デウス・エクス・マキナ―――⑧
東京の空気は薄っぺらい気がする。
夕方ごろから町を散策して、路地裏の猫に餌を上げたりとか、駄菓子屋の店主に挨拶をしたりとか。ささやかな楽しみを見つけてもよかったのだけど。身体が冷え込むと仕事にも響いてくるので、また次回に仕切り直すことにする。
次って、いつ? 仕事? 私用?
日差しが照りつける夏?それとも、紅葉が色つき、凪がそよめく時期か。わからないけれど、あたしは近いうちにまたあの街を訪れることになりそうだ。
「つかれたなあ。」
苦手なことに挑戦したから、身体中の筋肉が強ばったこともあるし、何より気疲れした。子どもの頃は、真鈴と毎日遊んで、時々勉強を教えたり、めめばあちゃんの手伝いをしたり、一緒に自由研究の課題に取り組んだ。
あの元気は一体どこから湧き出てくるものだったんだろうか。
「割りそうだから置いておこう」
海底から採取したふたつの検体をきちんと保存するのならば、発泡スチロールにまとめて親父に直ちに手渡し、冷蔵保管を依頼するのが筋だ。だけど、ぬいぐるみひとつすらない無機質な部屋に飾ってみたい気持ちもあった。
「なんだか不思議な感じだなあ」
緑・黄・青。さまざまな色が滲んだ海の欠片は、見方によってはグロテスクだ。だけど、その色ひとつひとつに何故か心が惹かれていった。
数十秒間見つめていると、突然後頭部を強烈な眠気で殴られた。催眠とか、占いとか、目に見えないことには興味のないタイプだけれど。まばたきが強制終了され、口を大きく開いたまま、枕に顔を埋めてーー……。
★★★
真鈴が同じ学校の同級生とは明らかに違う点があった。言葉にすることがなかなかむずかしいけれど、あたしの中で『差別化』をはじめたのは中学に上がった時ぐらいだろうか。
「莉緒ちゃんゲームやるの上手だよね?」
「このカード、もってない?」
自分はきっとクラスのヒエラルキーの中では上の方にいたと思う。だけれど、当時一緒に行動していた同級生の顔や名前も思い出せないぐらい、あまりにも興味が湧かないまま、印象の深い思い出も残っていなかった。
「ゲームは持ってるけど、そのキャラはもってない」
「ええ~!莉緒ちゃん、頭がいいからゲームも上手だよね!嘘だあ」
「何のためにそんな嘘をつくの?」
「そういうところ、ちょっとクールだよね」
「12面までクリアすれば、もらえるんだよね? おじいちゃんの家から取り寄せたアイス、あげるから……クリアするまでやってもらっていい?」
当時から、子ども同士の利害の絡んだ遊びが多かったことも要因だろうか。あたしが周囲の人間とコミュニケーションを取ることが苦手だったからだろうか。
何にせよ、おいしそうなアイスをもらえることは悪い条件ではなかったし。年頃の女の子の『遊び』とはどういったものなのか知ってみたいという好奇心もあり、あたしは同じマンションの同級生の家に立ち寄ることにした。
「………」
「お母さん、本当にうざいよね。洋服や友達のことにもケチつけてきて」
「ありえない、育ててあげてるからって偉いわけじゃないんだよ。あはは!」
木琴が主旋律のゲームのBGMが、波立つあたしの心を癒している。ふたりの盛り上がる会話の中で、あたしは仏像のように黙り込み、ただただボタンのように手を動かしていた。
「莉緒ちゃん、大丈夫かな?今日中に出来そう?」
「いや。わからないけど……あとちょっとで終わらせるから待ってて」
「優しいね。頭も良くて、運動もできてすごーい!見習わなくちゃ」
「マンションでも上の階だからねえ。ねえねえ、部活は何部に入る?」
さっきからうるさいんだよ。彼女らの両親の悪口が飛び交う空間の中で、教科書に貼り付けた付箋のような褒め言葉を貼り付けられた。あなた達と喋りたいとは微塵も思えない、かたちのなき怒りに足の指先に強く表した。ーーー早くクリアしたい。
「クリアしたら喋るから。少し待ってて」
「莉緒ちゃんはおしゃべりすることが苦手なんだね」
「無理しないでいいからね? アイス食べたら帰っていいんだよ?」
決して仲間外れにはされていない。だけど、グループに入った瞬間、異端児扱いをされてゆるやかな排斥を受ける。クラスや学年が変わってもそういった扱いをされていることが多かった。
「うん」
「お父さんも気持ち悪いよね。洗濯物一緒にしないでってお母さんに言ったのに!」
「あはは、それうちも一緒! 塾の宿題をやらなきゃゲームを取り上げます!ってね。ゲームをすることだって頭使ってますよって」
じゃあ、なんで自分自身で好きなキャラクターが出てくるまでクリアしようという根気がない?……もうやめたい。あたたかい雰囲気のリビングの中で、こんなに気分が悪くなる話を聞かされたくない。でもやると言った以上はクリアしなきゃ。あと少し。
「終わったよ。これでいいんでしょ?」
「わあっ、ありがとう!莉緒ちゃん!ハートとリボンの衣装、すごく可愛いね」
「えっ、あたしの分もやってよー!お母さんのお店で出してるチョコレートもあげるから」
彼女らにとってあたしは褒美をあげられるペットなんだろうか。まあいい。孤立しても別に構わないから、これ以上彼女たちに関わりたくない。あたしは通学カバンに素早く荷物をまとめ、1秒でも早くこの空間から抜け出したかった。
