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「はっ……はっ……、はっ……」
湖まで走る。走って走って、躓いて、走って。
——速く速く早く早くっ!
速く走って、早く着いて。
それだけを願って足を動かす。
湖があるのは郊外の森の奥だ。立ち入り禁止という訳でもないが、人の寄り付かない場所でもある。町の中心部で買い物をしていた為に目的地が遠い。一秒でも、それがジークの魂を元に生み出された時間と思えば惜しいのに。
振り切ってしまったリートには申し訳ないと思う。あんなに心配してくれていたのに。リートだけではない。リサリーにも、サンザにも、アネルカにもシェードにもアニタにもレリータにも、今生で関わった全ての人に申し訳がない。
でも、駄目なのだ。私の心が耐えきれない。堪らない。
できることなら今すぐにでも首を掻き切って、舌を噛み切って、息を止めてしまいたい。
でも、魂を返さなくては。その為に神に伺う必要がある。乞う必要がある。あの湖以上にリースで神の目に留まりやすい場所はない。できるかは分からない。本当に神の目に留まれたとして、神は慈悲を与えてくれるのか? 一度、既にそれを与えられた身と魂なのに。何より、ジーク自身が望んでいないだろうに。
それでも、行わないという選択肢はない。
「はっはっ……、……はぁ……っ」
息が切れる。肺が痛い。運動不足ではないにしろ、そこまで体力があるわけでもない身体が急な運動についてこられていない。止めてしまいたいとは思わないけれど辛いことに変わりはない。
それでも段々と町並みは商店街から住宅街へと移って。舗装された道に途切れが見えて。
——ああ、漸く。
森が、見えてきた。
「はぁ……、はぁ……」
ここからは歩いて行く。勢いのまま進んでしまうと迷子になってしまうから。
湖はそれなりに入り組んだ場所に存在する。でなければ、あまり踏み入られることのない地といえどとっくに魔女の秘密ではなくなっているだろう。
森に入って、奥へと進むにつれ段々と木の密度が高くなる。すると中に傷の入った木が一本見つかる筈。
——どこ。
当たり前だ。魔女になるために湖を訪れたのなんて、十何年も前なのだから。もうあやふやに輪郭を失いかけている記憶を何とか形にして進むしかない。
もしその木を見つけることができたなら。
『左に真っ直ぐ進んで、暫くすると今度は二股に分かれた木があるわ』
次の木まで進んで。
『次は右に曲がる。森の奥の方ね、ここからは曲がらずに真っ直ぐ歩くだけよ』
そう。真っ直ぐに歩いて行くと大木が見える。私の住んでいた家くらい余裕で入ってしまいそうな程の太さの大木が。
『その木の幹は空洞になっていて、できた空間の中に』
湖はある。
「…………あ」
久しぶりに見た、その湖。
美しい美しい、リースに生まれた全ての魔女が身を投じた湖。リースの神が住まう湖。
激しい動悸がする。耳の奥ががんがんと煩い。
『少しでも怖くなったら、駄目だと思ったら直ぐに引き上げてきなさい』
かつての私に、母はそう言った。
私はもう二度と魔女にはなれないだろう。母の肩代わりのために私は魔女の力を与えられたけれど、本来身を投じた人間の望みや願いの反映された力を神から賜るものなのだ。
ジークが私に器を用意したように、必ず魔女の力を得る訳ではない。
だから私はもう二度となれない。人の為の私でいられない。
今でも揺らめく赤色が私の心を燻り続けるから。
それでも、私は子供たちを愛している。
私を魔女ではなく、母の死を悼むただの娘にしてくれたあの子たちを。
私に傘をさして、「大丈夫?」と言ってくれたあの子を。
だから、上手にできる。
靴を脱いでそっと水の中に足を沈ませた。冷たくも温かくもない、人肌のような心地はあの頃と変わらない。沈む。沈む。ぶくぶくと、口の端から泡が上った。
沈もう。神にお願いをしよう。
どうか私の中のあの子の魂を、持ち主の元へと返してあげて下さいと——。
「フィーネッ!!」
はっと息を呑んだ。
沈む体を遠慮も配慮もない力強さで引き上げられる。
主導権を握り切れていない体は不安定で、水の中でたたらを踏む。転びかけて、体勢が落ち着いて、心が激しい動悸を訴えた。
なんで? どうして?
