参・供の夜
二月。
蝕が来た。
朝から空が薄墨色に冴え、日が傾く頃から、北の空に月が欠けていくのが見えた。村では、蝕の夜の空の下で、神事が始まる。村の者は家に篭もり、戸を閉め、注連縄を張り、神子の還りを待つ。
私は、社殿に居た。
白い装束、白い紙の冠、白い帯。私は美しく着飾らされていた。鏡は見なかった。見なくても、自分がどれほど神々しく飾り立てられたか、感じていた。重い白が、肩から腰から足まで覆い、私の重心を少し低くしていた。
詠華は、私の背後にいた。
給仕の給い。白い羽織を借られ、神子付きとして最後の勤めを務めている。顔は伏せ目がちに、けれどその度にちらりと私を見る。その瞳には、午後の雪のように、冷たく張り詰めた決意が滲んでいた。
「姉様」
詠華が、小さく呼んだ。蝕の進行と共に、社殿の空気が重くなっていく。古い木の匂いが強く立ち上り、どこかから鉄の匂いが混じる。
「主、起きる」
私は頷いた。
社殿の結界が、わずかに鳴った。注連縄の紙垂が、風に吹かれぬのにざわめく。奥の暗がりから、地鳴りのような低い振動が伝わってくる。
「姉様、覚えておいてください。あと半刻で、主は社の最深部から出ます。その前に、ここを出なければなりません」
詠華が私の手を取った。いつもの荒れた手が、今は逆に——私を守るようにそっと包み込む。
結界が解ける時が来る。
詠華は、それを読んでいた。巻物には、北の注連縄が外れる正確な刻が記されていた、と。
「姉様、参ります」
私は詠華の手を握り返した。
「詠華」
「はい」
「有難う」
詠華が、小さく息を呑むのが聞こえた。
蝕の刻限が来た。
結界の北端から、一音、音がした。鈴の音。古い鈴が一つ鳴って、それきり、何も聞こえなくなった。——結界が解けた、と、詠華が言った。
詠華は私の腰を抱いた。
「いきます」
詠華は黒い衣の下に、短刀を忍ばせていた。出ると同時に、社の階段の側に控えていた長老のひとりを——なく、詠華は刺した。
血が飛び散った。白い私の袖に、赤い飛沫がつく。詠華の頬にも血がつく。
「紗夜神子様が逃げたぞ」
外の村が騒ぎ出す。けれど、その声は私たちには遠い。詠華は私を抱えて石段を駆け降りる。三段、五段、十段。雪の積もった石段に、私の白装束の裾が引きずつていく。
「姉様、転ぶな!」
石段の二十段目で、私は一度だけ振り返った。
社の奥。結界の向こう。暗がりの中に、得体の知れない気配があった。重い熱と、古い鉄の匂い。それが、一瞬だけ、奥から凝視した。主が、私の名を呼んだ。——呼んだ、のではない。認めた、のだ。供物を、確かに見定めた。
「姉様!」
詠華の手が、私の手首を掴んだ。石段の最後の数段を、私が駆け下りる。
村の側を巻き、北の沢への細い道へ入る。その先に、北の峠。雪に半ば埋もれた獣道。詠華は、私が転ばぬよう私の腰を抱いたまま走り続けた。
「穴主は、すぐには追えない。社の結界が乱れているから、姉様と私の穢れを確かめに、一刻は社殿に留まる」
詠華が息を切らしながら言った。
「一刻のうちに、峠を越える」
「越えられるのか、この雪で」
「越えます。絶対に」
詠華の言葉は、もう誓いだった。




