デウス・エクス・マキナ―――⑦
この瞬間が夢だとわかっていたから、莉緒の手を掴んでしまったの。
もし現実だとしたら、気が付いてくれないでしょ?日焼けをする度に赤く腫れ上がっていた肌も。莉緒が撫でてくれた髪の毛も。邪魔だった胸も。自分の気に入っていた部分も、そうでない場所も。もう随分前になくしてしまったけど、この目だけは本当によく動くなあ。
「りお、あいたかった」
心に生まれた感情をうまく声にできなかった。壊れた音は空気の輪っかになり、莉緒の顔に当たると細かく割れる。どことなく、子どもの頃に庭で一緒にやったシャボン玉のように見えて、懐かしい気持ちになった。―――あれ、おかしいな。きみのことを少しずつ忘れているはずなのに。
「りお、あたしだよ。わからないよね」
莉緒の瞳はこちらを見つめている。 肩を覆う夥しい苔。とげとげのしたいぼ。絵の具のパレットのようにたくさんの色で覆われている爪先。やっとまた会えたのに、一度もふれあうことはなく。深海の一部となってしずかにこの命は尽きていくだろう。
莉緒は驚きもせず、怖がりもせず。 しずかな眼差しであたしの身体を見つめていた。
目の前の莉緒はたしかな命だった。あたしは海の一部だった。世界を隔てていくのは、薄いガラスで覆われたかのような生ぬるい海水だけ。
「いたっ」
莉緒が持っているのは、めめばあちゃんの漁の道具だろうか。小さな刃がおできを潰すと、子供の頃の同じ血が勢いよく飛沫をあげる。あたしの身体から飛び出した血液は莉緒のウェットスーツを包み込み、地上から降り注ぐひかりに吸い込まれながら消えていく。
「きれい……」
あたしの身体のかけらたちが、莉緒がいる世界に解き放たれていく。本当はそれなりに痛いはずなのに、美しささえ感じてしまう。残された身体の細胞の全てが『莉緒のとなりにたどり着きたい』と、疼きだすように。
もう、ひとりごとじゃつまらないよ。もっとあたしの話を聞いて欲しいの。ひとよりできないことが多いのは、子どもの頃と同じはずなのにね。ーーー莉緒のとなりで暮らしたい。贅沢だとはわかっているけど、こうして離れ離れになるほど願ってしまうの。
同じ世界に生きることは許されなくても、思い出してくれますか?
もし莉緒の記憶の中にあたしがいるとしたら。せめてその手のひらに心音を預けて―――。
★★★
「解剖に出すかあ」
あたしがまた怪我をしたわけでもない。誰もいない海の中で、病気になった人物がいるわけもないし。目の前にある海面の一部を切り落とし、それが悪性か良性か。ひとや海洋生物に悪い影響を与えるか与えないかを、研究として知りたいだけだった。
折角海に潜ったのだから。街で起こっている惨劇の手がかりを、ひとつでも多く親父や研究者に持ち帰ったほうがいいだろう。何か危険な物質だったとしても、この格好でいれば素肌や粘膜に接触する可能性は極めて少ない。
「これ、やばそうじゃん?」
病理診断に出す程度のサイズでいいのだろうか。それともてのひら程度、広範囲に取った方がいいのだろうか。どちらでもよく観察できるように、数ミリ内側からえぐってみたり、表面を剥がしてみたりしてみよう。
「結構力いるよなあ」
めめばあちゃんが貸し出してくれた海女道具は少々扱いにくい。ネットでやり方を調べても、よく理解できなかった。難航する作業ではひとりごとばかりが増えて、ごぼごぼと筒の中から気泡がビー玉のように地上にぷくぷくと上がっていく。まあ、いいか。誰も聞いていないだろうし。
「っ、はがせない……う…」
石灰化したイソギンチャクの表面を剥がすか、それとも錐の金属の部分が欠け落ちてしまうか。ここから先はあたしの技量とアドリブの問題。少し先に刃先を滑らせると、ちいさな腫瘍のようなものにぶつかった。
「あれれ」
核を潰してしまったのか、視界に真っ赤な飛沫が広がる。そして、底に沈殿していくはずの液体は何故かふわりと海上へ上がっていく。これは怪しい。海で生きるはずの生き物ではない気がした。何故この物体が海の底にいるのかを解き明かしたいけれど、あたしにはできない。今まで感じたことのないジレンマが迎えに来た。
黒いウェットスーツのお臍の部分に10cm程度の大きな血塊がべっとりと付着した。水溶していく液体と、しない液体がある……? どちらも指先を瞬く間にすり抜けて、容易く採取できない。こんなに汚染されてしまっては、海の家の店主に返却することは難しいんじゃないかとか、無駄に職業病が働いてしまう。
なんだかんだと独り相撲をしているうちに、あたしの手先や身体にはウミヘビのような物体が絡んでいた。マッサージには普段いかないけれど、この感触は嫌じゃない。別に、すっごく気持ち良いわけでもないけど。
何かにたとえるなら、めめばあちゃんの手のあたたかさのよう。膝を擦りむいた時に、手当てをしてくれた時を思い出す。消毒液の匂いと、絆創膏を貼り付けてくれた指先のあたたかさを忘れることはできない。―――あたしもそんな女性になれているのだろうか。
『また来年も会おうね!』
『夏まで待ちきれないのは、あたしだけなのかな』
『りおだからいやなの。助けてなんていえない』
身体を重さのない世界に預けていると、ウミヘビは皮膚の表面を荒々しくなぞりはじめた。
痛みにはほど遠く、快感と呼ぶには未熟な感触が増幅していく。ぼやぼやとした脳の中で、アルバムのページが強い風に捲られていくかのように真鈴の記憶が次々呼び覚まされる。
あたしが死ぬときに思い出すのはきっとこの子なんだろうな。
恋人なんて薄っぺらいものには興味がないし、家庭を作ることすら想像できないあたしが。生産性のない一生の最期に思い出すのは、ささやかな思い出たちだろう。
「……うぇっ、ぶっ……」
ていうか、死ぬんじゃないのか。血中酸素が薄くなると多幸感がうまれる可能性があることは、知識として覚えていたけれど。足をばたばたとする度に、肺の中が苦しみで埋め尽くされていく。どうしようと、強く握った手の中に思いがけずウミヘビの一部が収まっていた。
―――これだけは、持ち帰らなきゃ。根拠なき強い気持ちが、沈んでいた足首を軽くする。
余力で掴んでいた錐で手足に絡んでいた生き物を刺すと、思ったより容易く剥がれ落ちていく。磯遊びというのにはかなりハードだったし。真鈴の遺留品や遺体の一部だと断定できるものは見つからなかった。あれだけ時間が経過していれば、当然であろう。
「あーっ、ぐるじかっだ……」
やっとの思いで水面から顔を出すと、鉛のように重苦しい身体を海から引き上げた。
岸から砂浜に辿り着くと、砂が口に入ってしまうかの勢いでうつぶせに倒れ込んだ。
成人女性がひとりで砂浜に寝転ぶなんて、とんでもない構図である。水難救助員を呼ぶほど大ごとでもないし、海風に当たりながらしばらく休んでいよう。
海から回収したものは、ふたつ。
磯巾着が生えているげんこつサイズの岩礁。しましまのウミヘビのしっぽ。
疲労が滲み出した指先で、ナップザックから容器を取り出しそのふたつを丁寧にしまった。




