四・逃げゆく二人
沢筋は、暗かった。月は蝕から戻りかけていて、薄い光が雪面を青白く染める。詠華は私が転ぶたびに私の腰を受け止め、半歩先導した。
「詠華」
「はい」
「あの長老を刺した時、お前はどう思った?」
詠華は少し黙った。沢の音を聞きながら、慎重に言葉を選んだ。
「——怖かった」
詠華は正直に言った。
「怖かったけれど、迷わなかった。誰でもそうだった。姉様を穴主に差し出す人に、躊躇いは要らない」
私は詠華の手の甲に、自分の手を重ねた。白装束の袖が、袖無に戻っていた。
「詠華、私は、お前の血縁ではない。あの巻物に書かれた通り、お前が私を嗣として守ったと穢れを残すなら、私は正式に、白河の血縁ではない」
詠華の足が、一瞬止まった。
「なら」
詠華は振り返った。山道の薄い月明かりの中、紬の顔が浮かぶ。汗と血に汚れた頬、荒い息、けれどその目の底には、狂おしいほどの慈しみが宿っていた。
「なら、姉様を、私自身の血縁にする」
私は息を呑んだ。
「私と姉様で、ひとつの血を作る。姉様の手指を、私と同じ血で濡らす」
紬は立ち止まった。山道の横、少し開けた岩陰に、私を導く。
「姉様…いえ、紗夜さま。少しだけ、手を切らせてください」
詠華が短刀を抜いた。それを自分の左手首に当て、浅い切り傷を一本つける。赤い線が、月の下で光る。
「紗夜様も」
詠華は短刀の柄を、私に差し出した。
私はそれを受け取り、自分の左手首に、同じ切り傷をつけた。血が滲み、月の下で黒く光る。
詠華は、私の手首と自分の手首を、向き合わせた。
傷同志を、合わせた。
二人の血が、雪の上で混じる。紬の血と私の血が、一つの滴になって岩陰の雪に落ちていく。
「これで、姉様…いえ、紗夜様と私は、同じ血」
詠華の声は、月明かりの下で、半ば祈りだった。
「だから、穴主にとっては、紗夜様も穢れ、私も穢れ。同じ穢れを分けて持つ家族。どれを獲ろうと迷ううちに、私たちは逃げ切る」
詠華は私の手首を包んだ。自分の血で濡れた手で、私の血を拭う。痛いはずなのに、私には痛みよりも、深い熱だけが伝わってきた。
「紗夜様を側に置けるなら、私はどんな穢れでも被ろう」
「私は、お前となら、どんな地獄にも落ちよう」
私は詠華の手に、自分の血を押しつけた。
詠華の顔が、崩れかけ、また整えられた。
「紗夜様」
「何」
「ずっと好きだった」
詠華が初めて、告白の言葉を口にした。子供の頃から。一人称を、知らぬ間に。ずっと、ずっと、ずっと。
「私も、お前を愛している」
私は初めて、自分の告白を口にした。
二人の血が、雪に落ちて、ひとつになって凍る。




