デウス・エクス・マキナ―――⑥
―――うたかたの思い出②
「わあ、真っ白ないるか!大きいねっ」
あたしは驚いたふりをして、本当の心を隠した。莉緒が来年もこの街に遊びに来てくれる保証はどこにもない。そして、お年寄りのめめばあちゃんをおいて東京に遊びに行く決断ができない。かけがえのない夏を重ねるたびに、不安が育っていった。
「うん、あたしたちの身長の5倍ぐらい」
「いやいや、もっとじゃない? あたしはちんちくりんだし」
「そうか?」
莉緒はこの頃からクラスメイトの誰より背が高かった。校庭で並ぶ度に、一番前で腰に手を当てているあたしとは正反対。アクセサリーやお化粧に興味を持つ前から、莉緒という女の子が持ち合わせているものはぜんぶ優れているように見えていた。
「イルカに悩みなんてあるのかねえ」
「うーん、それはわからないよ。莉緒」
「イルカについて書かれた本が売店に売っているかも。後でちょっと覗いてみよう」
この年頃から『真鈴ちゃんは人形みたいでかわいいよね』、『なんでフリフリの洋服を着ないの?』などの質問を受けることが増えていく。もちろん、外見を褒められることは気にならなかったけど、あたしの心の動きに一番興味を持ってくれる存在はきみだったんだよ。
「真鈴はイルカをみて、どんなことを思っているの?」
「……お母さんと離れて過ごしているのかな、なんて」
「ごめん。変なこと聞いちゃった」
「ううん、気にしないで。逆に莉緒はどんなことを思っていたの?」
「真鈴と一緒だよ」
あたしの心の中に言葉にできないさみしさが生まれて、莉緒のTシャツの脇を小さくつまんだ。両親と離れ離れでも、莉緒とめめばあちゃんがそばにいてくれればいい。言葉にして届けられない想いを、ささやかな願いに変えられるように。
きみはまるであたしのお姉ちゃんみたいだったよね。それなのに、とぼけている時は妹みたいで放っておけないし。その肌のあたたかさに包まれている時は、お母さんのことを思い出す瞬間もあったんだよ。―――この気持ちは、もう伝えられないのかな?
「あっ、奥のお部屋にお母さんがいるみたいだよ。看板に書いてある」
「そうか。安心した。逆にお父さんとは?」
「あたしたちはきっとこの話をしなくてもいいかもしれないよ。」
「ごめん。もう終わりにしよう、真鈴」
あたしのくぐもった声が水族館のホールに響く。この言葉を放ったのは怖いことを思い出すからではなく、『役名がついた大人』が会話の中には必要ないという意味だった。本当はあたしから謝りたかったけど、強い言葉と責め立てるような口調になってしまった。
さっきからお臍の下がちくちくと痛むのはどうしてなんだろう。
このホールは冷房がよく効いてて寒いぐらいなのに、じわりと脂汗が胸と胸の間に浮かんでくる。目の前の景色も、ちかちかと点滅するように揺れてきた。突然身体中がふわりと重みを失いそうになり、莉緒の左手を思わずぎゅっと握る。
「どうしたの。真鈴。顔、真っ青だよ」
まるでおばけに取りつかれたみたいな不快感が、あたしの全身の力を奪っていく。お腹の痛みはまるで内側から爪を立てられているようにどんどん強くなってきた。あたしは思わずその場にしゃがみこんでしまう。莉緒に自分の身体の中で起こっていることを伝えなきゃ。だけど、うまく表す言葉がなかなか見つからない。
「わ、つめた……」
莉緒に手を引かれてベンチの上に座ると、おしりの間に冷たいものが伝う。気持ち悪さに声をあげると、液体は下着の間をくぐり抜けてべっとりと太ももにくっついてしまった。きっとこの現象は『きたない』ことなんだろう。突然の出来事に、わけもわからず涙が溢れ出しそうになる。
「ん。持ってきてない。リュックの中に入ったままだ」
「真鈴。ちょっとそこで待ってて」
莉緒は突然ロケットのような速さで階段を駆けあがっていった。そのうしろ姿を見て、『きっと莉緒が助けてくれる』という安心感がぐらついた心をなぞる。莉緒の帰りを待ちながら、あたしはポシェットから花柄のハンカチを取り出し、浮かび上がった汗をふき取った。
不安定な気持ちの中で、ふとこんなことを思っていた。あたしは莉緒の記憶の中でいちばん色鮮やかな思い出になりたい。この水槽の中で暮らすイルカやシャチ、色とりどりの磯巾着たちといっしょに。いつかこの場所に、他のお友達と一緒に訪れたとしても。家族と呼べるひとと遊びに来たとしても。今のあたしたちと同じ年頃のこどもが生まれたとしても。
