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最期の海に咲く花  作者: みつき
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デウス・エクス・マキナ―――④


あたしを乗せたバスは、汐見ケ丘の海岸へ向かう。

昨日の疲れはしつこくこびりついていて。目を瞑るだけで眠り落ちそうなのに。瞼の裏に映る太陽の光が、こめかみにつんと痛みを与える。『こんな身体で海に飛び込めるのか?』なんて、かすかな疑問を抱えながらうつむいた。


「ん……職場? 親父の怪我の件かな」

スマートフォンの画面をぼうっと見つめていると、突然職場から電話が掛かってきた。今日は休みをもらっているので、仕事の電話に出なくていいことになっている。やはり親父の件が気がかりなこともあり、仕方なく出ることにした。


「莉緒さん。交換手です」

「どうした? 今日がお休みをいただいていることは伝えておいたけど」

電話をしてきた相手が予想外で驚いた。今日はたしか新入りの事務員さんがひとり、電話番をしているはず。急ぎでない連絡は、後日出勤した際に彼女から伝言される。もし、緊急の連絡ならば親父から直々にかかってくるはずだ。


「宮内若葉さんのお母さまからのご連絡です」

「内容は?」

「どういったご経緯でかは私にはわかりかねますが……莉緒さんにお急ぎでお伝えしたいことがあるそうで、出ていただけますか?」

「わかった」

若葉さんの傷口が化膿したとか、絆創膏の取り替え方とか。そういう問題か。なら、医療部でも引き受けてくれるはずなんだけど。まあ、出るといった以上聞くしかない。今のところ、バスの中にはあたしひとりしかいないし、他人の迷惑にはならないはずだ。


「宮内と申します。先日はどうもありがとうございました」

「はい。ご体調はいかかでしょうか?」

「昨日私も退院できまして、若葉も元気に保育園に通っています」

「よかったですね。今回はどうされましたか?」

「莉緒さんとお父様、カレンさん?という方にお礼をお伝えしたくて。みなさん署にはいらっしゃらないようで。お休みなのに無理を言ってすいません」

出た。お礼。あたしはまた神様仏様のように言葉で奉られるだろう。そういう内容なら、後日あたしから折り返しの電話をする。交換手も緊急ではないと判別できたはずだろう。不安定な情緒が音のない舌打ちをしたつもり―――だった。


「結局髪の毛も戻らないし。身体つきも変わってしまったけど。若葉は私が母親だということに気が付いてくれた。『ママ、おかえりなさい』って、私の手を握ってくれたんです」

「莉緒さんが若葉を救ってくれたから……」

若葉さんの母親から切々と想いが告げられる。たしかに、あたしは”仕事”というかたちで若葉さんを助けた。さらに、双方が入院生活の中で楽しいひとときを送ってもらうために誕生日会を企画した。

だけれど、この街を訪れるあたしは、大切なひとひとりの手さえ握れなかった小さな存在であることに変わりはない。突然正体のわからない感情に包まれて、ズボンの上で左手を強く握った。


「私は莉緒さんと比べていい年をこいたおばさんですけどね。こうして姿かたちが変わっても、『会いたい』と思うひとがいてくれる幸せを噛みしめています」

電話口の声を聞きながら窓辺に目線を落とすと、海岸線に初夏の日差しが零れ落ちている。古ぼけたバスのタイヤは、塗装のはげた道をひた走り続けている。あたしは若葉さんのご自宅からは何100キロも離れた場所にあるのに。”姿かたちが変わっても”。という言葉が、心に深く突き刺さった。


「ええ。とても光栄です」

「どうか莉緒さんの大切なひとにも幸せが降り注ぎますように」

「ありがとうございます。では、そろそろ時間がさし迫ってきましたので」

無機質なアナウンスは目的地へ到着を伝える。相変わらずぶっきらぼうな返答で電話を切ってしまう自分自身が嫌いになった。でも、もやもやなんてしてられない。”あの日”から長い時間が経ち、約束をなくしてしまっても。あたしの両足はこの場所に場所に降り立ったのだから。


―――バスを降りると海風が出迎えるように勢いよく吹き抜けた。太陽のひかりはちりりちりと皮膚を照り付ける。思い切り息を吸い込むと、少しだけ塩の匂いが鼻に残る。


「そうだ、めめばあちゃん」

到着の目安時間は、午後13時と伝えてあるけれど、3分程度過ぎてしまった。きっとベットの上で休みながら、窓辺を見つめてあたしを待っているだろう。丘の上にあるガラス張りの建物が、めめばあちゃんが暮らしているホスピスだそうだ。


「よいしょ」

あたしはカメの絵が描かれている堤防に乱雑にリュックを置く。近くに人影がないかを確認すると、ガラス張りの建物に向かって大きく手を振る。到着の一報を電話で伝えようかと狼狽えていると、ラウンジに小柄な女性と付きそい看護師の姿が見えた。


「めめばあちゃん! りおだよーっ!」

この距離から聞こえるはずがないけれど、その姿を見つめて思わず名前を呼んでしまう。

家庭菜園や海女の仕事で日に焼けていためめばあちゃんの肌は、随分と白くなってしまった。それでも、ガハハと笑う豪快な笑顔は変わっていない。

めめばあちゃんと看護師さんは、あたしに向かって両手を大きく振った。遠くから見てもはつらつとした表情に胸を撫でおろすと、振り返って地平線を見つめた。


本当はこの場所を訪れることが少し怖かった。だけれど、10年近い時間が経過しても、この景色が変わっても。汐見ケ丘はあたしの童心を解き放ってくれる不思議な場所だ。


★★★


―――東京では聞こえることのない、穏やかな凪の音。耳先でひとつひとつを確かめるほどに、ざわめいていた心が落ち着いてくる。

真鈴に対する手がかりはまだ何も見つけられてない。ただただ、ふらりと一人旅に来ただけになるかもしれない。それでも今日という一瞬が、あたしの記憶に残り続ける確信が持てた。


「足にひれをつければカナズチが治るかな」

あたしは海の家でウェットスーツを借りて、ひとりで海岸に降り立つ。素足に絡む砂の感触が懐かしい。日差しの熱を帯びる足先にプラスチック製のひれをつけて、浅い水面でバタ足を繰り返す。

海の家の店員から『初心者向け』と、説明が付けられたそれを装着すると、疲労がこびりついた身体にふわりと羽根が生えたような感触を覚えた。


「潜ってみるかあ」

『会いたい病』の捜査にしては随分とこじんまりとしているし。海面調査に対して知見のある人間がいない時点で単なるおふざけもいいところ。めめばあちゃんとふたりで思い立っただけの行動だ。

それでも。だとしても。あたしはあの日を越えられるように、と願いながら。


このままじゃ自分の知らない場所まで連れていかれそうな予感がする。だけど、子どもの頃のような恐怖心はまったくない。この息がむせいでも、強い波が身体を攫っても。たとえ、命をなくす瞬間になっても構わない―――……。


今まで覚えたことのない強い感情が、あたしの身体を最期の海へと進ませた。

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