「じゃあね。」
「えっ、アイスは?いいのー?」
「お菓子もあるよー!」
彼女達の声がけを無視しながら、玄関の鍵を勝手に開け、振り向きもせず退出した。自宅に招いてもらったお礼程度は伝えたほうがよかったかもしれない。だとしても。あまり気分のいいひとときではなかった。
もやもやとした気持ちを抱えながら、マンションの階段を登る。エレベーターの方が楽なのに、ゆるりと春風に吹かれてみたい気分だった。
踊り場から景色を見下ろすと、中庭にある広場に桜の木がそびえ立っていた。
学校に生えているほど大きな木ではないのだけど、薄桃色の花びらが落ちる様子を眺めていると気持ちが落ち着いていく。
『りお、さくら、きれいだねえ』
この景色を見たきみは、きっとその花を指差してふわりとやさしい笑顔を浮かべるだろう。ふたりで肩を並べて、同じ景色を見つめること。そんな淡白な日々の連続が、あたしにとっての『本当にたのしい遊び方』。
真鈴も本島の中学に上がり、はじまる新生活で忙しくしているだろう。
この景色を、夏以外の風景と色を。ともに見つめることは叶わない。はじめて覚えた切なさを、奥歯いっぱいに噛み締めた。
信じているなら、歩みを止めちゃいけない。
些細なことに腹を立てたり、憂鬱になったり、さびしさを感じることもあるけど、次の夏を目指して暮らしていかなくちゃ。
あたしは普段よりしっかりとした足取りで、階段を踏みしめる。父とともに暮らす部屋に到着すると、ひとりで自宅の鍵を開けた。
★★★
「ばあちゃん、ただいまー!」
「あれ、莉緒はもういるのかな~?」
その年の夏は、真鈴の終業式の日に到着した。真鈴が通学に利用している船が遅れた関係で、帰宅が正午を過ぎていたことを覚えている。
1秒でも早く会いたい。いやいや、流石に取り乱しすぎでしょ、という焦燥を振り払うように、みしっ、と木製の床の音を立てながら、居間から玄関までの距離を一直線に走り抜けた。
「あっ、莉緒!おかえりなさい。」
あたしがうっかり脱ぎ散らかしたサンダルを、白い爪先が揃えてくれた。真鈴は、糊がついた新しいセーラー服を着て、ふんわりと笑みを浮かべている。見たことのない制服に身を包んだその姿は、真鈴が『違う日常』に生きていることを思わされた。
「ただいま、真鈴」
でも、関係ない。この季節を迎えれば、日常はふたりだけのもの。何気ない挨拶を交わすことが、夏がはじまる合図だ。そっと掴んだ手のひらは少しだけ汗でしっとりと濡れている。
「挨拶がさかさまでおかしい。あたしが『おかえり』って言ったから?」
「いや? 別にそんなのどうでもいいけど。真鈴が『おかえり』って言ってくれると、胸がぎゅっとなる」
「疲れちゃったんじゃないの? 毎年毎年、よく東京から来てくれるよね」
自分の本心をいきなり吐き出してしまったような気がして、焦りながら左手で口元を覆う。真鈴のやさしい返事が過度な緊張から救ってくれた気がする。
真鈴の手を引きながら、冷房の効いた居間へ向かう。きみが待っていてくれるからだよ、と告げようとすると、その手はするりとほどけていった。
「シャワー浴びてくるね」
「わかった。タオル置いとくね」
「ありがと。」
真鈴はぱたぱたと手を振りながら、脱衣所に消えていった。この頃から、真鈴という存在が東京の同級生とは違う認識なんだということを思いはじめた。
ーーー窓の向こうではセミの鳴き声がする。空いた隙間からは真っ白な入道雲がのぞく。太陽のひかりは皮膚にまとわりつくようだ。
他の誰かの前ではアンドロイドのような表情を浮かべていたきみが、あたしの前でいきいきとした声で喋ったり、混じり気のない笑顔を向けてくれる。
その姿がほかの何よりも可愛らしく、思い出をひとつひとつ増やす度に心が洗われていくようだった。
大切だったんだよ。ほかの誰よりも。
★★★★
こんなかたちになって、東京を訪れるとは思わなかった。今現在のあたしが認識できるのは、容器中でゆすられる振動、わずかながらの触感、かすんだ視界。
「……ま……ご……」
カーテンがしまった部屋の中。電気すらついてないはずなのに、人間と思わしき影が揺れている。目の前にいる女性は、口元を動かしながらあたしに何かを伝えようとしている。
……莉緒? あたしをこの場所に連れてきてくれたのは、きみなの?
何か悲しいことが起きたのかな。それとも、あたしが死んだことに関わっているのかな。
その涙を拭ってあげたい。だけど、指は海の底に置いてきた。そもそも人間であったのは遠い思い出の中だけで……。
励ましてあげたい。背中をさすってあげたい。海に潜って怪我をしていたとしたら、ちゃんと手当をしてあげたい。莉緒があたしにしてくれたことを、ちゃんと返してあげたいんだよ。
ーーーあたしを、容器の中から出してほしい。莉緒が繋いでくれた手があるのなら、強く叩いて存在を知らせる。爪先に血が滲むほど、ガラスを強く引っ掻くだろう。どんなに涙があふれてもきみのそばにいるのに。
なのに、どうして、この病は。
『会いたい』という透明な思いが、ばらばらに砕けた命の中にあると思い知った。