―――ずっとそばに居続けることが叶わないのなら。せめて莉緒が「また会いたい」と思ってくれていた、あたしの心、身体、声は残り続けてくれるのかな。
「これ、トイレに行ってショーツとお腹の間に挟んで。」
「うまく説明できなくてごめん。真鈴が具合が悪そうだから、早く帰ろう」
きっと姿を変えてしまうから、あたしたちの身体の中でこんなことが巻き起こるんだよ。当時小学5年生だったあたしは、自分たちに訪れる変化に恐怖を張り巡らせている。それに、莉緒と一緒に行きたかった水族館を訪れたにも関わらず、くだらないことでおしまいになるなんて寂しくて仕方なかった。
「ごめんね、りお。行きたいって言ったの、あたしなのに」
「いいよ。来年でも再来年でもいいから、また来ようよ」
「ありがとう」
莉緒からの答えを聞いた途端、心臓はふわりと音を鳴らした。トイレの個室に入る瞬間まで、涙があふれて止まらなかった。大丈夫、今年の夏だってすぐ終わるわけじゃないし。来年も、再来年もまた来てくれるって、伝えてくれたから。勝手に色んな事を思い込んでいたのたのはあたしだけよね。
「……こうかな?」
莉緒がくれた生理用品を広げて血濡れた部分に当てる。家に帰ったら下着を変えればいい。お腹の強い痛みはなかなか収まらないけど、不快感は和らいでいく。洗面所で手を洗って、個室を出ると入口の前にある鏡の前のワンピースにシミができていないことを確認する。
「ごめん、待たせちゃったよね」
「いや。謝ることじゃないと思うけど」
相変わらず元気がなさそうな言葉で返してくる。子どもながら、莉緒がぶっきらぼうなことは理解していた。あんなに人見知りだった自分のほうが、最近はみんなに笑顔を振りまいている気がして、ふふふと笑ってしまった。それに、どこか素っ気ない言葉が薬のように痛みにすっと効いた気がしたから。
「お金はめめばあちゃんがたくさん預けてくれたから、タクシーで帰ろうか」
「うん。」
女性として生まれた以上、この痛みは決まった周期で訪れるらしい。保健体育の教科書に記事が載っていたけど、こんなに苦しみや痛みをともなうものだとは思っていなかった。下半身の不快感はなくなったけど、ほのかな頭痛と身体のふらつきはなかなか取れず、莉緒の腕にもたれかかってしまった。
「あたしももう来たし。怖いでしょ?はじめてだと」
「そうだね。こんなに痛いとは思わなかったから」
「家に帰って薬を飲めばよくなるよ。めめばあちゃんがきっと栄養になるものをつくってくれる」
今掴んでいる莉緒の右腕は少しやわらかくなったような気がする。あたしが思っている以上に、莉緒は大人になってしまっているのかもしれない。やっぱり寂しいと思いながら、莉緒の手のひらを反対の手でそっと触れると、何気なく握り返してくれる。
―――莉緒に対してのこの気持ちを、言葉にすることが難しかった。結局出来ずじまい、あたしは『死んでしまった』のだけど。古ぼけた水族館の看板を揺らすほど強い風が、ふたりの間を吹き抜ける。おしゃべりは止んでしまったけど、このひとときすら心地よかった。
★★★
この頃から『病気』は、はじまっていたのかもしれない。
どんなにせつなさをこらえようとしても、身体の成長は止まらない。ふたりで夏を過ごすたびに、腰、うなじ、お臍の下、二の腕、太もも。さまざまな場所に赤い斑点が現れていた。
もしも願いが叶うのなら、莉緒のやさしい手を映し出す水面になりたい。
少しずつ記憶がおぼろげになっても、きみが差し出してくれた優しさは絶対に消したくない。ひとりぼっちの海の中で、そんなことを想いながらただ息を繰り返し続けている。
「……わ、ったあ、」
突然、あたしの手を勢いよくはたくような感覚が襲った。薄いプラスチック……?料理を混ぜるヘラのようなものだろうか。海のいきもの以外、存在しないこの世界を誰が侵略しようとしているのかな。もしかしたら、海女をしていためめばあちゃんかな?
「あった、かい?」
このぬくもり、知ってる。あたしのとなりにずっとあったものだから。遠く離れていたとしても、何年の時間や季節を隔てても、この血液や胸の音になり、絶え間なくこの心臓を叩いていた。でも、そんなはずないよね。きみは泳ぐことが苦手だったから―――…。
自分が起きているのか、眠っているのかさえもわからない。身体が波を立てるたびに欲しがるのは、莉緒との思い出や、めめばあちゃんとの暮らしだけ。それだけで十分だった。
かすかな希望を胸に抱えながら、突然迷い込んだ影と鬼ごっこをはじめた。




