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最期の海に咲く花  作者: みつき
30/50

デウス・エクス・マキナ―――③

「何を持っていったらいいのかわかんない」

自室の片隅に放り投げたリュックは、あの街に落ちていた蝉の亡骸のように見えた。

何かあった時のメディカルID、日焼け止め、多めの現金、真鈴とよく食べていたどうぶつ型のビスケット。カレンからもらった鈴の付いたお守り。ウェットスーツは海の家で借りればいい?……数年ぶりに訪れる汐見ケ丘は、どの程度街の景色が変わったのかすら、予測できない。


「めめばあちゃんの家は、電気が止まっているのか」

めめばあちゃんはホスピスで最期を迎える覚悟をしたそうで。

入院する前にある程度の荷物や契約を整理し、家の中は空き家同然の状態だそうだ。


あの街に住まう人間はみんな陽気で、小さな子どもやお年寄りなど、さまざまな人物が声を掛けてくることが想像される。ただでさえ、久々に心の感覚が戻ってきたこともあるし。

変に気疲れはしたくない。少し現地を散策した後、ひとりで休める場所が欲しい。


「やっぱり車で行こうかな……」

今回の外出は”私用”扱いになるそうで、仕事の車を借用できない。一応数時間に一本しかない特急の乗車券を購入したけど、やっぱりレンタカーを借りようかとか、一度考え出すと止まらない。今日は仕事すらしてないのに、謎の疲労に包まれた身体をベットの上に預けた。


「もうこんな時間だ」

ベットサイドに置いてある時計は、午後10時を指している。ごちゃごちゃと頭でっかちになることをやめて、とりあえず眠ることにしようか。リュックのチャックを勢いよく閉めると、テーブルの上に置いたPHSが勢いよく震えた。


「まじか」

帰り際に事務所の机に忘れ物がないか確認したから、きっとオンコールに間違いない。

本当はあまり眠たくないし、むしろなかなか寝付けないぐらいの緊張が訪れている。これから更なる疲労で上塗りされるなら、新幹線の中でひとねむりすればいい。


―――行かなきゃ。たしかな決意を纏った指先が、通話ボタンをなぞった。


★★★


カレンはコンサートのリハーサルから帰ってきてないようだ。親父は一足先に現地着をしているようで、ひとりで歌舞伎町に向かった。全身黒ずくめの防護服でゴールデン街を降り立ったあたしの姿に、街頭のキャッチの奴らは目をこすっていた。


「……ぎゃあぎゃあ騒いでないで、開けろ」

なかなか開かないホストクラブのドアを、蹴破る勢いで体当たりする。中に親父がいることなんて忘れ去って。今日はいつもより無我夢中なような気がする。店のスタッフが重苦しいドアを開けると、あたしは手帳を提示して肩書を名乗った後、豪勢なフロアの奥に進んだ。


「はいはい、警察です。具合の悪い方はどちら?」

ミラーボールのぎらつきが視界に絡みついてきてうざったい。部屋に充満しているのは白っぽい煙。薬物ではなく、今はやりのシーシャといったものか。見慣れない光景の全てが、あたしの視界を邪魔する。じっと目を細めると、小柄な男性が床に仰向けになっている。


「まゆずみさんー。警察ですよー。わかる??」

男性の瞳孔はしっかりと開いていたが、返答はなかった。涙を流していたのか、目じりが少し潤っている。呼吸状態も良好で、脈もちゃんと取れている。それほど強い精神的なショックが襲ったのか、肩を何度叩いても屍のようにびくともしない。


「癒着はソファーの表面ですか」

「家に帰りたがっていたんです。だけれど、数日前に家をなくして店に泊まっていました」

「そう」

左側の指先からひじにかけて、カーペットに皮膚が接着している程度だ。それ以外の臓器がある場所や太い血管を避けながら切除ができそう。やはり滲出液からの感染は否定できないので、換気のできない室内からは他のスタッフには退出してもらう。


「彼はこの店のエースなんです。お店の存続がかかっているから、どうか……」

「お姉さん、わかりましたよ。ただ、危ない病気なので一度店の外でお待ちください。

 堂島という刑事が誘導しますから」

店の経営者だと思われる女性には、左腕に蛇柄のタトゥーが入っている。この症例にどういった事情があって夜の歌舞伎町で働くことになったのかはわからないが、『どうか』という言葉の真意すら怪しい。まあ、今の時点ではわからなくてもいいけど。


「細い……」

今日は親父からの遠隔補助がないため、自分の視力と感覚に頼って血管に針を指す。比較的簡単な症例のはずなのに、グローブの内側に手汗が滲んでいく。緊張をしているつもりはまったくないのだけれど、怪我が治ってからはじめてだからなのか。


