臓に爪を立て続けた。
「絶対帰って来いよな」
「ああ、そうだな」
「……おい、聞いてんのか? お前」
カレンにひとつに束ねた髪を強く引っ張られる。まったく、こんな場面でさえ不機嫌な猫みたいだ。多かれ少なかれ命の危険を伴うのだから、感動的に送り出してくれ、とリクエストしたかったが、じゃれつかれると開始時間が遅れそうだから、やめておく。
「あたしが死にそうになったら、命綱を引いてくれるんだな?」
「あたりめーよ。何のためについてきたと思ってんだよ」
「カレンも海に放りなげられそうになったら、離せよ。あんたには生きてほしいから」
「縁起でもねえこと言うのやめろよ。本当に、やめろって……」
カレンの陶器のような白い頬に、金色の前髪がカーテンのように揺れていた。このじゃじゃ馬を置いていったら、親父が大変だろう。それに、雨の日だろうと雪の日だろうと血みどろになりながらついてきてくれたカレンに、あたしと同じ思いを味合せたくない。
「あの子が助けられなかったとしても、お前はお前だから。あたしの隣に帰ってこい」
「ははっ。飼い主みたいなこと言うなよ」
「別に間違ってはいないだろう? ワンワンとかニャーニャーとか言わないから、トカゲとかヤモリみてえだけど」
「それ、褒めているの? 馬鹿にされていることだけわかるけど」
いつものようにくだらない冗談話に花を咲かせていると、次第に呼吸が落ち着いていく。
彼女とは血のつながりはないけれど、家族や友人と同じようにかけがえのない存在だ。
もしくは、放っておけないペットのようだと、お互いに思っているのではないだろうか。
「汐の流れもいいみたいだね。もう行ってくる」
「死ぬなよ、バーカ」
「はいはい。親父、待たせたな。準備は終わった」
ふたりそろって青い空を見上げると、穏やかな凪がそよめいた。古い床が音を立ててきしみ、ひときわ強い風に煽られる。丁度いい頃合いだろう。肩の力も抜けてくれたから、潜ってみる。もし、目的地点が外れていたとしても、あたしの体力を温存できる限り、何度でも軌道修正が効くし、カレンと親父も命が尽きるまで付き合ってくれる。
「無理すんなよ! 行ってこい!」
「はい。現場、入ります」
カレンの細い指先が、力強くあたしの背中を押した。暴力とさほど変わらないエールで送り出される。この海に身を投げた時点で、あたしはひとりの専門職。柄に合わない感傷的なことを考えるのはやめて、眼下に広がる景色にまなざしを尖らせ、海の生き物たちが暮らす音に耳を傾けよう。
真鈴の身体が亡骸だったとしても、変わらない命が宿っていたとしても。
―――必ず真鈴を救い出す。そのために、今日まで歩いてきたとさえ思えた。
あたしはふたりの記憶の果てで、最期の呼吸を繰り返し続ける。
★★★
めめばあちゃんの死期が迫っている、と、数日前から親父から聞いていた。
もう社会人として働いているのにも関わらず、何かにつけてお小遣いを渡してきたり、なかなか電話をかけられなくても、季節が変わる度に、かわいらしい絵手紙を送ってくれた。
真鈴を救い出すことは、彼女に対する感謝の気持ちを捧げることでもある。
もし身体が激しい損傷を受けていたとしても。遺体として回収することになっても。
エメラルドは必ず取り戻し、めめばあちゃんに返してあげよう。
最期に立ち会えない代わりに、真鈴とあたしからの『ありがとう』を伝えたいんだ。
『あたしたちを抱きしめてくれた、あたたかい胸に飾ってほしい』という手紙を添えて。
……実はもう1通。手紙を用意している。遺書だ。やはりあたしが命をさらわれる可能性はゼロにできないので、雀の涙程度の貯金を父に相続することや、そのうち何割をめめばあちゃんの葬式にお花を挙げてくれとか、とりとめのないことを綴った。
『海はありも簡単にひとの心を攫う。命まで攫われぬように』
めめばあちゃんが海女時代に掲げていた標語を音のない世界に刻み込んだ。
数十分ぐらい泳いだのだろうか。プロ用の足ひれで軽くなった足首が、深海に辿りついた。
テレビや図鑑の中でしか見たことのない、繊細な世界が目の前に広がっている。あまりにもの美しさにためいきを漏らしながら、ボンベから送り込まれる酸素を思わず吸い忘れていた。
「莉緒はしっかり者だよね」
「あたしの隣にいる時には、だらーんとしていいんだよ」
ふらついた脳天を貫くように、真鈴の言葉たちが姿をあらわす。呼吸のリズムを取り戻しながら、再び目を開くと、でこぼこした岩肌の上でさまざまな小魚たちが戯れている。絵具やクレヨンの色では網羅しきれない、さまざまな彩の生物がひしめきあった。
息をするように目を凝らせ。彷徨いながら手先を動かせ。
誰かに手を差し伸べ続けた記憶が、嘘にまみれぬように。
心に生まれ落ちたはじめての情熱が、水温にじわりと溶けていく。
あのきらめきで、間違いない。きみの胸の中心に揺れていた宝石が、数メートル先の地底に埋まっている。この先に真鈴がいる。1ミリも壊さず、剥がすように力強く。真鈴があの日のように涙を浮かべないように。勢いよく刃を突き立てろ。過去も未来もすべて捧げるように、水圧に逆らいながら力を振り絞った。
あたしは水泡を吐きながら、切除した岩石の内側を見つめる。
真鈴の白銀の髪の毛。身に着けていたパジャマ。白い肌を包んでいた下着の刺繍。微量の血液が、勢いよく飛沫をあげる。真鈴の瞳孔が揺れると、あたしの鼓動の音が止まった。