言葉を上手く紡げない。
「……リートの様子がおかしいから聞き出してみたら…………。やっぱり、ここだと思った」
なんで。
「ジー……ク…………」
ここにいるの?
——あーあ。失敗したね。
誰かが笑う。愚かだねと、浅はかだねと、馬鹿だねと、私が笑う。
瞬間、心が冷めていくのを感じた。
バレた。バレた。バレた。
あの子に、貴方に、ジークに。
「……っ、わ、たし…………」
「フィーネ」
「私、私……」
「フィーネ」
「ごめ、なさ……っ、私のせいで、ジーク……、だから返そうって……」
「フィーネ、大丈夫だから。息を吸って」
口元をそっと塞がれて混乱する頭に指示が飛び込む。
体は直ぐに従って鼻で空気を吸い込んだ。
「上手だね、吐いて」
口元の手が外されて、口からゆっくりと息を吐く。
何度かそうして導かれるうちに呼吸が整ってきた。
それでも収まる気配のない心臓と頭が凄絶に訴えている。
ここにジークが来たということは、やっぱりそうなのだ。
「フィーネ」
緩慢な動きで私の頬に伸びる手を避けられなかった。そうしたくなかったし、避けてもきっと辿り着かれるのだろうけれど、私から受け入れたことに意味がある。
泣いてもいないのに頬を撫でる手が、理由もなくそこにあってくれる事実が痛い程辛い。心底に閉じ込めていた愛が暴れて胸が火傷したかのような錯覚を起こす。
「ジーク、ジーク」
「どうしましたか」
どうしてそんなに普通でいられるの。
「……私分かってるのよ。貴方、ここで死んだのでしょう」
「ええ。神に乞う為に身を投じましたね」
どうしてそんな簡単そうに言えるの。
「…………ジーク」
「はい、フィーネ」
「何で……」
私の為に死んだの。
神の気まぐれで生まれた魔女という存在は、生き方は、神の気まぐれでいつ終わってしまっても不思議ではない。
人の為の神ではないのだから当然だ。
いくら先達をなぞってもそこで終わりを迎える可能性は常に付き纏う。それでもいいと思える人間が、たまたま未だに慈悲を頂いていたに過ぎない。
「そのまま死ぬかも、しれなかった、の、に……っ」
ぼろぼろと、歯止めが決壊して涙が流れる。滑り落ちた涙の雫が湖に波紋を生んで、この場所はどこまでも綺麗だなと頭のどこかがそう感じた。
しゃくりあげながら泣くしかない私にジークは何も言わず、ただ肩を抱くばかりだ。だから涙が止まらない。布越しに伝わる感触が、温度が、失われたかもしれないと思うと怖くて怖くて仕方がない。
安心させてほしい。安堵できるような言葉をかけてほしい。
身勝手な欲求が涙と一緒に溢れる。止まれない。
「フィーネ、大丈夫だよ」
頬に当てられていた手と、肩に置かれていた手、そのどちらもが目元をそっと拭う。
何が大丈夫だ、なんて思うのに口から漏れ出るのは嗚咽ばかりで。
止まらない涙を拭い続ける手を掴む。そうやって縋らないと、存在を確かめておかないと、どうしたって心が崩れてしまいそうだった。
「……フィーネ、泣かないで。貴方がそうやって苦しく感じる必要はないんです。俺が、俺の為にしたことなんだから」
「死んで……しま、たら、どうするの……っ」
「いっそ、それならそれで良かった。フィーネ、俺は、貴方が無為に殺された地で生きていける人間ではないんですよ」
「わからない、わからないよ……」
「フィーネ、聞いて」
「死ん、しんじゃうかもしれなかった……」
「フィーネ」
「やだ、嫌だぁ……」
「フィーネ」
「私のせ、で……」
罪悪感、不甲斐なさ、寂しさ、苦しさ、切なさ、悲しさ、恐怖、色々なもので心が濡れる。
安心させてほしい。安堵できるような言葉をかけてほしい。
「フィーネ、聞いて。俺は貴方が好きです」
いつだって、私は言葉を求めていたのだから。
母に元気だよと言って欲しかった子。