「誰だよ、お前」

「あたし? 警察だよ。少し痛いけど我慢して」

「痛いなら殺せって言ってるんだよ。もうこんな世界に生きたくないから」

症例の精神を落ち着かせるより、今は処置に集中したほうがいい。あたしは、その言葉が聞こえないふりをして、症例の指先にそっとメスを入れる。彼は痛みをこらえているのか、右側の動かせるほうの手でコンクリートを音を立てて叩き始めた。


「なんであんたが死にたいかどうかわからないけど、今は静かにしていて」

「どうせお前たちは言うんだろ? ”生きることは素晴らしい”って」

「……」

めんどくさい人間に当たってしまった。人生の意味を問われても、あたしは神様でも仏様でも天使でもお坊さんでもないので答えられない。もう、何も聞こえないことにしておく。一旦、指先の癒着部分を剥がせた。ガーゼで包んでおいてあとは肩の付け根。ここはちょっと集中しなくちゃいけない箇所だ。


「助けるだけ助けて。あとは野放しだろう。もう生きててもしょうがないんだよ。あのひとがいない世界なんて」

「……」

あたしがもし競走馬なら、お願いだからメンコを付けてさせてくれと暴れるだろう。なるべく傷口の侵襲を少なく、短時間で縫合を済ませられるように。日々のリハビリを生かして、普段の技術を取り戻せるようにと心がけながら、皮膚にメスを滑らせる。


「あんたみたいな幸せそうな奴を見ると、反吐が出る」

「オレを生かすなら殺してやる」

彼は発症する前から精神疾患を患っていたのだろうか。あたしへの加害を懸念されるので、ガイドブザーを鳴らして部屋の外のスタッフに知らせないといけない。だけど、もう一秒、あと一秒だけ待ってくれ。ここから刺せば、組織の密度が高い部分を傷つけずに済むから。


「嫌だ」

症例の右手は、あたしの左手を患部から払いのけようとする。本当は刺してやろうか、と本能が揺らめいたが、どうせ縫う箇所が増えるだけなのでやめておく。どんなに拒否をされても、刃を入れた以上は処置を止めることはできない。目の前の人物がどういう人生観を持っていたとしても、救い出すことがあたしたちの仕事だから。


「殺してやるって言ってるんだよ」

その言葉と共にボールペンを強く握った手が、あたしの頸部を目掛けて振りかぶってくる。

今までのあたしなら『殺したいなら殺せ』と、間違いなく伝えていただろう。目の前の症例を片付ければ、生きることにそれほど執着を持っていなかったし。それでも、汐見ケ丘を目指すために明日が来るとしたら。


「待てっ……」

いつかこの手を。誰かを救ってきたこの手を。たくさんの涙を拭ったこの手を。真鈴は包み込んでくれるだろうか。どんな姿かたちに変わっていたとしても、子どもの頃と同じようにあたしの身体に触れてほしい。その尊い指先があたしの傷跡をなぞって、悲しまないように。―――自分の身を守らなきゃ、そんな願いが加害を止めた、はずだった。


「行け、莉緒。よくやったぞ」

「明日真鈴ちゃんのところへ行くんだろう? もう帰って明日の準備をしなさい」

突然フロアに戻った親父の影が、あたしの前に立ちはだかった。筋肉質な両腕で、症例の右手を掴んでいる。ボールペンの先が手の甲に刺さったのか、親父は唇を噛みしめながら額に汗をにじませていた。こんな状況だというのに、その声はまるで子どもの頃のあたしに言い聞かせるような落ち着いた口調だった。


「親父っ! 怪我はないか」

「ちょっと痛いけどな。平気だぞ。もう縫合は終わっただろう?」

親父の力に震えおののいたのか。それともやっと鎮静剤が効いてきたのか。症例の右手は、だらんと冷たい床に再び落ちた。親父の助けがあって加害から逃れ、切除も縫合も無事に終了した。もしあの腕があたしの首に突き刺さっていたら、明日の遠出は到底困難だろう。


「ありがとう、でも……」

「縫合は終わっただろう? 莉緒の仕事はもうなくなった。あとは我々に任せろ」

「わかった」

あたしは深呼吸し、鼓動の調律を整えてから返事をした。同時に汗まみれの防護服を脱ぎ捨て、廃棄物としての処理を依頼する。その大きな背中を横目に見ながら、ぎらついた空間から退出した。

非常階段を降りると、避難テントの前で同じ部署のスタッフに声を掛けられる。適当に相槌を打ち、ひらひらと手を振りながら現場を後にした。


暦の上ではまだ6月だというのに、やけに肌に汗が絡む真夜中。

どんな季節になるのかわからない。希望なんてかたちなきものは存在しないかもしれない。ボロボロになった思い出のかけらを拾い集めるだけかもしれない。それでも構わなかった。


明日の朝、あたしは汐見ケ丘(約束の場所)を目指す。



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